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「こわいものをみた」4 座右の銘がこわい(高瀬隼子)

 時々座右の銘を聞かれるが、そんなものはない。ふつう、持っているものなのだろうか? 座右の銘を? みんないつ決めているんだろう?
 新卒で就職した時、社内報の「新入社員紹介コーナー」をつくるというので、出身地、趣味、休日の過ごし方、そして座右の銘を答えるよう求められた。二十二歳当時のわたしに、心に留め置きいつも意識しているような言葉はなかったけれど、誌面を埋めるためになにか書かねばならない。それは人事担当者へ提出し、社内報を通して、直属の上司や先輩社員だけでなく、社内全体の関わったことのない人たちにまで「ふーん、今年の新人はこんな子か」と見られるのだ。わたしは冷や汗をかきながら、座右の銘の正解はなんだろうかと考えるはめになった。
 今になって思うと、なんでもよかったのだ。社内報なんて配られた(当時はまだ紙で配布されていた)その時はなんとなく眺めるものの、わざわざファイリングして残すものでもなく、あっという間に忘れられるんだから。新入社員に、若者に求められていそうな、就活で繰り返し使ってきたワード――「努力」「石の上にも三年」「粘り強くがんばる」――を書いておけば、やりすごせただろう。それなのに、自己紹介ですと言われて妙に気負ってしまった。悩んだあげく、書いたのがこれだ。
『情けは人のためならず。』
 ううーん!? である。悪くはない。悪くはない、と思う。けどなんかこう、微妙にずれているし、なんならちょっと感じ悪くない? そんなことないですか?
「情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報せが来るということ。(大辞林より)」
 つまり、こういうことだ。「今年入社しました、高瀬です! 仕事でも、プライベートでも、人にはなるべく親切にしたいと思っています。人にやさしく好意を持って接したことは、まわりまわって自分に返ってくるからです。よろしくお願いします!」
 ポイントは、そう読まれるかもしれないと自覚しつつ、そのまま提出したことだ。二十二歳のわたし、今より尖っていました。真面目ふうを装ってこういうことをする、捻くれた性格の悪さがありました。三十六歳になった今はだいぶ丸くなったので、そんなことはしません。そもそも座右の銘を聞かれる場面も、以降十年以上なかったし。そう、芥川賞を受賞するまでは。
 サインと一緒に座右の銘も書いてください、と色紙が送られてきたのは芥川賞を受賞した直後のことだった。知り合いの知り合いから、間に何人か経由して依頼があった。最初に聞いたのは「色紙にサインしてほしい」という話だったはずなのだけど、受け取ってみると「座右の銘も」ということになっていた。
 先に言い訳したい。わたしはすこし、追い詰められていた。短期間の間に執筆依頼を複数いただいていて、毎日のようになにかの締切があったし、書きたい小説を進める時間がなかったし、日々たくさんの人から、おめでとう、おめでとう、と声をかけられて、うれしかったけれど、「おめでとう、それで、もちろん次もちゃんと書けるんだよね?」と自分の脳内で変換して受け取っては、マイセルフで追い詰められていた。キャパシティを超えつつあった。
 余裕のない心の中には、座右の銘も、もちろんない。「ねえよ!」と書きそうだったがぐっと堪えて、その頃毎日のように頭に浮かんでいた言葉を書いた。
『地獄への道は善意で舗装されている。』
 なかなか勢いのある綺麗な字で書けたと思う。黒くて太いペンを使って書いた。見返しもせず封筒に入れ、さっさとポストに投函してしまった。あれが今、どこでどうなっているのかわたしは知らないが、もし見かけた人がいたら、「ああ、大変だった時に書いたやつだなー」と生あたたかく眺めていただきたい。
 今も座右の銘などない。というか恐らく自身の変化に伴って、心の中に掲げる言葉も移り変わるのだろうと思っているが、変わらず持ち続ける言葉が座右の銘だというのであれば、「生き残る」「書き続ける」などだろうか。座右の銘というより目標みたいだ。あとは、「締切守りたい」「本たくさん読みたい」「小説家友だち大切にしたい」とか。それは色紙より絵馬か短冊に書くべきか。「というか小説家に限らず友だち大切にしたい」「健康でいたい」「左手の腱鞘炎早く治したい」「肩こりも治したい」「来週整骨院予約する(午前)」と、これは付箋に書いて手帳に挟んでいる。

■著者紹介
高瀬 隼子(たかせ・じゅんこ)
1988年愛媛県生まれ。東京都在住。立命館大学文学部卒業。2019年「犬のかたちをしているもの」で第43回すばる文学賞を受賞しデビュー。2022年「おいしいごはんが食べられますように」で第167回芥川賞を受賞。2024年『いい子のあくび』で令和5年度(第74回)芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。その他の著書に『犬のかたちをしているもの』『水たまりで息をする』『うるさいこの音の全部』があり、最新刊は『め生える』。


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