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反日の愉悦

H氏賞をとった辺見庸が多くの人たちの前で旧日本軍の残虐に
ついて語っている。会場にはおごそかな雰囲気がただよって辺
見の鷹のような嘴がひらく。

  中国の農民の母親とその息子を連れてきて
  ですね......で、

行き場を失くしたように目を虚ろに細め、口を軽く開いて、
蝋のような汗を浮かべている辺見。

  兵隊のド真ン中でですね、エー、お母さんと.....
  その
  お母さんと子どもにですね、セックスをやらせると.....

聴衆のほとんどは中年を過ぎた年配の人たちで、目を瞑り、力な
く首をうなだれて眠っているようにすらみえる。

  このう、親子でセックスをすればですね、エー 
       お前たち救けてやると。という風なことを隊長
  がいうわけです。最後はどうしたかというと、
  石油をかけて、ガソリンをかけて焼き殺すわけ
  ですね。無造作に。

H氏賞をとっただけでなく有名な元新聞記者であり小説家でもある
辺見は壇上でこの瞬間、歓喜にふるえるように、突然、椅子の前で
交差させた両脚をぶるっと震わせた。

  エー、皇軍というのは色んなことを、クリエティブというか、
  創意工夫に満ちたことをやらかしたわけです。

ありえない話だ。テレビを見ながらわたしはすぐにウソを見抜いた。
女性はともかく男の生理はそんなものじゃない。
男性ならわかるはず。アレの勃起はかなり精神的な要素が強いのである。
大勢の兵士の銃剣に囲まれたなかでは、どんなつわ者でもアレは機能しないだろう。アレは、筋肉じゃないのだから。力んだからといって励起するものじゃない。まして母親だから、なをありえない。せいぜい抱きつくことが精一杯だろう。
それから、皇軍にとって"ガソリン一滴は血の一滴"といわれていた時代だ。
捕虜を焼くのに使うはずがない。バレれば軍法会議ものだろ。
"強制的な母子相姦"も"ガソリンで焼いた"も創作だと直感で判断した。
思った通りこれは事実ではなく武田泰淳の小説をまるで事実のように語っているのだった。
詩人はこともなげに続ける。

  これは武田泰淳の小説の中に出てくる話ですけども
  ぼくも同じ物書きの端くれとして見ないで書けることと
  多少は見聞きしていないと書けないことがあるわけですけれども、
  これは見ていないと書けないものだと
  僕は思っているんです。

後付で創作話だといっても、もうだれも聞いていない。みな俯いて自らの罪責感につぶされそうに小さくちじこまっている。
詩人が挙げた武田泰淳の小説『汝の母を!』を読んでみると明らかに
つくり話だということがわかる。
さらに調べてみると、幼年期から武田は母子相姦に関心をもっていたようだ。その意識がこのような創作になって表れたのか。

しかし、わたしは主観で断定はしない。ただ、小説を検証して、辺見が微妙に武田の小説を粉飾していることがわかった。
武田の小説の設定では「子ども」ではなく「青年」になっている。
「子ども」だと皇軍の異常さが際立つし「無造作に」....焼いた、
というのもこの詩人の"創作"的発言だ。どうしても皇軍を残虐異常な存在としたいのか。いずれにせよ、武田の小説が作り物である感はいなめない。むしろ、この小説を読むと心理学的には武田泰淳の心の奥底にある悪巧みというか、歪んだ妄想のほうが気になる。そういう意味では詩人のいうとおりクリエティブで創意工夫に満ちたつくりものの物語だ。

  子どもは母親を救けたいと思う、母親は子どもを救けたい
  と思う。その一心から、かなり
  エー、

(かなりも何も無理でしょ? そんなことは)

  エー、.....無理なことですが、......エー
  余儀なくやってしまう。

(いくら「余儀」がなくても無理ですよ、妄想の産物の域を出ませんよ)

しかし詩人はそれが創作であったことを忘れたかのように日本兵がいかに残酷であったか、堰をきったように語りはじめる。
凄いトリック。創作をまるで事実あったかのように聴衆に植え込んでしまっている。その愉悦に満ちた元気そうな表情が印象的だ。とてもリア充しているのがひしひし伝わる。不謹慎な妄想だがひょっとすると詩人はいま射精的快感に酔っているのかもしれない。

もちろん旧日本軍が中国に侵攻したことは歴史的事実だ。
しかし、こんな創作的妄想をまるで事実のように語って日本人に罪悪感を
植え付けることにいったいどんな意味があるのか?
話を聞く聴衆の態度もわたしには不可解だ。
この方たちはどうしてこんな話をうなだれて聞き入っているのか?
一様に元気がなく、よしっ、と立ち上がる気配もみえない。

わたしはかつて辺見庸のファンだった。
出版物はすべて読んだ。講演も聞きに行った。しかしいまだに不可解なのだ。辺見がいったい何を考えているのか、わからない。
辺見が日本人をうなだれさせるために引用した武田の小説には相姦を強いられた母子の思想的哲学的な長い対話が出てくる。
当時は(あるいは今も)この対話は文学的な評価を得ているのかもしれないが、この対話はポルノサイトの"同人"投稿欄に充満する母子相姦マンガの世界とすこしも変わらない。
よくもまあこんな陳腐な(相姦を強いられた)母子の対話を書けたものだ。
、とわたしがあらためて感じるのも、時代のせいで昭和文学を支えていた何かがどんどん崩れている兆しなのかもしれない。しかしこの国ではいまだに武田泰淳のようなものがありがたがって読まれているし、辺見庸のような人物が日本人をこき下ろすことでリベラルの称号を与えられている。不思議な国だと思う。


 ※参考資料
●NHK『こころの時代』辺見庸
https://www.youtube.com/watch?v=ZzxIz-5nyuA
(現在はyoutubeから削除されております)
●短編小説『汝の母を!』武田泰淳
http://bungeikan.jp/domestic/detail/451/
(日本ペンクラブ電子文藝館)

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