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冒頭大公開【試し読み】奥田亜希子さん『ポップ・ラッキー・ポトラッチ』


 相田あいだ愛奈あいなの将来の夢は、総理大臣になることだった。
 小学生のころの愛奈はニュースを観るたび腹を立てていた。相田家のテレビは父親の意向で、朝は民放ではなくNHKの番組を映していた。三歳下の妹が四年生になり、あたしも占いとか「きょうのわんこ」とか観たい、と訴え、妹に甘い父親がそれを受け入れるまでその習慣は続き、つまり、小学生の愛奈は納豆をかき混ぜたり口の端から歯磨き粉を垂らしたりしながら、国会や裁判所や避難所や事故現場や紛争地域の映像を毎日のように眺めていたことになる。そして、世の中は間違っている、と思った。偉い奴は総じてずるく、ずるい奴は概して得をしている、というようなことをなんとなく感じていた。愛奈は、味方がドッジボールで当たってないと噓を吐いたときにも、私は見とったでね、と糾弾せずにはいられない子どもだった。
 愛奈は四月二日生まれで、同学年の中では身体の成長が早かった。そして、苗字も名前も「あ」で始まる。それらの要素が愛奈の内面形成に小さくない影響を及ぼしていた。相田愛奈のイニシャルは「A.A.」だ。五十音順でもアルファベット順でも先頭にくる文字を、姓と名の両方に授かっている。ということは、いずれ自分は人々を導くような人間になる。そう信じていた。
 だから、卒業文集に掲載される「将来の夢」に、愛奈は張り切って〈総理大巨〉と書きつけた。愛奈の筆圧は強い。HBの鉛筆で記した文字も、ゴキブリの羽のようにぎらぎら光る。この夢のことは、それまで誰にも話していなかった。話す相手も機会もなかったからだ。ようやく発表できることに満足して顔を上げたとき、隣席の沢井にアンケート用紙を覗かれていることに気がついた。愛奈と目が合うと沢井は、無理だら、と鼻から息を吐いた。
「無理って、なにが?」
「相田さんは総理大臣にはなれんて。みんなに笑われる前に書き直したほうがいいと思うよ」
「無理じゃないよ。今の……ドイツの首相だって女の人じゃん。もしかして沢井くんは、女は総理大臣にはなれんって思っとる? だとしたら、それ、差別だでね。そんな法律は、日本には、あ、り、ま、せ、ん」
 愛奈は鼻を膨らませて応えた。誰かに笑われたらこう言い返してやる、と用意していたとおりの言葉だった。ほとんどつかえず言い切れたことに、脳内に生温かい液体が広がるような感覚に駆られる。ああ、気持ちいい。愛奈は陶然とした。明るい色のジャケットを着て、国会で重要なこと―具体的には思いつかないが、場を騒然とさせながらも完璧に筋の通ったこと―をびしっと発言する未来の自分の姿が頭に浮かんだ。
「そういうことじゃないだけど」
 同学年の女子から、カミキくんに似とるよね、と愛奈の知らない芸能人にしょっちゅう重ねられている顔をしかめ、沢井は愛奈の夢にふたたび視線を向けた。沢井は勉強も運動も得意で、立候補者が自分のみだったときにしかクラス委員になれない愛奈とは違い、何度も他薦でその役に就いている。その年の卒業式でも答辞を読むことが決まっていた。そんな沢井のアンケート用紙にはやや右に傾いだ文字で、〈名古屋グランパスに入って日本代表に選ばれる!〉と書かれていた。
「相田さんさ、さっきの算数のテストで三十点取ってたじゃん。あ、言っておくけど、見ようと思って見たわけじゃないでね。相田さんが全然隠そうとしないから、俺は興味がないのに見えちゃったっていうか」
「うん」
「政治家って、みんな頭のいい大学を出とるら」
「大学?」
「東京の……難関大学っていうの? 東大とか早稲田とか、ああいうところ。政治家って英語も喋れんといかんし、いろんな予算も計算するだろうし、勉強ができなきゃ無理だら。だから、相田さんは政治家にはなれんと思う」
 オットセイの鳴き声のような息を漏らし、愛奈は唸った。政治家の学力について思いを巡らせたことは、それまでに一度もなかった。人々の信頼を集めた者が選挙に勝ち、政治家になれるものと単純に考えていた。だが、沢井の言うとおり、政治家にも大学生だったころはあり、ということは、高校生や中学生、さらに遡れば小学生だったときもあるはずで、彼ら彼女らが教師の指名を受けて教科書を音読したり、分数の割り算は―どういうわけか―割る数の分母と分子を逆にして掛けることを教わったりしている場面を想像すると、不思議な心地がした。そもそも政治家も、自分と同じく、この世に誕生したときには赤ん坊だったのだ。言葉や金の使い方に外国の名前、話のごまかし方や戦争の始め方も、生まれたときにはまるで知らなかったはずだ。
「もちろん、相田さんが目指すのは自由だけどね。でも、ここは直したら?」
 沢井は手を伸ばし、人差し指で愛奈のアンケート用紙をつついた。
「大臣の臣の字、巨大の巨になっとる」
 再度、オットセイの鳴き声を発し、愛奈は一年生のときから使っている箱形のペンケースを手に取った。〈巨〉に縦線を加えようか、それとも「将来の夢」ごと書き換えようか、鉛筆と消しゴムの上で指が迷う。勉強ができなきゃ無理だら、という沢井の言葉に同意したくはないが、一理あるような気はする。確かに政治家には頭を使う機会が多いだろう。そして、自分は勉強ができない。九九の七の段の終盤はいまだに勘で乗り切っている。英語が喋れるようにも、きっとならない。
「そろそろ集めるでねー。書けた人から先生のところに持って来りんよー」
 担任の声がして、愛奈は消しゴムを摑んだ。

 あのとき自分は〈総理大巨〉を消して、なにを書いたのだったか。
 愛奈はスマートフォンから指を離し、天井を見つめた。シーリングライトの端から垂れた紐が、かすかに揺れている。トイレに立った際に頭頂部が触れたのだ。愛知県の豊橋市から上京し、ワンルームのアパートで一人暮らしを始めて三年が経とうとしているが、愛奈はまだこの引き紐に頭をぶつけている。円を描くように揺れる紐の先には、前の住人が取りつけたらしい、色褪せた猫のマスコットがぶら下がっていた。
 その動きを目で追っているうちに、記憶の底から浮かび上がってくる単語があった。なでしこジャパン。そうだ、〈なでしこジャパンの選手になる!〉と書いたのだ。学年屈指の運動音痴だったにもかかわらず、あの瞬間、総理大臣に代わり思いついた夢はそれだけだった。急いで記入し、担任に提出して席に戻ると、相田さんって、前に体育のサッカーで普通にハンドしとったよね、と沢井に呆れられた。誰だって最初は初心者じゃん、と愛奈は反論した。
 この「将来の夢」がきっかけで、それまで「レンケツ」だった―左右の眉毛が繋がりそうだったことからついた―愛奈のあだ名は、中学校に入ってしばらくして「なでしこ」に替わった。どんなふうに話が伝わったのか、女子サッカー部から勧誘を受け、体験入部に加わったこともある。ミニゲーム中にパスが一本すうっと通り、あ、楽しいかも、と愛奈が正式入部を検討し始めた直後、部長から、相田さんには文化部のほうが合ってるかもね、と微笑まれた。
 あれから、十四年。
 中学が三、高校も三、短大が二で……と過ぎ去った年月を指を折って数えたのち、愛奈はスマートフォンに視線を戻した。指紋でロックを解除した画面には、求人サイトが表示されている。ITエンジニア、法人営業、事務、店舗運営、商品検査スタッフ。今、住んでいる台東区に勤務地を絞っても、検索結果は千件に近い。リモートワークやウェブ面接の単語に、新型コロナウイルスの影響を感じた。
 新型コロナウイルスの感染者が国内で初めて確認されてから、一年と二ヶ月が経った。年明けに発令された二度目の緊急事態宣言は、東京都では三月二十一日まで延長され、飲食や観光に携わる人たちが、もはや悲鳴とも呼べないかすれた声を上げている。仕事のことで苦しんでいるのは、サービス業に就いている人間だけではない。シフトが減らされたり、仕事を辞めさせられたり、子どもの学校の臨時休校をきっかけに退職せざるを得なくなったり、内定が取り消しになったり、精神的な疲れから働けなくなったり。愛奈はスマートフォンから視線を外し、むふう、と鼻から息を吐いた。酪農家は生乳の廃棄を迫られ、医療従事者は家に帰れず、宅配業者は激務で、誰も彼もが苦しんでいる。そう思うと、いっそう大きな鼻息が出た。鼻水も少し出た。
 サッカー選手になれなかった愛奈は、高校を卒業後、豊橋市内の短期大学に進み、保育士になった。三年間は地元で働き、上京したのは二十三歳の三月のこと。ペットボトルのキャップを巡って勃発した五歳児の争いを機に、もともとうまくいっていなかった同僚との関係が修復不可能の域に達し、退職ついでに地元を離れることにしたのだった。愛奈は車の免許を持っていない。普通自動車運転免許(AT限定)の仮免許技能試験と卒業検定に、惜しくもない結果で二度ずつ落ち、取得を諦めた過去を持っている。新卒で採用された保育所は、実家から自転車で十分、市電に乗り換えて二十分、徒歩でさらに十五分の場所にあり、特に雨の日の通勤には苦労した。そのことが愛奈の上京を後押しした。東京に行けば、二度と運転免許のことで悩まなくていいように思えた。
 私、東京に行く、と告げた愛奈を両親はあっさり受け入れた。母親は、あんたはとめても無駄だら、と愛奈が高校を欠席して東日本大震災の被災地ボランティアに参加した話を持ち出し、父親は、国内でまだよかったと思えるな、と苦笑した。妹は、あたしも東京の大学に行きたかったのに、お姉ちゃんだけずるい、とふてくされたが、愛奈が、私は自分の貯金で引っ越して、自分の給料で生活するだでね、と反論すると、浪費家の彼女は黙った。
 そうして転職を果たした台東区の認可外保育所も、二ヶ月前に辞めた。次は保育士以外の仕事もありかもしれない、と閃き、ときどき求人サイトにアクセスしてはいるものの、どの募集要項も心に響かない。愛奈はブラウザを閉じて伸びをした。六帖程度の洋間の隅には、一口ガスコンロと流しが並ぶだけの小さなキッチンがある。その水道からグラスに水を汲んだ。蛇口の先には、百円ショップで購入した節水用のヘッドが嵌まっている。水を流すたびに揺れるそれを果実をもぐように外し、取りつけ口を確かめた。サイズが微妙に合っていないような気がする。だが、これは同じ商品の三代目で、一、二代目は問題なく使えていた。愛奈は首を傾げ、ふたたび装着した。
 求人サイトには、ひとまずブックマークに登録しておきたい情報すらなかったが、焦る気持ちは皆無だった。健康な心と身体を持つ一人の成人として、当然、いずれは再就職したいと思っている。愛奈は納税に誇りを覚えるタイプの人間で、勤労意欲は涸れることを知らない。しかし、急いで転職活動するつもりもなかった。保育士に戻る可能性も含めて、今後の道はじっくり考えたい。幼稚園教諭の一種免許を取ることにも興味があった。
 愛奈は首を回してコリをほぐし、グラスの生ぬるい水を飲み干した。
 相田愛奈の銀行口座には、約二億円が入っている。

■著者紹介
奥田 亜希子(おくだ・あきこ)
1983年愛知県生まれ。愛知大学文学部哲学科卒業。2013年『左目に映る星』で第37回すばる文学賞を受賞し、デビュー。2022年『求めよ、さらば』で第2回「本屋が選ぶ大人の恋愛小説大賞」を受賞。ほかの著書に『ファミリー・レス』『五つ星をつけてよ』『青春のジョーカー』『愛の色いろ』『白野真澄はしょうがない』『クレイジー・フォー・ラビット』『夏鳥たちのとまり木』などがある。

■あらすじ
相田愛奈は、正しいことがなにより強いと信じている。無職の彼女の銀行口座には、幸運に得た約2億円があるにもかかわらず、節制した生活を続けている。その一方で、福祉団体等には多額の寄付をしていた。
そんな愛奈のもとに、無職かつ浪費家の従姉妹・忍が転がり込んできた。さらに、Amazonの<ほしい物リスト>で約3万円分の品を贈った相手から、お礼らしいお礼がないことに愛奈は気づく。
なぜ? どうして? 数々の出来事が正しさセンサーに引っ掛かり、悶々とする愛奈の日々が始まった。

※ 続きは紙、電子書籍版でお楽しみください。


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