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【試し読み】女による女のための短編シリーズ「ままならない私の体」第2弾『保健室の白いカーテン』

教会のバーベルスクワット』が好評配信中の、蛭田亜紗子さんのシリーズ第2弾が配信開始されました。
タイトルは『保健室の白いカーテン』。本作の主人公は、親譲りの無気力で子どもの時から損ばかりしているタイプの女性です。


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■著者紹介

蛭田亜紗子(ひるた・あさこ)
1979年北海道札幌市生まれ、在住。2008年第7回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞し、10年『自縄自縛の私』(新潮社)を刊行しデビュー。近刊『共謀小説家』(双葉社)では、明治期の文壇を舞台に、小説家の夫と妻の独特な絆を描いた。そのほかの著書に、『凜』(講談社)『エンディングドレス』(ポプラ社)などがある。


■あらすじ

年中体調不良の「私」は、現実社会のスピードに追い付けず、将来のことを考えるのが苦手で、焦燥感や後ろめたさをいつも先送りしてしまう。風俗店に勤め、年齢や健康のこともあるのだが、先のことは見えていない。ある日、新規客を迎え、そこで事件が起こり……。元引きこもりの送迎ドライバー、独り身で無職の父親等、社会となんとか折り合いをつけて生きていこうともがく人々を描いた、「ままならない私の体」シリーズ第2弾。

■本文

帰り支度をしているミネさんの鞄から、見憶えのある紙箱がぽろりと落ちた。

「あ、小児用バファリン。懐かしい。って待って、ミネさんお子さんいるの?」

「いや、これは明日ワクチン打つから副反応に備えて。アセトアミノフェンの薬、ほかは全部売り切れててさ。店員に聞いたら小児用を九錠飲めばいいって言われたんで」

「ほんのり甘くておいしーよね、これ」

「そうなの? 飲んだことないな」

道具とコスチュームをキャリーバッグに片付け、忘れものがないか確認してマスクをつけた。

「じゃあ行きますか」

そう促して玄関へ向かう。ミネさんが自動精算機を操作すると解錠された。エレベーターに乗り、外に出る。

「今日はありがとう。久しぶりに呼んでくれて嬉しかった。つぎはこんなに待たせないでね」

「ワクチン打ったらもっと気楽に遊べるだろうから、次回は近いうちに」

数秒、間があいた。濃厚接触。感染経路。そんな言葉がふたりの頭に同時に浮かんだことが伝わってきたが、気まずくなるだけなので口には出さない。

「またね」

手を振って別れると、裏の通りに停まっているミニバンに乗り込んだ。後部座席に腰を下ろし、はあ、と息を吐く。表情筋が弛緩し、笑顔から無表情に変わったのがミラーを見なくてもわかる。

「ああ、手のひらがひりひりする」わずかに赤く染まった手をぶんぶんと振った。

「スパンキング好きのお客さんでしたっけ?」運転手の桐山きりやまさんがルームミラーごしにちらりと私を見る。

「そうそう。教師かOLコスチュームで九十分ひたすらスパンキング。射精はなし。ずっと平手打ちだとしんどいから、パドルとか道具も使うけど」

窓の外を見た。金曜の夕方の繁華街だというのに人出はまばらだ。スマートフォンで時間を確認する。陽が暮れるのが少し早くなった。

「仕事慣れました? そろそろ三ヶ月ぐらい?」顔を上げてまた運転席に話しかけた。

「いや、九ヶ月ちょっと経ちましたね」と桐山さん。

「そんなに? 時間の流れって早いなあ。最初はがちがちに緊張してて、このひとだいじょうぶかなって思ったけど」

「すみません。働くの、ブランクがあったんで」

「何年引きこもってたんでしたっけ?」

「五年と四ヶ月です」

「私がこの店に勤めてる年数とほぼ同じぐらいだなあ。ぼんやりしてるとあっというまに経っちゃいますよね、五年ぐらい」

「そうですね」

ふいにこめかみに不穏な気配を感じた。金平糖みたいなとげとげが皮膚の奥に埋まっている感覚がある。バッグからポーチを出して中身を確認した。イブプロフェンの錠剤が二錠。今日はこのあとふたり予約が入っている。

「ドラッグストア寄ってください」

指でこめかみを軽く揉みながら前に声をかける。

ミネさんの話を聞いていたので品切れだったらどうしようと気がかりだったが、売り場には普段どおりの商品が並んでいて安堵した。

いったん小児用バファリンを手に取って、棚に戻す。わずかに甘くて舌の上で溶けるかわいらしいオレンジピンクのちいさな錠剤を、小学生の私はチョコレートよりも愛していた。母は体調不良に理解がない人間だったが、「薬に頼ってはいけない」という考えの持ち主でなかったことは、いま思うと幸運だった。三錠からはじまり、高学年になるころには六錠に増えた。さらに九錠まで増えたところで小児用を卒業し、大人用の薬を飲むようになった。

いままでいったい何十錠の痛み止めを飲んできただろう。いや、百錠は軽く超えるか。バファリン、ナロンエース、イブ、リングルアイビー、ロキソニン、ボルタレン、ゾーミッグ、マクサルト。ドラッグストアで買えるもの、病院で処方されるもの。

やや高いが即効性をうたっているものを購入する。店の外に出てから箱を開けて二錠出し、お客さんにもらったペットボトルのミネラルウォーターで喉の奥に流し込んだ。

ビルの一室にある事務所に戻った。疫病騒ぎが私に与えてくれた数少ない恩恵は、待機所が大部屋から個室に変わったことだ。とはいえもとの部屋をパーティションで区切って座椅子と折りたたみテーブルとタブレット端末を置いただけで、個室と呼んでいいものかどうか。座椅子を倒し、アイマスクをつける。つぎの予約まで仮眠するつもりだったのに、電話で話す声がとなりのブースから聞こえてくる。

「わかってる。来月バースデーイベントだもんね。シャンパン期待してて。いい色のドンペリ入れるから。売り掛け? 月末にはぜったい払うから心配しないで」

以前、ホスト通いを掲示板に暴露されたと激怒して犯人さがしをしていたが、これでは自分から言いふらしているようなものだ。

電話が終わってようやく静かになったと思ったら、そのさらに横のブースから声が飛ぶ。

「やめなよー、ホストなんか。みつぐなら投資! 男は裏切るけどお金は裏切らない!」

「えー、私の知り合い、仮想通貨で失敗してましたよう。お金も裏切りますって。椿つばきさんはどっちを信じます? 男と投資」

急にこっちに会話の矢がぎゅんと向かってきた。

「うーん、私はどっちもうとくって」

「そうは言っても椿ちゃん、貢いでる男がいるんだよね?」

「いや、でも、ホストとかじゃないんで」

「意外~。椿さんってそういうタイプじゃないと思ってました。鬼出勤とかしないし、男に狂うところなんて想像つかないし」

「いや、だから彼氏でもヒモでもないただの腐れ縁で、貢ぐってほどの額でもないから」

「ただの腐れ縁にお金渡してるほうがヤバくないっすか?」

もうこの話題は勘弁してほしいと思っていると、「いい加減うるさーい」といままで静かだった方向から声が飛んだ。最古参のすいさんだ。一瞬で室内はしんとする。

それにしても金曜の夜にこんなに待機している女の子がいるなんて、この店もいよいよ駄目なんじゃないか。


正午近くに目覚め、頭を枕から持ち上げようとした瞬間、重く鈍い痛みが走った。うう、とうなり、手を伸ばしてカーテンを薄く開ける。ぎらぎらと容赦のない陽射しが差し込んで、あわててカーテンを戻して薄い夏がけの布団をかぶった。

気圧の変化で体調不良を予測できるアプリがある、とお店の女の子に教えてもらったときは、自分でも驚くほど嬉しい気持ちになった。そんな便利なものがあるなんて、よりも、仲間がたくさんいたんだ、という喜び。だがインストールしてすぐに失望することになった。アプリが教えてくれる「要注意の日」ほど体調が安定していて、ノーマークの日に限ってベッドから出られない。ここでも私は想定の枠に入っていない、と暗くなった。

夏は猛暑と陽射しにやられて寝込み、秋は気候の急激な変化と秋晴れの高気圧に体調を崩し、冬は冷え性が悪化し日照時間の短さで塞ぎ込み、春はそわそわして情緒のアップダウンが激しくなる。つまり一年じゅういつでも調子を崩している。

今日はまだ予約が一件も入っていないはずだ。最近また感染者数がぶり返しているせいか、それとも私の人気の問題か。

充電器に繫がっているスマホを取って店に電話を入れ、休みたい旨(むね)を伝える。なんとかベッドから這い出して痛み止めを飲み、またベッドに戻った。

薬が効くのを待ちながらとろとろと眠りと目覚めの狭間を漂っていると、小学校の保健室のベッドを思い出す。四方を白いカーテンに囲まれた空間で白いシーツに寝ていて、見上げた天井まで白くて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなるあの感覚。校庭から聞こえる喚声、授業をしている先生の声、廊下から届く給食のなまあたたかいにおい。ああ、ここは学校だ。頭が重くて目眩めまいがして保健室で寝ていたんだ。チャイムが鳴る。何時間目の授業が終わったんだろう。みんな休み時間はなにをして遊ぶんだろう。置いて行かれてしまう、という焦りは清潔なシーツの心地よさでうやむやになる。

ふいにカーテンが開き、保健室の先生が顔を覗かせる。

白河しらかわさん、まだ顔色悪いわね。もうしばらく寝ていたら? それとも早退する?」

体調はもう戻ったのかまだ悪いままなのか、ベッドに横になっている状態では判断できない。

「つぎの授業が終わるまでここにいます」

私はずっと、あの保健室のベッドで寝ているような気がしている。後ろめたさや焦りをまどろみの心地よさでごまかして、何十年も経ってしまった。

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