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友だちとだらだらできる空間があれば、ひとまず幸せ──『団地のふたり』藤野千夜インタビュー

50歳、独身、団地暮らし。保育園から友だちのふたりは、用もないけど今日も一緒──。

女性ふたりののんびり気ままな暮らしを描いた、芥川賞作家・藤野千夜さんの新作『団地のふたり』。

フリマアプリの売上で生計を立てる、売れないイラストレーターのなっちゃんと、非常勤講師として働くノエチは、長い付き合いの幼なじみ。ノエチが仕事を終えるとなっちゃんの家に寄って、ごはんを食べて、テレビを観て。休日は釣り堀で糸を垂らしたり、ノエチが車を出して出かけたり、ご近所さんのお手伝いをしたり。ゆったり穏やかな日々に、読んでいるこちらも心がほっと安らぎます。この作品が生まれた経緯、ふたりの関係について、藤野さんにお話をうかがいました。


団地のふたり_表紙A_web


藤野千夜(ふじの・ちや)
1962年福岡県生まれ。千葉大学教育学部卒。95年「午後の時間割」で第14回海燕新人文学賞、98年『おしゃべり怪談』で第20回野間文芸新人賞、2000年『夏の約束』で第122回芥川賞を受賞。その他の著書に『ルート225』『中等部超能力戦争』『D菩薩峠漫研夏合宿』『編集ども集まれ!』などがある。家族をテーマにした直近刊『じい散歩』は各所で話題になった。




何を言っても「まぁ大丈夫か」。“ズッ友”の信頼感


──『団地のふたり』には、なっちゃんとノエチのゆるやかな暮らしぶり、日々のささやかな出来事が楽しく描かれています。そもそもこの作品は、どういった経緯で生まれたのでしょう。

藤野:「歳を重ねた女性の友情ものを」というご依頼をいただき、それに沿う形で書きました。そこで、昔から付き合いが続く“ズッ友”の話を書くことに。ゆるい友情しか思い浮かばなかったのは、私の交友関係がそうだからでしょうね(笑)。

──ふたりは、40年以上付き合いのある幼なじみです。団地で暮らしているという設定も、そこからきているのでしょうか。

藤野:そうですね。それに、団地そのものにも興味がありました。私の行動範囲内に、忘れられた昭和の雰囲気をそのまま残した団地があるんです。作品の舞台として面白そうだなと思っていました。

それに、私自身も10歳くらいまで横浜の団地に住んでいたことがあるんです。ある短編を書くときに、その団地を見に行ったのですが、案外そのまま残っていて、それ以来気になっていて。あまり良くない思い出がありましたが(笑)、行ってみたら懐かしかったし、良いことも思い出しました。そういった興味や思い出と、今回の小説の内容がうまくマッチして、団地の話になりました。

もっと言えば、友情の話を書くとなった時に、どうしたらふたりが助け合えるのか考えたんですね。こういうふたりを守るためにも、団地という建物が必要だったのかもしれません。全体として、ちょっと世間から独立しているような雰囲気にしたいと思いました。

──個人的な団地の思い出、団地と聞いて思い浮かべる風景はありますか?

藤野:私が住んでいたのは団地と言っても社宅だったので、お邪魔するのは父親の会社関係の方のおうちでした。ちょうどこの小説と同じように、4階建てで階段しかなくて。保育園も団地の中にあって、全体的に敷地がすごくゆったりしていましたね。そういう団地をあちこちで見かけると、懐かしさを感じます。ズッ友の話を書くにあたって、うまくそこに場所を移せたらと思いました。

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──モデルにした団地はありますか?

藤野:描いたのは架空の団地ですが、京王線沿線の八幡山にある団地をなんとなくモデルにしました。

──そこで暮らすなっちゃんとノエチは、どのように形作っていったのでしょう。

藤野:昔から、なんとなく友だちのうちに来てゴロゴロしているようなゆるい関係を描いてきました。年齢を重ねて集まる人数は少なくなっても、相変わらずゆるいつながりを書いてしまうのは自分の経験から来るものが大きいですね。

私は割と“気にしぃ”なので、「こんなこと言ったら、相手にこう思われるな」って普段から気にしながら生きているんです。その場は気づかなくても、後から「あ、あの時の言葉はこう取られたかも」って考えてしまって。でも、付き合いが長くなると、相手にちょっと誤解を与えても、「まぁ大丈夫か」って思える。このふたりの間にも、そういう安心感があるんですよね。

──作中でも、なっちゃんがノエチに対して「ノエチのいいところも悪いところも、私、知ってるから」と言い、お互いを「グロスで受け入れて」います。その関係性がとても素敵ですし、うらやましく感じました。年月を重ねた人同士でないと、なかなかこうは思えないですよね。

藤野:年月というより、つながりの深さが影響しているのかもしれません。例えば、10年くらい会っていなくても、会えばすぐに前と同じように話せる人っていますよね。会っていないけれど友だちだと思える人と、縁遠くなってしまう人は、やっぱり親しさの深さが違うのかなと思います。会っていなくても友だちだと思える人は、お互いに安心感があるし、価値観も似ているんでしょうね。

──この団地には、なっちゃんとノエチのほかに、幼い頃に亡くなった空ちゃんという女の子も暮らしていました。彼女はどういう存在として描いたのでしょうか。

藤野:心の中の一番大切にしている部分、でしょうか。空ちゃんと過ごした楽しかった日々を思い出すと、幸せな気持ちになるんでしょうね。なっちゃんにとって、忘れたくないものかもしれません。

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「ここではこれでいいじゃん」と、ホッとできる場所を描きたかった

──なっちゃんとノエチも45年間ずっと一緒にいたわけではなく、ふたりとも団地を一度出て、また戻ってきています。詳しく書いてはいませんが、それなりに大変なこともあったのだろうと感じられます。

藤野:いろいろありながら、今はまたくっついて以前のような関係になっています。むしろ、以前から知っている分、だらしなくなっているような気もしますね(笑)。昔はもうちょっと気を遣っていたけれど、年を重ねるうちに「気を遣うなら、よそに対して遣いたい」という感じなのかもしれません。

──過去に何があったのか描かないことで、「昔、何があってもいいじゃない」と現在のなっちゃんとノエチを肯定しているようにも感じられました。あえて過去について描くことを避けたのでしょうか。

藤野:そうですね。「こういう出来事があったからこうなった」と、理由付けをしすぎないようにしました。理由を具体的に描きすぎると、それで納得してしまうところがありますから。「あの人は昔こうだったから、今こうなっているんだよ」というのは、物事を単純化することにもつながります。それぞれ過去があって今があるけれど、人は案外、昔のことを忘れているし、今どうなのかを知っているだけで大丈夫。

例えば、なっちゃんは電車に乗るのが苦手ですが、「今はこれくらい乗れる」ということのほうが大事ですし、「こういう理由で電車に乗れなくなり、今こうやって回復してきた」という話にはしたくなかったんですね。作品によって、そこをはっきり描くこともありますが、今回はあえて描かないようにしました。

──それも含めて、長年付き合ってきた者同士の距離感が心地よく描かれています。ノエチがなっちゃんの家のこたつにささっと入ってまったく出てこないなど、おかしみにあふれています。

藤野:だらしないと言われればその通りなんですけど、「まぁここではいいじゃない」って思うんですね。今は、世の中全体に生きづらさみたいなものがあるので、小説の中ではホッとできる世界、「ここはもうこれでいいじゃん」という場所を描きたいと思いました。そういう場所にもいろいろな形があると思いますが、このふたりの場合、そこでだらだらしてるのがお互い楽しいのかな、と。読んでくださる方も、それを楽しんでもらえたら一番うれしいです。

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(取材中の藤野さん photo by 藤野さんの長年のご友人)

──なっちゃんはフリマアプリを通じて物を売り買いし、ノエチは非常勤講師として働くことで生計を立てています。そこまで仕事が充実しているわけではありませんが、ふたりともあくせくしていないのもいいですね。

藤野:私自身、年を重ねるにつれて「無理をしないでなんとか暮らしていく方法はないかな」と考えるようになりました。今回は「どういう形なら実現できるかな」と、実験のように書いています。ただ、この生活をこのまま続けられるかどうかはわかりません。そういう不安は残しながらも、今のところはのんきに暮らしているというふたりです。

──1章終わるたびに、なっちゃんがフリマアプリで売ったものと買ったもの、その金額が書かれているのも楽しいですね。その品目になんとも言えないリアリティがありますが、どのように書いていったのでしょう。

藤野:実際、友達がフリマアプリやネットオークションでよく売り買いしているんです。パラッパラッパーの大判ハンカチ、藤原竜也の写真集など、作中に出てくるのは実際に売ったり買ったりしたものが多いですね。山下達郎の楽譜なんかも、昨年秋に売ったもの。非常に高く売れて盛り上がったので、今回の作品にも書きました(笑)。

──ふたりが食べるもの、観る映画やテレビ番組にも、固有名詞を数多く用いています。中でも、印象的だったのがBSテレビの断捨離の番組でした。

藤野:実際にあの番組を観て、友だちと盛り上がっていたのでそのまま生かしました。「そんなに捨てる!?」という思いと、「やっぱり多少は捨てなきゃ」という思いのせめぎ合いが自分の中にあるんでしょうね。

──断捨離で物を捨てていくことと、なっちゃんがフリマアプリで物を売ることの対比も印象的でした。断捨離番組ではどんどん物を捨てますが、なっちゃんは誰かひとりでも大切にしてくれる人のところに物を届けたいと考えています。

藤野:当たり前ですが、ものは捨てるとなくなってしまいます。でも、それは誰かにとっては大事なものかもしれません。実際にフリマアプリやネットオークションで売買していると、「これ、普通は捨てるよね」というものが高く売れることも。だからと言って、全部フリマアプリで売ろうとすると、捨てられないものが溜まっていきます。そのあたりのせめぎ合いも描いてみたいと思いました。

──実体験と重なる部分が多いんですね。

藤野:とっかかりがないと、何も思い浮かばないタイプなんです。ですから、どちらかというと、現実の中にどれだけ虚構を混ぜていくかという書き方が多いですね。実際にあったことを「これ、使えないかな」と膨らませて書いています。

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“標準”から外れたはぐれ者でも、楽しく生きるすべはある

──なっちゃんとノエチは、片方が食事を作ったり、片方が車を出したりと互いに支え合って暮らしています。家族ではないけれどゆるやかに連帯して助け合う姿は、これからの生き方のヒントにもなっていると感じました。その点について、藤野さんはどう考えていますか?

藤野:家族に代わる助け合いについては、考えるところはありますね。そういったものがあると、みんな穏やかに暮らせるんだろうなって。逆に言えば、家族だから絶対に助け合わなければならないというのも苦しい考え方ですよね。家族や血縁とは違う形で助け合っていけたら、ということは日頃から考えています。

──阿佐ヶ谷姉妹のように、隣り合って暮らすふたりが連帯するという関係も今後増えていきそうです。

藤野:本当にそうですね。よく「老後もひとりだったら、みんなで一緒に暮らそう」と“非婚の家”について友達と話すじゃないですか(笑)。息苦しさを感じているときに、「そういう生き方もできるな」って思えたらホッとするところはありますね。

──作中では、同じ団地に暮らすご老人の網戸を張り替えてあげたり、代わりに育てたハーブをもらったり、地縁による助け合いも描かれています。最近はこうしたコミュニティも少なくなっているように感じますが、いかがでしょう。

藤野:団地に限らず、マンションでもこういう付き合いはまだあるんじゃないでしょうか。もちろん全然ない方もいると思いますが、こういう付き合いがあったらちょっと楽しいなという部分を今回は書きました。

──なっちゃんとノエチの関係や地域のコミュニティだけでなく、昔の友人とのゆるいつながりも描かれていますよね。リフォームをすることになった男友だちに、「困っているならうちに来てもいいよ」と手を差し伸べる。そのゆったりとした関係も心地よく感じました。

藤野:実際に、そういう友だちがいるんです(笑)。その男の子が家に転がり込む話にしようかなと一瞬考えましたが、ちょっと今回の話にはそぐわないのでやめました。「困ってる」と言われたら助けるくらいの関係が、長続きするのかもしれないですね。ずっと気にしているわけではないけど、気は配っているという関係が。

──ふたりはのほほんと暮らしていますが、どちらも自分のことを「はぐれ者」だと認識しているのも印象的でした。彼女たちは、やはり「はぐれ者」なのでしょうか。

藤野:何が標準かという問題にもなってくると思います。これまでは「結婚するのが普通」「子どもがいて一人前」「就職するのが当たり前」という社会だったかもしれません。でも、今はそういう“標準”を達成できる人はどんどん少なくなっています。みんなちょっとずつ“標準”から外れているとも言えますよね。逆に、どこまで外れても平気なのか、考えているところもあって。はぐれ者でも、そこでどう生きていくのか考えたいなという思いがあります。

──これからは単身者や子どもを持たない夫婦など、“標準”から外れた人がますます増えていくと思われます。そういった人の生き方を示唆しているところもありますね。

藤野:高望みしない生き方というんでしょうか。どうしたら楽しく生きられるかと考えた時、私の場合、友だちとだらだらできる空間があれば大丈夫だなと思ったんです。私にとって、最低限残したいものがこの小説の中にあるのかもしれません。私が望む「これがあれば幸せ」というのは、なっちゃんとノエチのような“ズッ友”なのかもしれないですね。


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