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【単語ガチャ②】お茶×車

とても美味しいお茶を売り歩くものがあるという。

昨日の晩のこと、八百屋に寄った帰りにご近所さんから聞いたのだが、月が少し欠けた頃に忽然とこの沿道に現れるらしい。

ご近所さんもご近所さんに聞いたと言うから、本当のことかは分からない。噂話は十聞くと九は嘘なのが相場である。

それでも何となく気になった私は、次の満月から待ってみることにした。

一晩目と二晩目は一刻ほど待ってみたが、人が通る気配もなく、ただただ月が明るいだけだった。

三晩目、昨日より遅めに外に出てカラカラと戸を閉めているときだった。遠くから別のカラカラという音が聞こえてきた。
音のした方を振り返って暗がりに目を凝らすと、白い頭巾を被った女の姿が月明かりにぼんやりと見えてきた。

女は両手で車を引いていた。さっきから聞こえるカラカラという音は、車輪が回る音だったようだ。車には”茶”と書かれた古びた幟が立てられていた。

あぁ、あの噂話は本当だったんだ...。と息を止めて女の方を見ていると、すぐ目の前で女が立ち止まった。

「あ、あの。お茶を売ってくださいな。」

少し勢い込んで茶筒を差し出すと、女は微かに頷いて車の荷に掛かっていた掛布を捲った。すると茶葉の芳ばしい香りが辺りに広がり、なんとも言えない幸せな気持ちになった。

女は茶葉のたっぷり入った竹かごから、ひとすくい、ふたすくいと茶葉を茶筒に入れていく。美しい手つきで茶筒の蓋を閉じると、私の目の前に差し出した。

女の所作に見入っていた私は我に返り、お代をと巾着を取り出すと女は首を横に振り茶筒を私の掌に軽く押し込んだ。そしてくるり踵を返すと、車の荷を整え始めた。

私は少し考え、懐の温石と首巻を差し出した。女がとても薄着にみえたからだ。立春の時期とはいえ、まだまだ寒い。

「お茶のお礼です。使っていたもので申し訳ないけれど...。」

女は少しためらっている様子だったが、少し微笑んで受け取った。取っ手を手にし、カラカラと車を引き始めた女に軽く会釈をして顔を上げると女は何故かぴたりと止まった。そして、顔を少しこちらに向けた。

「今日のことは、どなたにもお話にならぬよう。」

え、という声が出かかったが女は軽く会釈をして暗闇に去っていった。女の声は柔らかかったが、切実に訴えかける響きがあるようにも思えた。

どういうことだろうと茶筒を見つめる。ポンと蓋を開けると、今までに嗅いだことの無いえも言われぬ芳ばしい香りが全身を包むようだった。

次の日、街のお茶屋さんを何軒か回ったけれどあの茶葉の芳醇な香りに勝るお茶は見つからなかった。

ある時、友人にあのお茶を振舞った。
やはり、あのお茶の香りには不思議な魅力があるらしい。1口飲むやいなや、友人は目の色を変えた。どうやって茶葉手に入れたのか何度もしつこく聞いてくる。京で奉公しているおばからの贈り物だと嘘をついてどうにか言いくるめたが、その時から人前に出すまいと心に決めた。

___あれから数十年、毎日あの茶葉でお茶を淹れているのだが、どういうわけか茶葉は一向に減らない。香りも落ちることなく、初めて嗅いだ時の瑞々しく豊かな香りを保ったままである。あの日以来、幾度となくあのお茶売りをこの沿道で待ってみたが、二度と会う日はなかった。

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