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人間らしさ、なるものに気づくこと

この記事は2023年現在のAI周り、
2012年の将棋ソフト、
そして紀元前400年の文字と発話の転換について書いていく。

2023年の最先端AI

2023年4月現在、画像生成AIと対話型AIの話題が継続している。
もちろん、技術が好きな人に限るかもしれないが。
この両者の共通点は「今までできないことができるようになった」ことに尽きる。

今まで画像生成AIは非常に限定的なものしか作れなかった。
たとえばこれは2019年の記事。

この記事で取り上げられているサービスには指示ができなかった。
できあがった画像から好きなものを選ぶか、
出来上がったものに調整を加えるオプションがあるのがせいぜいである。
現在はAIに指示(プロンプト)ができるようになっていて、こうした実写調のイラストも作成できる。

こうした画像生成AIが”人間のイラストレーターに近い”とされる事例は多く目にしている。たとえばこういう体験談だ。

この記事は画像生成AIの影響で人間のイラストレーターにリクエストを送らなくなった人のお話である。そこで興味深いコメントがある。

俺は「お前よりAIの方が上手い」と絵描きにはしっかり言っていきたい。

別にしっかり言わなくていいのだが、これを言い換えて
「人間より機械の方が上手い」というのなら、私は慣れ親しんだ分野を上げることができる。将棋である。

2012年の人間への「知的挑戦」

将棋ソフトというものが人間のプロ棋士に勝ち始めたのが2012年ごろの状況である。この状況についてこの時点で故人であった将棋連盟会長、米長邦雄は「将棋ソフトとの競争は人間と自動車の競争のようなもの」と、比較自体あまり意味がないと発言していた。

しかしこれがなかなかおもしろい。2012年に行われた第二回電王戦は人間対将棋ソフトの5対5の団体戦で、1勝3負1分というかなり人間側がくらいついた対戦となった。そして、この対戦が現代と多くの部分でつながる。

画像生成AIへの批判として画一的とか温かみ、人間味がないという批判がある。これは人間への理解が足らない言葉だと言わざるをえない。人間は人間からしか「人間味」を感じない訳では無い。動物はもちろん道具からさえ、温かみや感性を感じる、言い換えれば人間は「勝手に相手に人間味を見出す生き物」なのである。

たとえば先述の電王戦がいい例で、この対戦を通してプロ棋士の側が将棋ソフトに「さん」付けで呼びかけることがあった。対局後のインタビューでも「個性や意思のようなものを感じた」とも。著者もこの対局は-録画映像だったかもしれないが-、ともかく見た。そして将棋ソフトの将棋がなるほど、意思を感じさせるものかと言えばそうだった。

他に人間らしさをいくらか書いてみようか。たとえば忠犬ハチ公という逸話はなぜか日本人に広く認められた逸話である。飼い主亡き後も主人を待ち続けた犬の行動をして「忠犬」、言い換えれば忠実と言うのはどういう心情なのだろうか。ここでも人間の側が、人間同士の忠実さをハチという犬に見出し、これを人々は美談として受け入れている。

だから改めて書いておくが、もし人間らしさを始め人間が感じる「言葉にならない具体的でないもの」とは、それそのもの(犬、将棋ソフト、イラスト)に宿っている”のではなく”、見ている人間が自らの内に”感じて”いるものである。

私はアマチュア聖書学者であるので聖書を例にしよう。聖書を熱心に読む人は「聖書は読むたびに新鮮だ」とよく語る。というのも、”時と場所が違えば”、聖書の文章は全く違う意味に感じられ、それがとても価値があるように思うそうなのだ。

だが冷静に考えてほしい。子供のころの自分と大人のころの自分は同じ感性を持つだろうか。聖書には多くの「失敗する人間」が描かれる。その失敗を、失敗の経験が少ない子供のころは笑い、失敗を経験した大人になると共感を持って読むのはとても自然なことだ。そしてはっきり書いておくが、見方が変わるのは聖書だけではない。先述の聖書に価値があると思っている人は、聖書を何度も読むから、更に言えば価値があると思って読むから価値を見出しているのである。

参考図書

同じように、日々の天候さえも人にひらめきを与えることもあれば、世紀の名画と評されるものがある人にはなんと刺激も与えないことがある。本自体、絵画自体、文字自体にはなんの価値もない。ただ人がそこに価値を見出すのである。-ことによっては神さえも、だ-。

もちろん人に「価値を感じさせやすいもの」はあるだろう。しかしある物、それ自体に人を感動させるなにかが潜んでいるということを、私が専門とする歴史学と聖書学は否定している。こんな小難しい話をせずとも、

同じように、日々の天候さえも人にひらめきを与えることもあれば、世紀の名画と評されるものがある人にはなんと刺激も与えないことがある。

という先ほどのたとえで多くの人は納得してくださるだろうが。

紀元前400年の新旧世代

以上のように「人間らしさ」のような定義が怪しいものは言い争いになった時、けっこうな率で持ち出される。なので、人間らしさを考えるより「人間はどういう時に温かみだとか人間らしさのようなことを言い出すのか」、こちらの方がよほど面白く、また説明も簡単だったりする。

この「人間らしさの研究」は、要するに人間らしさを口にしてしまう人々の言いしれぬ不快感、不安を理解する上でとても重要だ。さて、紀元前400年の人々の不安をここでは見ていきたい。

語られる言葉は「魂のうちに知識とともに書き込まれる言葉(276A)」であり、「自分自身のみならず、これを植えつけた人をも助けるだけの力をもった言葉」(277A)である。

書かれた言葉は「むなしく水の中に書き込まれる(276C)」もので、
「自分だけの力では身を護ることも、助けることもできない(276C)」し、
「書かれた言葉のなかには高度の確実性も明瞭性も存在しえない(277D)」のだ。

プラトン『パイドロス』

ここで言う書かれた言葉とは、たとえばあなたが今読んでいる文章を指している。プラトンの時代、紀元前400年ごろでは「書かれた言葉のなかには高度の確実性も明瞭性も存在しえない」と発言する知識人が多かった。プラトンはこれを受けて書いているのだが、現代人であるあなたはこれに賛成してくれるだろうか?

多くの人は賛成しないだろう。そして会話とは「魂のうちに知識とともに書き込まれる言葉」と言われてすぐに賛成する人もそういないだろう。まず「魂とはなんぞや」と困惑することだろう。この文章が私が知る限り、人間味だとか温かみがないとぼやく人間の古い例である。

古代ギリシア哲学では魂がそこそこ重要だったので「あなたの言葉には魂がない」と言えば、まあ多くの人の賛同を得られたのだろう。「あなたの文字には温かみがない」が現代的な訳になるだろうか。

さて、プラトンの前世代の怪物達、プロタゴラスやゴルギアスのような人たちが「文字より会話が優れている」と主張していた。が、結果は現代人がやたらと文字を読むことからわかる通り、「文字派」のプラトンらが勝利することになった。私のようなアマチュア哲学者はプロタゴラスやゴルギアスが”なんと言ったのか”を様々な資料で確認する始末である。

所で、あなたは今の議論を見てなんと思っているだろうか。魂への理解は深まっただろうか? もちろんそうではないだろう。私が知る限り、「会話派」の、魂が云々と語る人々は魂について詳しく語ってくれていない。だが「お前には魂がない」とは言えるのである。とても興味深いことである。

プロタゴラスやゴルギアスの心情を素直に書くならこうなる。「文字は不安で、気味が悪い」。これこそ現代人が直面している問題である。人間味や温かさと発言された時は注意しなければいけない。それはつまり、発言している人はどういう意味で言っているのか。多くの場合、それは不安で気味が悪いことを表現しているに過ぎない。

参考図書

おわりに

逆に、具体的な指摘はいつの時代でも役に立つ。たとえば「将棋ソフトは手加減ができない」というのはどうだろう。なんと、これは2023年現在もそうである。将棋ソフトは人間と作りが違うので、強ければ手加減ができるという風にはならなかった。

文字は「自分だけの力では身を護ることも、助けることもできない(276C)」という部分はどうだろう。これも本当の話だ。専門家が書いた整った文章でさえ、素人があら捜しをして「ここに間違いがある」ということはできる。そして、それは文字であって-生きた人間ではないから-文字自体は反論したりしない。現代だと生きた人間があら捜しを見つけて反論してくるかもしれないが……

歴史は決して繰り返したりしない。現代にプラトンはいないし、2023年に電王戦は開かれていない。しかし、人間はだいたい「似ている」。人間が勝手に価値を見つけるのは2000年前でも今でも変わらないし、どういう時に不安になるのかもそう変わらない。

歴史は死んだ過去である。歴史があなたに語りかけることは本来ない。だが、あなたが歴史に価値を意図を見出すなら、あなたは歴史の教訓とか呼ばれるもの、すなわち「あなたはなぜ今そう思い、そう発言し、また人はそう書き残したのか」推測することができるかもしれない。
歴史は繰り返えさないが、人間は繰り返す。

参考図書

追記

とはいえ著者もAIに「非人間らしさ」を感じたことがある。せっかくなので記録しておこう。ChatGPT3.5に対して私は次のように指示した。

産業革命を将棋でたとえてください。 またその際は具体的な戦術の名前やプロ棋士を出してください。

以下がその回答。不要な箇所は省略している。

第一次産業革命: この時期は、将棋の基本的な戦術が確立された時代に相当します。例えば、初代名人・大橋宗桂が活躍した時代です。

第二次産業革命: この時期は、新しい戦術や戦略が次々と登場し、将棋界が大きく発展した時代に相当します。例えば、村山聖や加藤一二三などのプロ棋士が活躍しました。

第三次産業革命: この時期は、コンピュータ技術やデータ解析が将棋界に導入された時代に相当します。羽生善治や谷川浩司などの棋士が活躍し、新たな戦術の開拓が進みました。

第四次産業革命: この時期は、人工知能やディープラーニング技術が将棋界に大きな影響を与え始めた時代に相当します。藤井聡太や永瀬拓矢といった若手棋士が、AIと共に新しい時代の将棋を切り開いています。

この文章のおかしさは時代が長いことである。人間は長くても100年程度しか生きられない。なので説明の順序としてはすごく昔(100年前)、やや昔(40-60年前)、ちょっと前(20年前)のように、寿命に制限された形で説明されるのが普通である。

ではAIの説明の年代を見ていこう。
大橋宗桂(1555年~)、村山聖(1969年~)、羽生善治(1970年~)、藤井聡太(2002年)である。やはり大橋宗桂が浮いている。
私が書くなら大山康晴(1923年~)を大橋宗桂の枠に埋める。私にすれば1923年で十分「すごく昔」で、1923年も1555年も大して変わらないからである。

ChatGPTとしては将棋のルールを確立した人として大橋宗桂をあげたのだろうが、すでに書いたようにこういう書き方をする人間は少ないだろう。この点を指して「人間味がない」というのはそうかもしれない。人間味と書くよりは「時代の間隔がおかしい」と素直に問題点を書きたい所だが。