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教室からまち、まちからラジオへ(魚田まさや・阿部健一対談|前半)

「すみだ川ラジオ倶楽部」作者の魚田まさやさんは、ひとつ前のラジオ演劇「今日のたかまつ アーカイブス」に取り組んだ練馬区・高松での活動から、相談相手として伴走していました。
12月なかば、そんな魚田さんとuniの阿部でふりかえり対談を実施!大ボリュームの対談を、前半・後半に分けてお送りします。
前半ではどうしてuniがラジオ演劇に至ったのかを、魚田さんの質問に答えるかたちで紐解きました。
「すみだ川ラジオ倶楽部」までたどり着かず!今作の話は後半でお届けします。
(収録:2022年12月14日 会場:北條工務店となり) 

◆  ◆  ◆

左・阿部健一、右・魚田まさや

阿部
今日は魚田さんとふたりで、「すみだ川ラジオ倶楽部」やここに至るまでのuni、というあたりを紐解いていきたいと思います。uniではやったことを記録に残したり、後から検証することを大事にしているので、今日は会期中のホットな状態を残しておけたらと思います。

魚田
よろしくお願いします。大まかには、①これまでのuni、②今回の作品、③これからのuniっていう、大まかに3つに分けてお話聞いていけたらなと思うんですけれども。 

阿部
はい、お互いにね。  

環境やできることを面白がって

魚田
まず、気になっている方も多いのではと思うんですが、uniは劇場でやらない演劇団体というイメージがあります。そもそもなんで劇場の外でやるようになったんでしょうか? 

阿部
活動開始が2010年、まだ大学生だった頃で、演劇系の大学だったので自分たちの団体をつくって、そこでやりたい表現活動をするっていうのがある程度一般的だったんですけど。劇場も使うけど、劇場じゃない場所でもやる、というかまえで学生の頃からやっていました。

魚田
あ、はじめから。

阿部
割とはじめから。

魚田
そもそも何かモデルになる活動があって、その影響を受けて集団を立ち上げたのでしょうか?

阿部
そういうわけではなくて。いま思うと環境がそうさせたというか。学生が劇場を借りるってとき、まず経済的にどう回すかということがあって。お手頃な劇場でも、数十万円の単位でお金をどうにか工面しながらやっていく。社会人目線で見れば小さな事業規模なんだけれど、学生からするとけっこう大事で。あと「動員する」ことの得意・不得意も多分ある。そのなかで、みんなが手始めにやっていたのが教室公演。

魚田
教室を劇場に見立ててやるという。

阿部
当時のマインドとして、劇場の代替品としての教室ではなくて、教室って場所でやれることを考えたらいいじゃないか、そういう感覚で臨んでいた部分がありました。
 
魚田
なるほど、教室の教室性を見ないようにする、隠しちゃうんじゃなくて、教室は教室、でも劇場でもあるという、両立を目指した?
 
阿部
そうですね。いまやったら怒られると思うんですけど、窓を出入り口にして、窓の向こうに見える景色もつかったりとか。その場所がどうなったら面白いとか、普段教室としてその場所をつかっている身体のお客さんが、そうじゃない出来事を体験するっていうところが面白くて、学生のときから創作活動をしていたなと思います。
 
魚田
なるほど。教室を素材として意識して、相体化して使うっていう。
 
阿部
劇場が演劇にとって唯一の場所とは最初から思ってなかったのかもしれない。いま思うとその態度がどこから来たのかは不思議。その都度使える環境やできることを面白がって活動していました。その後は教室に限らず、学内でもまた別の空間を使ったり、 移動しながらもいいじゃないとツアーパフォーマンスをやったり。学外だと廃工場を借りたり。でも、劇場を使った公演もあった。※1
 
魚田
そうなんですね。 劇場と劇場じゃない場所、両者でやってみての違い、あるいはここが違ったから劇場の外に出ていったっていう決定的な違いってあるんですか?
 
阿部
劇場の場合は、そこで起こることを頭から終わりまで用意するという面があると思っていて。例えばまちなかと比べると、まちはこちらが用意していないものがそこにある。 ツアーパフォーマンスの場合は観客のそばを車が通るし、普通に生活しているひとがいるし、こちらが用意したのではない建物が建っていて。それが大きな違いですね。その場にしかないものや、フィクションと本物が混ざり合う状態が面白くて、劇場じゃない場所でやっていたと思います。

※1 学生時代のuniの活動記録はこちら

創作プロセスとしてのひととの関わり

魚田
最近の活動を見てると、まちを単に借景として使うというより、取材を重視していて、それをもとに作品をつくってと、地域と自分たちのあいだである種循環するようなかたちを取っているようにも見えるんですけど。そこは自然にそうなってたんですか?
 
阿部
えっと、前向きなモチベーションと、その時の困りごとがあったのかなと思います。困りごとの方は、当時uniは僕と新藤秀将というメンバーのふたりで公演の中身を考えて、なので劇作もある種の共同作業ではあったんですけど、だんだん作品をつくることに苦しさを感じてきていて。活動が3年くらい積み上がって、いろいろな意味でちょっとずつ責任や規模が大きくなっていくなかで「決められない」って状態が増えてしまったんです。作品がつくれない、あるいはつくるのにものすごく時間がかかるみたいなことに。
 
魚田
うん、うん。
 
阿部
どこから話せばいいんだろうなあ。
 
魚田
外でやるものって、本当にいろんな方法があって。でも、uniは地域を匿名じゃないものとして扱って、そこと半分融合しながら作品をつくり、しかも地域にもなにか還元しようとしていますよね。あと特徴的なのはアーカイブをすごい残すっていう。そういう方向に進んでいったモチベーションを聞きたいです。
 
阿部
つくり続けることに困っていた頃、いくつかの機会がありました。岩手の西和賀町での滞在製作の事業にuniとして参加したことや、そこからの縁で江古田のアートプロジェクトに参加したこととか。そのあたりが、まちを意識しながら作品をつくる直接のきっかけだったと思います。大学を卒業する前後のあたり。
 
魚田
西和賀町ではどういうことをしたんですか?
 
阿部
西和賀は、奥羽山脈の真ん中にある豪雪地帯で、そこで開催されていた銀河ホール学生演劇祭という事業に参加しました。温泉旅館に泊まりながら一週間で作品をつくって、まちの劇場で発表するってプログラムだったんですけど、「滞在している」こと自体をテーマにしたいねと話して。なにか架空の存在が滞在していて、まちで過ごしたり、触れ合ったりして、最後にそのひとたちのお別れの挨拶を劇場でするという架空のドキュメンタリーみたいな企画をやりました(uni021越境演劇「よかれと思って」)。メンバーの齋藤優衣さんが衣装だけ先につくって、それを着たなにかがまちに1週間いた。

uni021越境演劇「よかれと思って」@銀河ホール

魚田
面白そう。それを経て感じたこととか、考えたことがあった?
 
阿部
それまでも劇場じゃない空間での活動はやってたわけですけど、地域のひとと触れ合うことが創作プロセスに入ってきたのは西和賀が最初でした。だから西和賀より前は、借景に近い。それが面白かったっていうのはあります。旅館のひと、観光のひと、保育、デイサービスを訪ねたりして、演劇を通してさまざまな種類のひとと関わる経験になって。山間部ということもあって、西和賀町ではいろんなひとが領域を越えてコミュニケーションを取っている様子も見えた。そこになにか新鮮さを感じていました。
 
魚田
閉塞感を感じていたところに、新しい考え方の可能性が見えてきたということでしょうか。
 
阿部
楽しかったんですよね。心が動く瞬間が一週間の間にいろいろあったなって思います。それがどういうことだったのか、そのとき言語化できていたわけではなかったんですけど。

取材をもとにつくる

魚田
それで東京に帰ってきて、江古田に?
 
阿部
西和賀ではuniが参加した学生演劇祭と、旅館を舞台にしたアートプロジェクトが同時開催されていたんですけど、旅館の活動のほうに江古田のまちを使ったアートプロジェクトで実行委員をやっていたひとが参加していたんです。西和賀での作品に興味を持ってくれて、「実は江古田でこういうことやってて」と誘われました。

魚田
え! わざわざ東北まで行って。すっごい地元の。
 
阿部
そうそう。もちろん芸術系大学っていうバックグラウンドがあるひとたちが参集していたんですけど。「江古田ユニバース」という企画で、江古田のまちを舞台にできるのは面白そうだったので参加することにしました。でも、そこでもやっぱり苦労したんです。
 
魚田
なんと。
 
阿部
さっき話したスランプみたいなことが色濃く出た。
 
魚田
決めきれないっていう。劇作家というか、そもそも自分が意思決定することへの疑いみたいな?
 
阿部
江古田ユニバースではまちなかで参加型のツアーパフォーマンス(uni022町中演劇「ちょいとそこまで」)をやったんですけど、 どういうお話にしたいのか、どういうお話を通して観客に心動いてほしいのか、自分のなかの納得を積み上げられなくて。その時はいまみたいな取材ベースではなく、 もっと感覚的に、この場所を舞台にやりたい演劇を考えようってプロセスだったんですけど、いやー、うーん、みたいな状態が続いてしまって。
 

uni022町中演劇「ちょいとそこまで」@江古田駅北口一帯

まちの一角をお借りして活動するなかでいろんなひとと出会ったり、お話を伺う機会もあったものの、まだそれが作品まで結びついてなかった。それを真正面から扱っていくようになったんです、その次から。

魚田
それは江古田で?

阿部
江古田で。これはアーカイブの話ともつながっていくんですけど。2013年の江古田ユニバースでお世話になったのが「江古田市場※2」というマーケットだったんですが、その市場が2014年いっぱいで閉場になるということを聞いたんですね。ぼくは江古田生まれなので、ずっと市場の近くに住んでいるのに知らなかったヒストリーがあることを、江古田市場に足繁く通って関係を築いてくれた優衣さんから聞いて知って。これはなにかのかたちで残った方がいいと考えた。オーラルヒストリーを残そう、ということとそれがシェアされる場としての演劇。そうそう、その頃から徐々にローカルメディアとしての演劇ということも考えるようにもなっていきます。

魚田
ローカルメディア。

阿部
コロナ禍で状況が変わってきましたけど、やっぱり遠くに住んでいるひとが演劇を見に来ることは簡単ではない。演劇は基本的に場所の縛りがあるメディアじゃないですか。かつて旅芸人が情報の運び屋だった、みたいなことも思い浮かべつつ、このまちの出来事を伝える場としての演劇、それを通りすがりのひとからも見える場所でやるという、ある意味すごく原始的な方向で演劇を考えることに魅力を感じたんです。そういうかたちで演劇を成り立たせていくと、演劇人のためだけじゃない場が生まれるんじゃないかってことが、小劇場周辺でやり続けることとは別の路線であった。周りを見てもそれをやってるひとはいなかったし。「伝聞劇」っていってた時期もありました。「21世紀の伝聞劇をつくろう」っていうキーワード。そうしてやったのが、高松編の前身でもあるちょいとそこまでプロジェクト❶練馬区・江古田編「ナイス・エイジ」という作品です。江古田市場の百年史を扱った演劇。米山昂と沖崎美海という劇作家に加わってもらって、3人でテキストをつくりました。そう、長くなってしまうのであれですが、創作体制も少しずつ変わっていました。

※2 江古田市場:戦前から続いていた江古田駅北口の生鮮市場。2014年に閉場。市場を中心とした「江古田市場通り商店街」は、市場なきあとも続いている。閉場のときの様子はこちらが詳しい。

江古田市場での取材の様子
「ナイス・エイジ」@江古田市場

魚田
なるほど。
 
阿部
まとめると、まちに出始めたころのuniには4つの柱があったように思います。ひとつはまちに眠る話への関心、オーラルヒストリーや地域の人々の経験ですね。ふたつめが、まちなかに小さな場が生まれること、ローカルメディアと話した部分です。次に大きかったのは身近であること。ここには江古田生まれ・在住の阿部健一という、私的な身近さが投入されてると思います。そうではない展開としてのすみゆめがあるので、後ほど「ラジオ倶楽部」にもつながってくるんですけれど。
 
魚田
伏線ですね。
 
阿部
最後に、まちや活動を記録すること。
 
魚田
なるほど〜。確かに阿部さんの劇作家としての志向として、自分の個人史と結びついた劇作をするというのは僕も感じます。阿部健一であるものが書いてるっていうことをすごく意識して書いてるし、いまの話を聞いていても教室を教室として消さないし、演劇というメディアも演劇というメディアとして消さないみたいな。それはなんか、演劇という営みそのものを相対化するみたいな。全部をカッコの中に入れて考えてやってきているのではないか、その運動の連続っていう感じをいま、お話伺ってて感じました。
 
阿部
自覚的にやってた部分と、そうでない部分があって。自分自身の志向を捉えきれないなかでつくるとき、もっと若手劇団として頑張ろう!ってことを思いながらつくろうとすると、自分の性質とバチることがあったのかなと、いまふりかえると思います。この方向にはいけるかも、ということを失敗含めて、発見しながら進んできたっていう感じかもしれません。

江古田編から高松編へ

魚田
それで練馬は練馬でも、次は高松というエリア※3にいったんですね。これがすごい特殊だと思うんですけど、3年でしたっけ?

阿部
3年を掲げてた、けど結果的には5年ぐらい。コロナ禍が挟まったこともあって。

魚田
そこで1年目に作品をつくって、5年目に作品をつくったんですよね。3年間つくってない(笑)。いいですよね、すごい不思議なプロセスですよね。5年かけるものがそもそもこの世にあんまりないっていうのもあるけど。あったとして、最後になんかやるっていうのは多分あるんですけど、最初にもなんかやるっていうのがすごい面白くて。両方演劇を掲げてるけど、結果的に出てくるフォーマットも、全然違うし。そこの差をぜひ聞きたい。どういうプロセスだったのかと、2つの公演の差異。まず、高松にいったきっかけってなんだったんですか?

阿部
ちょいとそこまでプロジェクトの第2弾をやりたいねっていうことは江古田の時点から話していて、それがなんとなく練馬区のどこかだというイメージはそのときからありました。江古田編を通して練馬区について知ったり、考える機会も増えていったので。まだ練馬区を離れるほどにやりきってないって感覚もあったんだと思います。とはいえ高松編は江古田編の3年後から始めるので、そこでも3年あいてるんですけど。 

魚田
そのあいだは何してたんですか?

阿部
いろんな活動をしてました。ちょうどぼくが仕事をやめて大学院に入り直す時期でもあったんですけど。そうそう、その頃は小劇場というか、演劇団体として改めて頑張ろうと思っていた時でもありました。バーで小さな公演をやったり(Bar演劇「気をたしかに」)、調布市のせんがわ劇場のコンクールに参加したりしてました。(農耕演劇「そだててたべる」

魚田
劇場に戻った時期があったんですね。

阿部
uniの活動をまちの企画、江古田の活動だけにならないようにしたいと思っていたんですよね、その頃。いまでこそまちなかでやり続けてる団体として関心を寄せてもらう機会も少しずつ増えてきているんですけど、その頃はまだまだ何者でもないという実感があって。ありがたいことに「ナイス・エイジ」はいろいろな方面から反響をいただきましたが、団体としてはできるだけ幅広く、現代演劇の方面にも、まちの方面にも、まち以外の諸分野にも可能性を広げたかった。25、6歳の頃ですね。まずは劇団活動をもっと頑張ろうとしていました。

魚田
ガンガンと。

阿部
でも、やっぱりうまく進められないところもあって。一緒にやってる人々に大変な思いをかけてしまったり。あ、あと、ちょいとそこまでプロジェクトについていえば、江古田の次の地域の案が具体的になかったというのもあります。 

魚田
練馬区の方から高松でっていうお話が来たんですか?

阿部
いや。せんがわ劇場で上演した作品のために、練馬のまちづくりセンター※4に「農家さんのお話が聞きたい」ということを相談したんです、たまたま農耕がテーマの作品だったので。そのときに、その後お世話になる高松のみやもとファームさん※5を紹介されて、初めて高松を訪問しました。これは高松編とは関係のない動き。 それで宮本さんという人物とも知り合います。ぼくは練馬生まれで、江古田の活動をやっていたけど、一方で農業という特性も練馬にはある。その方面は全然知らなかったので、練馬で活動を続けるならそれを扱うのはよさそう、やっぱりだれも都市農業をテーマにした演劇はやってないし、と。

魚田
そこに新たな可能性を垣間見たんですね。偶然。

阿部
そうですね。再び自主企画として高松編を始めました。

※3 高松:練馬区中部にある地域。最寄り駅は都営大江戸線の練馬春日町駅や光が丘駅。比較的まとまった農地の残る場所として、東京都から「農の風景育成地区」の指定を受けている。
※4 まちづくりセンター:練馬区の外郭団体で、区民主体のまちづくりの中間支援団体。 まちづくり活動助成という助成金事業も行っていて、江古田でも高松でもuniは支援いただいている。
※5 みやもとファーム:体験農園や豆腐づくり、はちみつづくりなど、高松の地で多角的に都市農業に取り組む農園。春先はいちご狩り、夏はブルーベリーなど、一年中賑わっている。園主の宮本さんは練馬区農業のキーパーソンのひとり。

まちあるき中、高松の直売所にて

魚田
なるほど。
 
阿部
まだその頃は、自分たちのプロジェクトを「仕事」としてやる感覚がまだ薄くて。事業予算は助成金で確保するけど。最近は、生活や労働、ワークライフバランスが個人的にはテーマになってきているところもあるんですが、その頃は「やろう」「やったれ」という。
 
魚田
それで高松というフロンティアにいったんだ。
 
阿部
もうひとつ、はじめから3年ってかたちで動いていたのは、別の現場で伺った劇作家の石神夏希さんのお話があって。ホームには何年離れても戻ってこれる、逆にそうでない場所でやるときは3年くらいのスパンで集中してやって一区切りにするということを、たしかお聞きして。なるほど、じゃあ、高松は3年の計画で動いてみよう。逆に3年ぐらいでやりきって引き上げよう、そう思っていました。
 
魚田
なるほど〜。3っていいですよね。なんかね。
 
阿部
でも1年目は、江古田編と同じかたちを取りました。春・夏に取材をして、秋に作品を発表する。(ちょいとそこまでプロジェクト❷練馬区・高松編「食べてしまいたいほど」
 
魚田
江古田での方法をここでも当てはめてやってみた?
 
阿部
やっぱりまちの方からすると、なんだかわかんないひとたちが来るってことなので。僕らがどういうひとたちなのか分かってもらうには、まず作品があることだろうって思いました。だから最初にひとつやる。挨拶を兼ねて、上演をする。
 
魚田
それも取材して、その土地からテキストをつくってましたよね。その公演は、「こういう団体でこういう作り方をします」っていう表明でもあったんですね。冊子などアーカイブを大切につくりはじめたのは、その辺りからなんですか?
 
阿部
そうですね、「残す」と「伝える」。どうしてもまちでやる活動ってキャパの限界があって。演劇のための空間じゃないから、一回数十人とか。ステージ数を増やすことも考えにくかったから、目撃できるひとが少ないって側面がある。映像に残すとかはあるけど。その時に「こういう活動やってて」と説明できる冊子があると、二次的に伝えていける。それは意識してました。江古田の時は「残す」が強くて、高松ではより「伝える」を意識するようになったかなという気がします。

「食べてしまいたいほど」@みやもとファームとうふ房

上演しない高松2年目

魚田
それでコロナもあったけど、あいだに作品を作らなかったのも面白いというか。その間は何をしてたんですか? 作品をつくる予定がなくなったのか、元々そういう計画だったのか?

阿部
1年目の終わりぐらいには、来年は大きな作品をやらないってのは決めてました。やっぱり公演をするとなるとけっこう大変で。もちろん取材もあるし、テキストを作ったり、会場のこととか。いろんな調整をしていくなかで、「やってどうだったか」「何のためにやるのか」以上に「やる」ことにすごいエネルギーがかかる。バタバタっと「やる」に奔走して終わっていかないように、定例稽古とか定例ミーティングとか、小さな作品を作ってアウトリーチするとか、そういう年にしようと考えました。正直、まちでの2年目は自分たちにとって未知の領域だったので、立ち止まりつつ考えてたっていうかんじです。

魚田
なるほど。それまでは割と劇団として活躍の場を求めて高松にたどり着いたというお話だったと思うんですけど、1年立ち止まろうって、かなり転換というか。なにか団体としての価値観に展開があるような気がするんですけど、高松編1年目を経て何か変わったりしたんでしょうか?

阿部
高松編は、劇団として活躍の場を求めてというよりも、なんていうんだろう、劇場で頑張るってこととは違うものとして最初から考えていました。もちろん1年目は上演活動をしたんですけど、息の長い企画としてやろうっていう意識も元々あって。だから、いわゆる作品がない年がある、ってことにためらいはなかったです。

魚田
自然に。

阿部
でも上演をしなかった年、やっぱりそれはそれで、特に俳優の皆さんには迷惑かけたところはあると思います。

魚田
その話もちょっと詳しく伺いたいです。やっぱり劇場で活躍したいっていうのは、みんな絶対に持つモチベーションだと思うんです。主宰の阿部さんは自然に変われたと思うんだけど、俳優は必ずしもそうじゃないと思うんですね。いまでもuniは続いていてメンバーもいるけど、どういう話し合いがあったんでしょうか? あるいは関係性が変わったりしたのかな?

阿部
2018年は、その辺りのトライアンドエラーをしていたんだと思います。トライに対して絶対、エラーもついてくるぐらい、トライアンドエラー。その、僕のなかでは上演活動をしていなくてもプロジェクトとしてはオンゴーイングという意識があって。捉え方によってはプロジェクトをやってること自体がパフォーマンスみたいなところもあるので。でも、この時間射程はいわゆるアートプロジェクトの射程で。アートプロジェクトの中の劇中劇として上演がある、みたいな。でもそのことと、演劇をつくる稽古場に流れる時間は少し違う。特に2年目は、広げた風呂敷をどう畳んでいくかを考えていくということがあったんですが、それは共有が難しいところもある。そうそう、「何をやるかを考える」ために集まってるという状況がけっこうあって。それで、特に俳優のみなさんには負担をかけたところはあったと思います。以後、それはできるだけないように心がけています。

魚田
決めることを押し付けないというか、もたれないというか?

阿部
プロジェクトメンバーだからみんなで過ごそう、みたいなことをあまりしなくなった。それぞれが自分の持ち場をベースに関わる関係というか。もちろんコロナ禍も重なってくるんですが。 

ラジオ演劇はじまる

魚田
そんな劇中劇をやらない期間を経て、締めの劇中劇が始まった。そこでなんと、今度は「ラジオ演劇」っていう新たなフォーマットごと開発して挑んだわけですが。
 
阿部
そうですね。でも、2年目の終わりぐらいからオーディオ作品ありえるねって話してました。音楽をつくろうってことが、実は最初にあったんです。2年目の取り組みでも、当時は別名義だったんですけどポークハイパット※6の面々が稽古場に来て曲をつくってくれたりしていて。音楽って演劇以上に取り回しがしやすいし、ひとに届けやすい。
 
魚田
間口も広いですしね。
 
阿部
その延長に、音楽を取り込んだ音声演劇作品があるといいねって話してました。全部の集大成ではなくて、そういうのもあるといいね、みたいな。締めとして他にも考えていた企画はあったんですけど、コロナ禍でも音声作品ならできるし、まちに通うなかで感じてきたことを接続できる予感もあった。
 
魚田
うんうん。
 
阿部
きっかけはお便りなんです、ラジオの。相談しているなかで優衣さんが、お便りや手紙ってキーワードを出してくれて。地域のひとから聞いた話、それをだれかに伝えるっていう行為は一種の伝達だねっていうことと、お客さんの手元にも便箋や封筒みたいな使えるものが残るのはどうか、と。音声、お便り・・・って話していて「ラジオでは?」ってなったんですよね。それが「今日のたかまつ アーカイブス」のはじまり。
 
魚田
なるほど。
 
阿部
お便りが寄せられて発信していく基地局って、まちでのuniの過ごし方と重なる部分がある。私的なメッセージがうっかり別のひとに届いていくってこと自体が、取材をして上演するってこととも似てる。
 
魚田
自分たちの存在、劇団としてのこの町での自分たちの存在のかたちを考えたら 演劇のフォーマット自体が決まっていくっていう。すごい面白いですね。
 
阿部
もちろん前提条件として、いわゆるイベント形式が難しいってこともあったけど。2020年から2021年のことなので。
 
魚田
そして「今日のたかまつ アーカイブス」はWEBで、北海道にいようがロンドンにいようが同じものが聞ける。高松のことをあんまり知らなくても楽しめる作品ですよね。 

※6 ポークハイパット:高松編に伴走している6人組のジャズ&ポップスバンド。「今日のたかまつ アーカイブス」の全音楽を手掛けている。

「今日のたかまつ アーカイブス」ポスター

阿部
そのように舵を切りました。それは5年の歳月の中で考えたことで。1年や2年、熱心に通ってコミュニケーションを取っても、その後3年通わない期間があると忘れられていく一種の無常感と、 高松で活動するなかで、なんていうんだろう、「まち」と「まちのひと」への一種の幻想がだんだんなくなってきていて。
 
魚田
うん。
 
阿部
まちに住んでいたってまちのことを知っているわけではないし、興味がないことも十分あり得る。いろいろなひとがいる。だから、まちを題材にしているといっても、実は全部それは個人の話なんじゃないかと考えて。そうなると、「まちのひと」に作品を届けたいっていうくくりもよくわかんないことになってくる。それを前向きに捉えると、あるまちが題材であっても、それが遠くのひとにもつながる隙間がたくさんあるんじゃないかと考えました。
 
魚田
「まちのひと」っていうものが具体的になっていったのかもしれないですね。
 
阿部
あと、一種の諦念もあります。頑張って活動することで、まちに何か新しいコミュニケーションの回路が生まれて、まちのひとがまちを意識するようになって、新鮮な気持ちが生まれる・・・ってことへの。それはやり方次第でできたのかもしれないけど、なんて言うんだろう、小さな団体の自主企画でできることの限界もあって。
 
魚田
うん。
 
阿部
個人と個人の話だと捉え直していくなかでは、実は作品への僕自身の話の投入度合いも上がっていきました、「今日のたかまつ アーカイブス」では。
 
魚田
なるほど。自分自身の個人史。
 
阿部
僕と、僕の祖父の関係とかが結節点に投入されていたりね。
 
魚田
そうなんですね。江古田の「ナイス・エイジ」と比較すると、地域が出てきて、 地域に向けて話をしてるというより、もう少し個人っていう縮尺からまたどこか別の個人へっていう感じに、作品の伝え方が変化していった感じなんでしょうか。
 
阿部
そうですね。現地調達した食材を現地の調理器具を使って料理したって感覚から、食材を家に持ち帰って、自宅の調味料と混ぜ合わせてできた料理を、もう一回まちに持っていったり、関係ないひとにふるまったり? うん、持ち帰るってことが意識されてきた。
 
魚田
それがラジオ演劇の始まり。そうしてラジオ演劇という方法を手に入れたuniは墨田区に行くわけですが。一旦CM!

▶ 後半へつづく


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