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「シェアしたくないもの」が本当の自分を表す

家で過ごすようになって3ヶ月近くが経った。もともと4月には仕事でアメリカに出張する予定だったのだが、今思うと信じられない。カレンダーはどんどん新しくなっているのに、気持ちの面では何も変わっていない気もする。

突然だが、いち視聴者として、リモート番組の類は面白みに欠けるように感じる。入り込めず俯瞰して見てしまうから、楽しめないことが多い。出演者の前のめりなノリ、頑張ってる感、1,2秒の会話のラグ、レッドオーシャン。

生活者として、自分の時間を確保するために、そういう意識が働いているのだと思う。それでも好みの人たちの配信は何時間も観ていられるし、聴いていられる。自分が好きな人やモノは貴重なんだなと改めて気づく。

同じ家に住む彼女の仕事はコロナ前の働き方に徐々に戻ってきている。午後に家を出て、夜遅くに帰宅する。その一方で、僕はまだ家で仕事を続けている。今の段階で、9月末までこの働き方が続くことが決まっている。先は長い。それでも、すぐ元の生活に戻るつもりはない。

そうした中で、それでも心持ちはだんだんと変わってきている。在宅勤務が始まりだした2月中旬当初は、特別感も相まって「仕事に打ち込む」ような感じになれなかった。月並みだが、どうしても家だと張り合いがなく、集中力を保つことが難しかった。それがここ最近、ようやくこのステイホーム生活が板についてきた。

本当の意味で、「自分以外の人がどう過ごしているか」を気にしないでいられるようになった気がする。社会の動きとの距離感も掴めるようになってきた。3月、4月はリアルタイムにコロナ関連のニュースを取りに行っていた。その時は、そうすべきだと思い込んでいた。何しろ、世界中が100年に1度の危機なのである。

だが、4月も半ばに入ると、自分の生活を取り戻そうと思い始めるようになった。情報を見続けることが必ずし良いことだと思えなくなった。Twitterの情報は速いが「点」なのだ。無数の点を線に処理するための脳内活動が忙しい。必然的に落ち着いた生活からは遠ざかる。

自分の生活をことさら発信したいという欲もない。読んだ本の感想や観た映画の魅力を誰かに伝えたいという思いがもともと強くない人間である。今の世の中と相性が悪いなと思う。何でもシェアするのが当たり前。普通の人たちもみんな配信してるし、みんなそれらを見ている。

在宅の期間に面白い本をたくさん読んだ。映像コンテンツもいろいろ観た。でも、その感想を公開するつもりはない。「自分だけのもの」だから。他人がどう思ったのか興味はない。この期に及んでも他人の生活が気になるなんて、自分の時間を何だと思っているんだろう。

シェアしたくないものが本当の自分を表している。自分の中を表面的に通過しただけの言葉に誰が耳を傾けるだろうか。浅いコンテンツが溢れている今の世の中、それらを見てしまうと自分で自分を浅はかだと思ってしまいそうだ。

分かりやすいところに置かれたコンテンツばかり見て楽してはいけないなと思う。自分の内面と向き合い、自分の能力と向き合い、自分の生活と向き合う。そんなやり方が僕には合っている気がする。世に発信するのは後からでいい。


また読みにきてもらえたらうれしいです。