キャリアと抽象化のお話

のさらに本人深掘り版ですが、なにぶん就職氷河期一発目のおっさんの話なので興味ない人はスルーでw
時間軸に少し誤差ありますが、正社員としては下記のようなスキルとキャリア遍歴です。

1992年〜1994年 専門学校でビジネス系の学科で言語はCOBOLだったけどこれからはC言語だって思ってたので2年目からは理解ある先生にOKをもらい課題は独学でC言語で提出。
1994年前半 公園のベンチを温める。某ゲームセンターの契約社員になるが働きが悪くアルバイトに格下げされる涙
1994年〜1995年 某PHS会社のネットワークセンターで運用。運用ばかりではつまらないので、開発は主務ではないですはアクセス(VBA)を使って運用補助ツールを作りこれを実績として次にいく。
1995年〜1997年 開発の会社にようやく就職し、当時まだ走りだったオープンシステム系の開発に従事し、旧M社でPOSのパッケージなどの開発を行う(言語はVB・SQL・PLSQL)。
1997年〜1999年 飽きたので営業部長にいって制御系の案件に。関西の某W岬でファクトリー系の開発に従事。上司が尖っていた方でオブジェクト思考を叩き込まれる(言語はVC++と、なぞの言語)
2000年〜2009年 本当は上記の上司の下でずっと働きたかったが会社の命令で3Gの携帯電話の開発の面接をF原竜也のTVCMの会社に受けにいき、10人の面接者の中で携帯電話の開発経験のなかった自分だけが受かってそのまま携帯電話開発に。
のちになんで自分だけが受かったのかと聴いたら生意気そうだったからとの事(経験ないからどうせ落ちると思って生意気なあるべき論を並べたのが失敗)w。
携帯電話の開発は素人でしたが鍛えられていて携帯電話の開発がシンビアンというオブジェクト思考の変異体みたいなOSだったので、携帯経験ないのにオブジェクト思考含めアーキテクトとして活躍する。自分が作ったフレームワークのモジュールは多分2000万台ぐらい商品の上にのっかっています。
 この頃からチームを任されるようになり(正確にいうと目の前でリーダーが倒れて代わりをやるようになった)、それなりの規模のチームのマネジメントを行うが、傍でコードを書いていた(言語は主にC++。たまにWEB系の案件もやっていたががっつりではなかった)。ちなみに前半はS本氏と現場でコンパの話しや関係ない話しをしていたので、代表に目をつけられ、開発の偉いさん二人が代わりに影てものすごく代表に謝ってくれていたのを後から聴き反省する。
2010年〜2014年 F原竜也のCMの会社に転職し、スマートフォンの開発からWEBの開発にチェンジ。WEBの開発がしたかったのではなく、これからはクラウドって言い出すが社内からはお前は本屋の回し者かって言われ続ける。とりあえず前に進めたかったのでJAWS UG関西の支部長としてクラウド界隈と交流しながら人脈を広めていく。三都物語やFESTAなどの大型イベントを関西ファーストで運営のみなさまと一緒に実施しJAWS界隈でも関西はちょっと良い感じで扱われる(やってた内容は下記スライドで)。


ちなみにこの次のcloudpackからの声がけは技術的な話は全くなく、コミュニティを立ち上げた人間ならうまくやるだろう的な話しで大阪の立ち上げ責任者を声がけされます(他20社弱お声がけいただきましたが、全部技術的な話しではなくコミュニティ文脈でした汗。中にはマーケティングのポジションも数社あり40才の未経験のおっさんにマーケティングとは懐の深い外資だなともおもいました・・・)。
2014年〜2015年 cloudpack(iret株式会社) で当時なかった大阪オフィスの責任者として、オフィス立ち上げ・運用チームの立ち上げと実務・採用・雑用などを行い、30人規模までもっていく。
運用だけではつまらないと1995年と同じ流れで今度は運用の自動化にチャレンジ。当初運用のみの責務の大阪オフィスは本社にもない、MSP開発チームの立ち上げに成功する(最初はリソースないので自分一人で設計・コーディング・運用w。自動化のメインはLambda+SaaSベース。運用経験をした自分としては運用ツールを運用するという不毛は避けたかった)。
詳しい話しははてなBLOGに記載しているので、もう今となっては古いですがエビデンスとして貼り付けておきますw


2016年〜2018年  構築等も事例を作りよい感じで大阪オフィスは拡大していくが、やりたかったのはそこではなくcloud業界でSIer出の自分の実力が通じるのを見せつける意味(コミュニティや組織のマネージャーとしてはクラウド界隈では認知されていたがまだ技術的なアピールはあえて出してませんでした)と、MBSの担当者の方々の三顧の礼ばりの想いに折れて、当時なかったサーバーレス開発チームを立ち上げながら動画イズムの設計を行いました。


リリース後のネットのコメントで人類にはまだ早いアーキテクチャーなどとも言われ、2018年末のRe:Invent 2018では

画像1

でMBSさんのロゴが出て、とりあえずSIer出のチームメンバー達(チームのメンバーも基本SIer出)がクラウドのグローバルでも認められたってのが感無量でした。
ただここで比企はスイッチが入ってしまい、2年連続狙うのではなく興味が次にうつります・・・

2018年

2017年後半あたりからマーケティングに興味を持ち出して、どうマーケティングの案件を取れるかってところを考えているとあるきっかけ(長くなるので割愛)でLINEを使った開発を思いつき、MBSの水野さんに協力していただき、LINE API案件第一弾の「おしゃべりらいよんチャン」の案件化に成功しました。

MBS水野さんが首を縦に振ってくれなければ今の自分はなかったとおもいます。動画イズム含めMBSの方々には今も感謝しています(次のチャレンジで中途半端に去ったのはすみませんでした)。そしてその流れは2018年の大成功案件

へとつながりました。ツイッターのファンの方々の毎分投稿される呟きややりとり、そしてそのトラフィックを受け止めたサーバーレスアーキテクチャーでここまでできるんだと自分でも感動した覚えがあります。

2019年以降は現職に転職し、マーケティング観点のDevrelを強く意識してお仕事させていただいており、フィードバックだけでない、Developerとの関係性をもっと高める為に、組織内の理解や組織とDeveloperが連携する為の理解の為の可視化などを行なっています。これも何らかの結果(成功・失敗とわず)がでれば共有できればなとおもいますが道半ばで余計なハレーションも産みたくないので、今はアウトプットしません。またAPI SHOW CASEを作る為、事業会社のマーケティング関連な方々ともお付き合いでき、今は学習ベースですが、その代わりお客様の考えを理解しそれをLINE APIや技術でどう実現するかで学習の代わりに貢献させていただいています(あくまでギブアンドテイク)。

 だいぶんと長くなりましたが、転々と興味がうつり実績を作っていったのですが、その時に絶えず気にしてたのは、失敗しない為にどうするか?です(比企=案件成功請負人のイメージ(それはしっぱいもあります汗))。受ける案件の性質を変えるのはリスクしかありません。そして現場の期待値は、現場で必要な業務知識と経験です。
そんな期待値を無視して前の実績でマウントをとりにいくwのではなく(行けば半年後に組織は自分をわかってくれないとか言い出すとおもいます)、前の実績を抽象化して、貢献できそうな説得材料を用意して、現場の内容を謙虚な姿勢で取り込みながら、抽象化した内容であとで強みを見せていく方法でした。
前の実績をほこってマウントとれれば楽なのですがwなにぶん新しい領域への挑戦なので現場の方々のマウントをとりにくる先輩方とやりあうと村八分にされます。なので謙虚に取り込みながら抽象化した内容で強みでフォローすると言う事を続けました。

 飽きやすいおっさんの話しなので、ここまで変化するケースもないとおもいますが、メモの魔力などでも抽象化大事って言われてますし、キャリアで悩んでいるかたは一度ご自身のスキルを抽象化してみて考えてはいかがでしょうか?



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