単細胞生物と「今ここ」

どこで読んだのか思い出せないのですが、アメーバなど単細胞生物は、
・ とりあえず動いてみる
・ さっきの場所より養分が多ければ、そのまま進む
・ さっきの場所より養分が少なければ、方向を変える
というアルゴリズムで動いているそうです。

これ、すごく不思議だと思いました。
身の回りのモノはこういう作りになっていません。スマホでも車でも、充電や燃料などエネルギーの残りが少なくなったら警告するように出来ています。さっきより減ったかどうか、という発想はありません。普通にモノを作ればこうなるだろうと思います。

ところが、単細胞生物は「さっきより多いか少ないか?」という判断基準で動いている、つまり過去と現在を比較して判断しているわけです。

これ、一番原始的な時間の概念ですね。

もしかすると、原初の地球にはスマホや車と同じ「エネルギー残量は足りているか?」という判断基準で動作する生物がいたのかもしれませんが、いたとしても「増えたか減ったか?」タイプの生物に淘汰されてしまったようです。そういうアルゴリズムで動く生命は知られていません。

「増えたか減ったか?」タイプの生命は、この原則を拡張して、「どちらに進めばより有利か?」と「予測」をするようになったと考えられます。すなわち未来の概念です。植物はよくわかりませんが、ある程度以上に発達した動物は何らかの形で未来予測をして生きています。また必要な養分が複雑になり、「快楽」という感情で十把一絡げに把握するようになります。

この方向で何十億年も進化が続き、時間の概念は少なくともすべての動物に受け継がれ(植物は過去→現在だけかも)、進化に伴い複雑化してきました。人類に至っては、その思考の中で過去にも未来にもいくらでも時間を想像する能力を獲得しました。

それが現在の人類が考える時間の概念です。時間は過去から未来に向かって一定の速さで一方通行で流れ、決して元に戻ることはない、ということは大半の人にとって当たり前の事実と認識されています。この時間の概念を基礎において、人間は将来の快楽を最大化するように動作する、というアルゴリズムを自らに組み込んでいます。

さらに、途方もなく拡張された「未来」に向かって想像力をめぐらし、未来の快楽を最大化しようというアルゴリズムになり、未来の快楽のために現在は努力しなければ、苦しまなければ、と考える方向にアルゴリズムを拗らせるに至ります。快楽のために苦痛を…。複雑化するアルゴリズムがバグを内包した状態です。で、なんでこんなに苦しいんだろう?と悩むようになります。

ところが、つい最近、おそらく数千年前になって、人間のうちごく限られた人たちが、時間の認識自体事実でないことに気づきます。過去も未来も頭で考えた「概念」でしかなく、今現在、この瞬間しか実在しない。「今ここ」とか言われるやつです。

最初に気づいた人が誰だったのかはわかりませんが、2600年前にブッダがこれをはっきり認識し、多くの人に伝えたことが広く知られています。一般の常識とは真っ向から対立しますが、ブッダのメソッド=仏教の中核をなす教義として現代まで受け継がれています。

仏教やヨーガなどの宗教では、過去や未来の概念を持つ限り苦しみはどこまでも繰り返され、「今ここ」の事実に気づくことでそれを手放すことができる、と説きます(簡略化しすぎですが…)。それを達成するためのトレーニングを体系化したものが仏教やヨガ、とも言えます。

言葉にしてしまうと単純に見えますが、手放すべき概念、思い込みは元をたどればこの地球上に生命のような何かが湧いたときに手にしたもの、おそらくそれなしには生き延びることすらできなかった、一番重要なアルゴリズムです。

「今ここ」を完全に理解し「体験」した状態を悟りといいますが、それに到達した人がいかに稀有な存在なのか、おぼろげながら分かるような、壮大すぎて良く分からないような…。

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