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大人になってからアイルランドへ語学留学しにいった話



「留年」と「留置所」

「留学」という言葉とかけ離れて生きていた学生時代。当然その言葉が話題に上ったことなんてなかったと思う。
当時わたしの周りで「留」という言葉が話題に上がるのは「留年」「留置所」くらいなもので、そんなものしか話題に上がらない時点で「留学」なぞ雲の上の存在であったことは言うまでもない。


水商売と借金地獄

若いころは水商売借金地獄だった。それはそれはなかなか過酷なことで、16歳から29歳まで、嘘でなくずっと借金に塗れていた。
働いても働いても減らない借金に、これも冗談でなく内臓でも売るかと考えたほどだった。この発想しか出てこない時点で「留学」を意識していたことは1秒もない。


借金地獄から脱出

29歳のときに13年間続いた借金地獄から抜け出した。
しかしもう29歳だった。「留学」をするには遅すぎだった、いや、正直に言うとこの時点で「留学」を考えたことはなかった。考えていたのなら、この年がワーホリする最後のチャンスだったことに気づけたはずだ。
わたしがこのときに選択したのはナレーターになることだった。ちなみにカメラを初めて買ったのもこの年だった。


ナレーターを目指す

30歳を過ぎてお芝居を始めた。これは大きな決断だった。
普通に考えて、いや、普通に考えたら30を過ぎて役者を目指すなんてどうかしている。このときのわたしはどうかしていたのでなく、いや、どうかしていたのかもしれないが、別に役者になろうと思って始めたわけではない。ただ、わたしが目指したナレーターという職業には「表現力」が必要で、それを磨くために始めたのだった。
わたしの人生において舞台になど、幼稚園のお遊戯会以外で立ったことがなく、とてもじゃないが自分が舞台に立つことなど想像することができなかった。


夢と現実

予想外にお芝居は楽しかった。何だったらこれまで味わったことのないような体験ばかりで夢中になった。
その甲斐もあり、わたしはナレーター事務所に所属することになった。
今後は活躍することになるだろうと大いに喜んだ。が、世の中そんなに甘くはない。仕事などほとんど取れず、バイトばかりで何がメインだか分からない状態だった。


芸の肥やし

そんな折、長いこと続けていたバイト先を会社都合で辞めることになった。ちょうど毎日が退屈で友人に話すネタも切れてきたころだった。
わたしはインドに行くことを決断した。なぜ!? という話だが、すごく簡単に言うと芸の肥やしにでも、と思ったわけだ。
退屈だった、刺激が欲しかった、そんなところだ。


キューバかインド

今でこそこんな生活だが、当時のわたしは海外などまったく知らなかった。そんなわたしがこのときインドにしようと決めたのは単にハードルが高い国がいいだろうと思ったからだった。キューバインド、どっちにしよう。選択肢はふたつだった。
で、インドを選んだわけだが、まあこれが本当に大変だった。


「Pay」の意味も分からない

当時のわたしの英語力は「ハロー」と「サンキュー」をカタカナ英語で言える程度。まあ学がないのだから仕方がない。酷かったのは「Pay」という単語すら分からなかったことだ。34にもなってだ......。現在は「PayPay」が存在するから、当時が今なら少なからず「Pay」くらいは知っていたかもしれない。しかしあの当時は「Pay」すら分からなかった。そのレベル故に初めてのインドは本当に苦労の連続だった。


留学という選択肢

きっかけはこれ。これを機に英語くらいは話せにゃならんと思ったわけだ。ここで初めて「留学」という選択肢が現れた。笑ってしまうくらい遅いのだが、わたしの人生ではここが初めてのタイミングだった。お芝居にしても留学にしてもこんな感じなので、おかげで何をするにも「遅い」とかいう概念はなくなった。
ちょっとずれているわたしは語学留学先をアイルランドと決めた。


留学に向けて

お金がかかることなのでしばらく働くことにした。
結構必死に働いた。平日、土日ほとんど休みなく働いた。どれくらい連勤だったかと言うと最高で72連勤、そこで休みが1日あってまた2ヶ月連続勤務とうのがざらだった。休みが貴重すぎたので休みの日は存分に壊れた。そのせいで友達が少し減った。
ハタチのころ働いていた時間が月400時間近かったので、この程度は余裕だろうと思っていたがストレスで体を壊した。尿管結石1回と鼠径ヘルニア1回。鼠径ヘルニアは入院と手術が必要だった。本末転倒になりそうだった。


苦肉の選択

ストレスも結構溜めたがお金は確実に貯めた。
所属事務所に「1年ほど休みをください」と申し出たが断わられた。「そういう人はだいたいみんな戻ってこないのよ」というのが理由だった。そのとおりになるわけだが、この時分のわたしには苦肉の選択だった。苦労した入った事務所を辞めることを選んだ。


結局

お金は貯めたのだが目標金額に少し届かなかった。それで行き先をアイルランドからフィリピンに変更した。わたしはフィリピン留学を毛嫌いしていたので、あくまでフィリピン留学は頭で、ゴールはアイルランドということを崩したくなかった。それでフィリピンからアイルランドまで旅をしながら行ってみようととりあえず決めた。


ホームシックっていうやつ

言うても初めての長期海外旅行。期間は決めていなかったが、1年は行くだろうと思っていた。だから最初はホームシックにもなった。そんなもんあるのかと疑っていたが、これは精神的なもので、本当にあることを身をもって知った。いつでも帰れると思うことで乗り切ることができた。


旅人マインド

しばらーくフィリピンにいて、そこからタイ、ミャンマー
ラオス、ネパール、インド、エジプト、スーダン、モロッコ。
ジブラルタル海峡を船で渡り初めてのヨーロッパ、スペイン。そこで悩んだ。すでに日本を出てから9ヶ月だった。アイルランドはすぐそこだ。しかし、アイルランドに行ってしまってはこの旅も終わってしまう……アイルランドは自分のゴールだからだ。この数ヶ月で会った旅人たちの影響を受け、すっかり自分も旅人マインドになっていた。
旅を続けたい...…。そう思ったわたしはいったんアイルランドに渡り語学留学はするけど、その後またどこかに行っちゃおう、ということにするのだった。


アイルランド留学

首都のダブリンから入り、語学学校の門を叩いた。どっかの留学エージェントに頼もうものならそれだけで無駄に高くつくことは当時から知っていた。だから自分の足で探そうと決めていた。
ダブリンから南のコークへ行った。ここでも同じように語学学校巡りをして、ようやく行きたい学校を見つけた。


カミラとの出会い

念願のアイルランド留学。憧れのホームステイ。
入学初日にテストがありクラス編成が行われた。そこで同じクラスだったのがブラジル人のカミラだ。
わたしはうっかりペーパーテストの成績がよかったせいで、少し自分のレベルより上のクラスに編入されたようだった。最初先生が何喋っているのかさっぱり分からなかった。宿題を出されるのだがそれすら上手く聞き取れなくて、隣の席のカミラに「聞き逃しちゃったから教えて」とあくまで分からなかったわけではなく聞き逃した体で彼女に教えてもらっていた。
後日、再びクラス編成がなされ、成績優秀者たちは別のクラスへと移っていった……いや、自分が下がったのかもしれなかった。
当然カミラとは別々のクラスになった。彼女の英語力はやはりわたしより優れていた。


終わりに

São Paulo

クラスは分かれてしまったが、わたしたちは同じグループでよくみんなで遊んだ。その中でわたしなど図抜けて年上だったが、滞在中ほとんど彼ら彼女らと一緒だった。
この翌年、わたしはブラジルに行くことになる。そこでカミラと再会した。彼女の実家にしばらく泊めさせてもらったのだが、彼女より彼女のお父さんとのほうが歳が近くて仲よくさせてもらったのをよく覚えている。

あれから8年、再びこのブラジルでカミラと再会した。
すっかり彼女も大人になっていたが不思議なことにそれほど時間が経ったようには感じなかった。
近いうちまた彼女の実家にもお邪魔させてもらう予定になっている。彼女のお父さんに会えるのはとても楽しみだ。

こう書いてみて改めて、人との出会いは一生の宝だと認識した。

応援ありがとうございます! なんだかいろんなことやていますけど、今後も写真家として活動し続けられるように頑張ります!!!