北の果てのロマンス

タイニーリルは、たまごを持って生まれてきた。

たまごを持っているのは特別な個体で、他のものより、ひとまわりは大きかった。豊かなヒレのドレープは、泳ぐたびにひらひらと、しなやかな腰にまとわりついた。

タイニーリルは、とても速く泳ぐことができた。

仲間が共食いしているときも、いちはやく逃げて、遠くで涼しい顏をしていられた。

たったひとりで海面近くまで浮き上がり、光を浴びて帰ってくることだってできるのだ。ほかのだれにも、そんなことはできやしない。

何故ならタイニーリルの仲間は、強い光にとても弱く、ちいさな個体なら一瞬で干からびて、死んでしまうかもしれないからだ。だからこわくて、だれもそんなことはしないのだ。

太陽の光は強烈な刺激だ。海の底にいては味わえない。だからタイニーリルにとって、それはたまらなく新鮮で楽しいことなのだ。

海面スレスレを我慢できなくなるまで泳ぎ、つぎに力強くジャンプして、海底深くへ潜っていく。その冷たい水の心地よさ。ぐんぐん加速していく面白さ。

タイニーリルは泳ぐことが大好きだ。

ときどき海藻を食べ、泳いで、眠って一日を過ごす。

けれど泳ぎに夢中で気付かぬうちに、同胞たちは、たえまなく争いあい、互いの体を食べあって、どんどん大きくなっていた。

そのなかで、とくに大きくなったものが女王となる。

女王はタイニーリルとおなじく、たまごを持った特別な個体だ。その肉体はとても大きく、うっとりするほど艶めかしい。

女王の誕生により、たまごを持たない個体は、いっせいに色めき立ち、さらに激しく争いあい、この争いの勝者が王となる。

王は、女王のために宮殿を建て、女王は宮殿にたまごを産む。

王になれなかったものたちが、諦めきれず宮殿のまわりをうろつくおかげで、王と女王は食べるに困らず、さらに大きく、強くなる。


そんななか、タイニーリルは、いっそうしつこく追われるようになり、ほとほと嫌気がさしていた。

じぶんより大きな個体が何体も追いすがり、あわやヒレを食いちぎられそうになったこともある。鍛えた泳ぎで逃げ切っても、追っ手の数は日を追うごとに増えるばかりだ。

海藻ばかり食べていたタイニーリルは、さほど大きくならなかったが、共食いしていた同胞たちは、以前と比べものにならないほど大きくなっていた。

(ちいさいやつだ)

(みすぼらしいやつ)

(こんなやつが、たまごを持ってるなんて)

(そらっ、たまごをよこせ)

かれらは攻撃性をあらわにタイニーリルを追い回す。

そんなある日、海底に沈む、むきだしのたまごをみつけた。無残に引き裂かれた肉の破片が、あたり一面に漂っていた。

たまごには新たな命が宿っていたが、誰にも顧みられず放置されていた。

それが、女王になれなかった、たまごを持つ者の末路なのだと、タイニーリルは唐突に悟った。

(つかまったら、ああなるんだ)

それからは必死になって逃げた。毎日どこかしら噛みつかれ、ついばまれ、自慢のヒレがボロボロになっても、休むことは許されなかった。

(たまごを守らねば)

いままで、たまごのことなど考えたこともなかったのに、いまでは、そのことばかり考えさせられた。

たまごは放置されても、やがて孵るだろう。だが、放置された稚魚はそう簡単には大きくならない。女王のこどもの、半分ほどの大きさにしかならないだろう。それでは、かれらの餌になるために生まれてくるようなものだ。

なにより、自身がまるで命のないもののように扱われ、引き裂かれ、たまごをとりだされ、捨てられる。そのことが、途方もなく恐ろしいことに思われた。

タイニーリルの逃げ足は速かった。
ちいさな体で岩場をすりぬけ、急旋回して追っ手を攪乱した。

けれど、そんな日が何日も続くと、夜も眠れず、全身が傷つき、ついには疲れ果てて海の底へと落ちていった。

幸い、そこは生い茂った海藻のなかで、すぐには追っ手に捕まらなかった。頭上で追っ手の影が、いったりきたりするのをぼんやりみながらタイニーリルは意識を失いかけた、その時だった。

(こっち、こっちきて)

遠くから、くぐもった囁きがした。

(ねぇ、ねぇったら)

だんだん近づいてくる。

(きみ、逃げてきたんだろ)

ハッと気づくと、同胞の、とてもちいさな個体が間近にいた。タイニーリルは、ぎょっとして逃げようとしたが、もう体が動かなかった。

(ああ、もう動けないんだね)

ちいさな個体は悲しげに明滅し、タイニーリルのからだに触れた。

(わたしを食べるの?)

(え、まさか)

ちいさな個体は、タイニーリルを運ぼうとしていた。

よく見ると、この個体はヒレの長さが左右で違い、そのため、よちよちしたあぶなっかしい泳ぎをしていた。苦労して安定のよい場所までやってくると、海藻と海藻とを結んで、ちいさな庵をこしらえ、タイニーリルの体を隠した。

(きみのことを知ってるよ。ときどき海の底から見上げていたんだ。あんな速い泳ぎを見たことがない。きみはきっと、この海でいちばん速い)

ちいさな個体は、まるでじぶんのことのように誇らしげに明滅すると、こんどは恥ずかしそうに鈍く光った。

(ええと、ぼくはね、なかまを食べたり、争ったりするのはイヤなんだ。ここで静かに、海の音を聞いていたり、貝と話したりするのが好きなんだよ)

タイニーリルは驚いた。

(貝って話せるの?)

(え、それはきみ、貝に失礼だよ。彼らはそれぞれ個性的で興味深い考えを持ってる)

(まあ)

貝のことなど考えたこともなかったから、タイニーリルは素直に驚いた。その素朴さが心地よかったのか、ちいさな個体は、くすぐったそうに明滅した。

(ぼくは、イーヨ、きみは)

(タイニーリル)

タイニーリルとイーヨは、なかよくなり、閉ざされた、狭く濁った海底で、ひっそり暮らした。

けれど、平和な時は長く続かなかった。

深手を負ったタイニーリルは、ほどなく死んでしまった。あとには、たまごだけが残された。

イーヨは悲しみ、途方に暮れたが、たまごのために慣れない狩りにでかけていき、やっぱりすぐに死んでしまった。

ふたりのたまごは放置されたが、イーヨによって幾重にも厳重に結ばれた海藻の庵に護られて、すこしづつ育っていった。やがて生まれてくるのは、他の個体より少し小さく、とても素早い、隠れるのが上手なこどもたちだろう。


いっぽう、女王は豪奢な宮殿に、おおきくて立派なたまごを産みつけた。けれど、たまごが孵るまえに死んでしまった。からだの内側から病気になり、なすすべもなく朽ちていったのだった。

かわりに女王の侍女が、たまごを育てることになった。

侍女は女王の忠実なシモベだったが、じきに新たな女王となり、宮殿内にじぶんのたまごを産みつけると、王の目を盗んで、古いたまごを、ひとつずつこっそり食べてしまった。

王は、なにも知らなかったし、知る必要もなかった。古いたまごも、新しいたまごも見守ることはせず、ひとりで旅に出かけるからだ。

よその王と戦うために。

王というものは、そのために存在するし、それゆえに強くあらねばならない。そのためには、より多くの、より大きな個体を喰わねばならない。

こうして、王というものは際限もなく巨大化する。

そして、やがては海を覆いつくさんばかりになるが、その巨体を維持することができず、じきにヒレの先から腐れ落ちて終焉を迎える。

しばらくは腐肉にまみれた死の海と化しても、それから、またしばらくすると、それらが海底に溜まって養分となり、新たな命を育む助けとなる。そこからまた新たな女王が、そして新たな王が誕生する。


北の果ての暗い海の底では、もう何万年も、こんなことが繰り返されている。

『北の果てのロマンス』 完

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