【アップ】男山教会2023年4月30日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります
【本日の礼拝メッセージ】
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前奏
招詞
ローマの信徒への手紙 6章8~11節
頌 栄
たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り
十戒・祈祷
子ども説教
子どもと親のカテキズム問33
「イエスさまのまもり」
こどもさんびか
こどもをまねく[改5(2節)]
牧会 祈祷
讃 美 歌 361番(1,2)
聖書
ヘブライ人への手紙11章17~22節(新約P415)
創世記22章1~12節(旧約P31)
説 教
「信仰によって~イサクを献げたアブラハム」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 361番(3,4)
みことばの交読文
ヨハネの手紙一4章9〜11節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 541番
祝 祷
報 告
讃美歌~♬
讃美歌361番(歌詞付)54年版「主にありてぞ」
1
主にありてぞ われは生くる
われ主に、主われに ありてやすし
2
主にありてぞ われ死なばや
主にある死こそは いのちなれば
3
生くるうれし 死ぬるもよし
主にあるわが身の さちはひとし
4
われ主に、主は われにありて
天こそとこよの わが家となれ
頌栄集 讃美歌539・540・541・542・543・544番 メドレー
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(ブログを見て下さると歌詞を閲覧できます)
2023年4月30日 礼拝説教 中心聖句
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
ヘブライ人への手紙11章17節
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。
創世記22章10,11節
はじめに
「その独り子をお与えになった」神の真実を、信仰による献身者に学ぶ。
1
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」とは、「約束を受けていた者が、独り子を献げようとした」一大事。その約束とは、「この独り子について」「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」との、神の約束。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17章19節)。この「試練」とは、主なる神、自ら、「主に従う人と逆らう者を調べる」(詩編11編5節)試み。この意味で、アブラハムの受けた「試練」は、初めから、主なる神、自ら、この時を定め、アブラハムの献身とその心を見られた事。主なる神は、「正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(詩編11編7節)お方。事実、「アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを」献げた。それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」「信仰」による(11章1節)。アブラハムにとって「見えない事実」とは、イサクに代わって神自ら備えてくださる献げ物。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22章8節)との告白こそ、その証明。神が、その手を止めたとき、なおも、「アブラハムは目を凝らして見回し」「後ろの木の茂みに」「角をとられた」「一匹の雄羊」を「息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」(創世記22章13節)ことに、「信仰による」事のすべてが証しされている。
2
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」「それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然」。このイサクは、「信仰によって、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈」った。先には、アブラハムは、「同じ約束されたものを共に受け継ぐ」「イサク、ヤコブと一緒に幕屋に住」んだと言われながら、ここでは、「ヤコブとエサウのために」と言う。その理由は、神の恵みの契約が、ついには、一時の障壁を超えて、実現することを見るもの。つまり、アブラハムとイサクとヤコブの間に立てられた、神の恵みの契約は、ついに、キリストの到来とその贖いにおいて、ユダヤ人と異邦人の別なく、全世界的な救いが実現することを信じ、見ること。
3
「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たち一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝し」た。この「杖の先」とは、「寝台の枕もと」「床のかしら」(口語訳)(創世記47章31節)とは異なるギリシャ語七十人訳聖書からの引用。「杖の先に寄りかかって神を礼拝」するとは、寝台の枕もとから想像されるように、死期を前にして、安静にしている状態よりも、最後の力を振り絞って、神を礼拝する姿と言える。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与え」た(創世記50章25節)。実に、主がアブラム(後のアブラハム)に約束されたことの実現の証明(創世記15章13節)。
おわりに
「生きるにも死ぬにも」ただキリストの栄光が公然と賛美されることを願う理性的礼拝は、ただ主への献げ物であり、信仰による証明(フィリピ1章20,21)。
(Mynote)
二〇二三年四月三〇日(日曜日)、今日も礼拝を守れる環境が兄弟姉妹共に与えられて居る事を神様に感謝する。
〈子供メッセージ〉
『子供と親のカテキズム 問三三』
「王としてのイエス様のお働きは何ですか?」
「イエス様は、王として、御言葉と聖霊によって、私達の救いの為に、私達を治めて居られます。そして、今も悪の力と戦い、私達を支え、守って下さいます。ですから、私達は心を込めてキリストに従います。」
〈公同礼拝〉
『ヘブライ人への手紙』(第一一章一七~二二節)
『創世記』(第二二章一~一二節)
この箇所は両方共、人の信仰が試される箇所である。愛する一人子であるイサクを「生贄(燔祭)として祭壇に捧げよ」と神様に命じられたアブラハムは、神様の言われた通りに行動した。
『創世記』の箇所では、アブラハムはイサクと二人の若者と共に、神様に「行くように」と命じられたモリヤの地に向かう。そして更に神様が示された、そのモリヤの地に在る山に登り、イサクを燔祭として捧げなさいと、アブラハムは既に神様から教えられて居た。この事を、イサクと二人の若者は知らなかった。そしてその山を見付け、アブラハムは「私とイサクだけがあの山に登り、そこで礼拝し、その後、あなた方の所に帰って来ます」と若者に言い、手に火と刃物とを執り、イサクと二人だけで山に登った。
そして山を登りながらイサクは「父よ、火と薪とは在りますが、燔祭の小羊はどこに在りますか?」と父であるアブラハムに問うた。するとアブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えて下さるであろう」とイサクに応えた。詰りアブラハムは「イサクを燔祭として捧げる事」を悩みの内に思いながらも、同時に、必ず神様が全て良きに計らう形でご用意して下さる事を確信する程に信じて居た。
現代に置き換えても、この試練は常に全ての人々に降り注いで居る。疫病や戦争等もその試練に成る。その試練の中で、我々は何をして居るのか?これが大事になる。例えばクリスチャンである兄弟姉妹は皆、その試練の中でもそれまでと変わらず礼拝を守り、神様を信じ、その信仰の道を歩もうとしたのではなかろうか。
揺るがぬ信仰が大事になる。その揺るがぬ信仰は、神様の事を知る程に信じ、その神様が言われた事、教えられる事を徹底して信じ尽し、やはり知る程にその信仰を持つ事で得られる。
人間は全て、それ迄に体験して来た経験測で物事を判断する。過去にそれが例として在ったから、今度もその状況になればそれと同じ事(同じ様な事)が在るだろう…と予測する。そしてその予測を常識とし、正しいとする。だからそれ以外の超自然現象の事は、未来に起こる事柄としては真面に捉えようとしない。「そんな超自然現象など絶対に起こらない」と常識と経験論(経験測)を以て断定する。しかし視点を変えれば、それが既に矛盾して居る事にも気付く。その超自然現象は、宇宙の誕生、地球の誕生、生き物の誕生に既に具わって居る。神様が初めにそれ等を創られたから、今我々人間が認知出来る形(範囲)でそこに在る…と言う事に成って居ると気付くだろう。この無から全てが生まれた大前提を見失い、人間はただ見知る範囲でのみ常識を作り上げ、それを正義とし、その正義に何物も打ち勝てないと断定して居る。超自然現象は、既に人間の内にも外にも起きて居るのである。神様は、この様な超自然現象、即ち奇跡を人の歴史で何度も成されて来た。モーセの時や、各預言者の時、そしてイエス様の時に、当時の人々を始め、全ての現代人もその時の奇跡を聖書に読んで知る事が出来る。詰りこの超自然現象・奇跡とは、全ての人にとって、信じるか否かに在る。既に起きて居るその奇跡を、知るか否かである(知ろうとする姿勢を持つか否かである)。逆に「信じない・知らない」と言う人達の方に、そう言う事を補強する為の土台が無い。人の範囲には限りが有るからである。
これ等の事を踏まえる上で、アブラハムの信仰を全ての人は常に確認し、自分の信仰の在り方を知る必要がある。大事は「神様が自分にどう言われて居るか?」を知る事に在る。「良心の声に聴き従え」という言葉が在るが、この「良心の声」を神様の声と置き換えて良いかも知れない…と思う事もある。十戒に則り、聖書の教えに則り、信仰に添う上で、良いものは全て神様から来て居る。その「良いもの」の内に「良心の声」も在るとすれば、その声は神様から来て居るものと信じる事が出来、人はその良い方向へ歩く事が出来るとも思える。
アブラハムの信仰を再確認する事、これを覚え、常に正しい信仰生活を送る事が出来る様に、神様に祈り願う必要がある。
献金にしても信仰が先ず問われる。信仰を持とうとするから献金するのか?信仰を既に持つ故に献金するのか?この項目は対抗して居り、全く別物として良い。信仰を持つから献金するのであり、献金が先に立つものではない。もし献金が先に立てば、金で信仰を買う事に成る場合がある。詰りその信仰を持つ心の在り方が大事と成る。神様はその人の心の在り方を認められ、その上でその信仰が正しいものかどうかを確認される。
御使いが言った、「わらべを手に掛けては成らない。また何も彼にしては成らない。あなたの子、あなたの一人子をさえ、私の為に惜しまないので、あなたが神を恐れる者である事を私は今知った」(『創世記』第二二章一二節)
神様がアブラハムの心の在り方を認められ、アブラハムのその信仰の在り方が神様の前で正しいものであるとされた為、アブラハムは神様から「その一人子であるイサクを手に掛けては成らない、更に何もしては成らない」と生贄にするなと改めてそこで言われ、そのイサクの代わりに燔祭として捧げる一頭の雄羊が目前に与えられた。全ては神様の御計画と備えの内に、アブラハムもイサクも、その二人と共に来た若者は在った事に成る。全ては、正しい信仰に依る証明と成る。
【日本キリスト改革派 男山教会】
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【最寄りの教会検索用】
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Table Café~
「心を騒がせずに:信仰の力と変化する世界」
THE DAILY with Arthur Hollands 2023/05/05
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=UjQ7RRMP8q0
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop
Simon & Garfunkel - Scarborough Fair (from The Concert in Central Park)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=4Ccgk8PXz64
シバの女王 (Cover)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=WK2pgM4XgdA
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
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