気の利いた一言が招く不自由さ

なぜ私が無駄にモテるのか…というのをお皿を洗いつつ考えてたんだけど、合コンさしすせそ的な気の利いた一言を割と連発する癖があるからだと思う。私は毒舌だとか、ものすごく凹む一言を言い放つときもあるらしいが、それは天然でもなければ悪気ないわけでもなく、間違いなく計算しつくして、悪意もあれば、大嫌いな相手に狙いを定めて言い放っている。なので私の一言で傷ついた人がいるとすれば、あなたは私に嫌われているというアピールなので早く気づいて私の目の前から去っていってほしい。

気の利いた一言を言ってしまう癖は生育環境にあると思う。私は親戚中で早くに生まれた子供で、初孫で、跡取り娘で…という大人しか周囲にいない環境で8歳くらいまで育った。そして私の周囲の大人たちは私を異常に可愛がる半面、プライドが恐ろしく高く、自己中心的だった。可愛がるだけ可愛がり、それで満足はしない。私の精一杯の笑顔、ありがとうという感謝の気持ち、そんなものをいつも皆求めてきた。私がちょっとでもそっけない態度をとれば、なんて可愛げのない子、と怒り拗ねるようなまるで子供のような大人たちだった。そんな集団に囲まれれば自然と空気を読むようになるし、気まずい雰囲気にならないように求められているであろう言動をするようになる。本当に可愛がられた不自由な子供だった。

おかげさまで、今もこの人大嫌い!という意識をしっかり持たないと、なぜか相手を嬉々揚々とさせてしまうような言葉のシャワーを浴びせかけてしまう大人になってしまった。今日も離婚したばかりの初めてご挨拶をしたどっかのお偉いさんに「でも端正なお顔立ちだし、スタイルもシュッとしていて、すごい清潔感あるし、今から全然謳歌できそう♥」とか初対面でこれから一緒に仕事をすることもない一見さんに愛のキラキラシャワーを浴びせてしまった。老若男女問わず、私はこんなことをやってしまうので別に好かれたくもない人に好かれ、煩わしい人間関係を構築し、がんじがらめになって、不自由な環境に疲弊して遁走する。愛されて逃げださなければならないなんて本末転倒な話である。

愛があれば何もいらないって嘘。相手のことを考えた愛じゃなければそれは害になってしまうことも多々あるのだ。というわけで、私は新しい職場でも、愛され過ぎて不自由な毎日を送っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?