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【試し読み】吉川トリコさん『コンビニエンス・ラブ』

10月6日に発売する吉川トリコさんの新作小説『コンビニエンス・ラブ』を、9月8日よりU-NEXT限定で先行配信開始しました。
冒頭一部を公開します。ぜひご覧ください。

■著者紹介

吉川トリコ(よしかわ・とりこ)
1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で<女による女のためのR-18文学賞>第三回大賞および読者賞を受賞、同作収録の『しゃぼん』でデビュー。著書に『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『マリー・アントワネットの日記 Rose』『女優の娘』『夢で逢えたら』『あわのまにまに』など多数。2022年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。エッセイ『おんなのじかん』所収「流産あるあるすごく言いたい」で第1回PEPジャーナリズム大賞2021オピニオン部門受賞。

■あらすじ

「アーティストであって、アイドルじゃない」
5人組ダンスグループGAME BREAKERSに所属する成瀬愛生(通称:アッキー)はそんなプライドを持っている。
しかしファンから聞こえてくる声は、イケメンであるとか、メンバー同士のカップリングを楽しむものとか。
ある日、メンバーの灰人が噂レベルのゴシップで炎上すると、より一層、推されることの現実と理想のちがいに悩むことに。
そんな折、自宅近くのコンビニに勤める青木マユと知り合い、素のまま付き合える彼女に徐々に惹かれていき…。

■本文

  ―NEW GAME…

 かいの背中で卵が割れた。
「裏切り者!」
 空気を切り裂くような金切り声があたり一帯に響いた。その言葉の強さにたじろいで、反応が遅れた。声のしたほうを振りかえると、犯人はすでにこちらに背を向けて走り出していた。薄暮の中でもはっきりと見て取れる、青からピンクへあざやかなグラデーションを描く長い髪。よく事務所の前で待ち伏せしているsisの一人だった。
「おい!」
愛生あき!」
 とっさに飛び出しかけた俺を、伊央いおが鋭く制止した。
「ひどい」
「なんであんなこと」
 事務所のまわりに集まっていたsisが口々に非難の声をあげる。中には泣き出している子までいる。
 今夜は八時から、アルバム発売記念のライブ配信をメンバー全員でやるとあらかじめSNSで告知してあった。配信はいつも事務所の会議室でやることになっているから、当たりをつけて入り待ちしていたのだろう。
「カイくん、大丈夫?」
 すぐにりょうが駆け寄って、生卵で汚れた灰人のシャツを脱がせてやっている。目に刺さるほど白かったシャツが見るも無残なことになっている。某ハイブランドからの提供品。ついこのあいだ灰人がインスタで紹介していたものだ。
「灰人、これ着ろ」
 ちゅうがタンクトップ一枚になり、自分の着ていたパイナップル柄のアロハシャツを灰人の肩にかけてやる。その瞬間、遠巻きに見守っていた女たちからふわっとした波動が放たれるのを感じた。二人を見る目が涙とは別のなにかに濡れて光っている。舌打ちして睨みつけると、後ろから腕を引かれ、事務所の中に引きずり込まれた。
「あの子たちは関係ないでしょ」
 おもてに出るときより二トーンほど抑えた声音で伊央が言う。
「どうだか」
 吐き捨てるように言って、俺はその手を振り払った。
 リハーサルスタジオから事務所の本社ビルまで、わずか数十メートルのあいだに起こった出来事だった。

 ―ミミとカイトつきあってるってほんとですか? 
 ―たちばな灰人は女の匂わせやめさせろ
 ―事務所はなんで放置してんの?
 ―いますぐ別れろ金返せ
 配信を開始して早々にコメント欄が荒れはじめた。先ほどの生卵女もこの中に混じっているのかと思ったら、胸くそが悪くて吐きそうだった。
「は?」
 カメラに向かって凄んでみせると、会議室の壁にもたれて配信の様子を眺めていたプロデューサーのジェリさんが眼鏡の奥の目を細めた。それでもう、そっちのほうは見られなくなった。
「ついに本日、僕たち『GAME BREAKERS』の三枚目のアルバム『Rhythm&Boys』が発売になりました! メンバー全員、かなりの手ごたえを感じています。まずはリーダーの宙也くんから、順番に思うところなんか聞いていきましょうか」
 タブレットの画面に流れてくる物騒なコメントなど目に入っていないかのように、MCの伊央が如才なく場をつなぎ、「もう、最っ高でしょ!」と宙也がカメラに向かって親指を突き立てる。
「え、それだけ? もっとあるでしょ、リーダーなんだから」
「最高としか言いようがないよね!」
「いや最高なのはまちがいないですけど……ダメだ、これが宙也くんの語彙力の限界……。すいませんね、うちのリーダーの第一言語はダンスなんで。えっと、じゃあ、カイくんはどうですか?」
 話を振られた灰人はすぐには答えず、メンバーそれぞれの手元に設置されたタブレットをぼんやり眺めている。
「カイくん? カイくーん! もしかして寝てます?」
「え、あ、うん」
「寝てたんかーい」
 会議室にいるスタッフから笑いが起こり、へへへとつられるように灰人が笑った。そうしているあいだにも、夥しい数のコメントが画面の上を流れていく。
「三枚目のアルバム、いままででいちばん好きなかんじ。正直これまでは自分たちのアルバムを家で聴いたりすること、あんまりなかったけど、今回のはけっこう聴いてるかな」
「ちょっと! 正直すぎるでしょ!」
 ―カイト起きてwww
 ―宙也の語彙力の限界
 ―今日もイーオのツッコミが冴えわたってる
 ―私も今回のアルバムいちばん好きです!
 ―すでに10000000回再生しましたっ!
 ―りょちゃマジ天使(定期)
 ―今日のアッキー、ビズ仕上がってる
 ―カイト、アロハ似合わなすぎウケるwww
 ―待って? これこないだちゅーやんがインスタで着てたやつでは?
 ―え、まさかのおそろい無理しぬ保存
 ―こういう匂わせなら大歓迎
 ―正直に言うべきことは他にあるんじゃないの?
 ほとんどが好意的なコメントだったが、ほんの少しのノイズがこの場を支配しているのはあきらかだった。羊の大群の中を数匹のオオカミが横切るだけで、牧歌的な風景がたちまち不穏なものへと変化する。
「うるせえなあ」
 わかってる。無視するべきだって。無視しなきゃいけないって。わざと過激なことを書き込んでこちらの反応を引き出そうとするのがこいつらのやり口なんだって。煽られたら負けだって。
 だけど、どうして殴られるばかりでやり返しちゃいけないんだろう。俺たちはサンドバッグじゃないのに。
「アンチは黙れよ」
 一瞬、時間が止まった気がした。つんと耳に刺さるような静寂。気まずい空気をどうにかしたくて口にしたことだったのに、その場を凍らせたのは俺のほうだった。画面の向こうで配信を見ている人たちもみんな息を詰めている―そんな気がした。
「アッキー、それは言いすぎじゃない?」
 すぐ隣に座っていた諒太が俺の肩に手を置き、いつになく真剣な顔つきで言った。
「前のアルバムをディスったぐらいでアンチはひどいよ!」
 俺が言いたかったのはそういうことじゃない。そういうことじゃないけど―。
 諒太のボケにどっと場が沸いて、凍りついた空気が氷解した。諒太にはこういうところがある。どこまで計算してやっているのか、あるいは天然なのか、瞬時に空気を読んで天真爛漫な発言でその場を引っくりかえしてしまう。
「まあまあ、それだけ今回のアルバムが最高だったってことだよね」
 反対隣に座った伊央がカメラに向かって笑顔をふりまきながら、机の下で俺のすねを蹴っ飛ばした。

 一時間ほどで配信を終えると、マネージャーの浅井さんとともに俺たちは会議室を出た。配信の途中でジェリさんはどこかへ呼び出されて消えてしまい、今日も顔を見ただけで話すことはできなかったが、どこかでほっとしてもいた。ジェリさんからなにか言われたら―なにも言われなかったとしても、それはそれでいまの俺にはキツい。
「さっきのあれ、なんだよ」
 エレベーターを待っているところで、伊央が耳元でささやいた。
「は?」
 なんのことを言われているのかはわかっていたが、しらばっくれた。
「浅井さんがなんにも言わなくても、僕は言うからね。なんのつもりで配信中にあんなこと言うわけ?」
「なんのつもりって……腹立つだろ、あんなの」
 長い睫毛にふちどられた黒々した目に射すくめられ、思わず視線をそらした。その時点で俺の負けだった。
「僕らが怒ってないとでも思ってんの?」
 あ、と思って顔をあげると、伊央の肩越しに諒太と目が合った。続いて宙也とも。二人とも会話には参加してこなかったが、それぞれ思うところがあるのだろう。
 灰人だけが心ここにあらずといったふうにあらぬほうを見て、長い手脚をぶらぶら遊ばせている。いつもそうだ。荷物は持たず身軽で、革のオペラシューズでいまにもステップを踏み出しそうな風情でいる。
「まだsisの子たちが残ってるかもしれないから、二人とも乗ってく?」
 一階でエレベーターを降りると、浅井さんに引き留められた。浅井さんはまだ二十代で、いつも「モブ」に徹してるけど、俺たちにとっては頼れるアニキのような存在だ。地方出身の俺と灰人は事務所が寮として一棟借りしているマンションの一室に二人で住んでいるが、残りの三人はこれから浅井さんの運転する車で都内の実家まで送り届けられる。
 俺と灰人は一瞬だけ目を合わせ、
「大丈夫っす。俺らラーメン食いに行くんで」
「宙也、シャツ洗って返す。ありがとね」
 メンバーと浅井さんに別れを告げて事務所を出た。
 浅井さんの予想どおり、おもてにはまだわずかばかりのsisが残っていたが、遠巻きに眺めているだけで近づいてくる様子はなかった。そちらに向かって灰人がひらひら手を振ると、きゃあっといっせいに声が上がる。
 俺たちの三枚目のシングル「Hey Brother, Hi Sister」の「Hey bro!」「Hi sis!」というコールから、自然発生的に「GAME BREAKERS」の女性ファンをsisと呼ぶのが定着した。ごくわずかばかり存在する男性ファンはbro。sisともbroとも名乗りたくない人は、本来の公式ファンネーム「GAMER」を使用している。
「俺、行くわ」
 灰人が言って、事務所のエントランスの階段を飛び降りた。行くってどこに?―と俺が訊ねるより先に、アロハシャツの裾をはためかせて駆け出していく。
 その動作のひとつひとつが優雅なダンスのようで、観客の一人になったみたいに見惚れてしまった。灰人の手にかかれば、衣装のひらめきすら振付コレオの一部になる。
 呆気に取られている俺とsisを置き去りにして、ちょうど通りに入ってきたタクシーをつかまえると、灰人はあざやかに退場した。その場にいるだれもが、彼の行き先を知っていた。
 生卵を投げつけられ、ライブ配信のコメント欄を荒らされておきながら、それでもミミに会いに行くのか。sisの見ている前でこんなことをやらかすなんて、「煽り」だと取られてもしかたがない。宙也のシャツだって、どうせミミに洗わせるつもりなんだろう。バッシングなどどこ吹く風の灰人を見ていると、俺たちばかり気を揉んでいるのがバカバカしくなってくる。
 そこへ、地下の駐車場から浅井さんの運転する車が出てきた。ゆっくりと大通りのほうへと路地を曲がっていく。
「きた!」
「りょた乗ってる?」
「イーオ!」
 スモークの貼られたワゴン車に駆け寄るsisに背を向け、俺は一人で川沿いの道を歩きはじめた。駅の向こうにある寮までは、ここから歩いて十分ぐらいの距離だ。この川沿いの道を進んでいけば、視界が開けているから後を尾けられる心配もない。「アッキー、おやすみー!」「またねー」ぱらぱらとsisの声が追いかけてきたが、振り返りもしなかった。
「アッキーはクール系だから」
 ファンに対する俺の冷淡さをフォローするために伊央が無理やりそういうキャラ付けをして、すっかり定着してしまった感がある。出待ちのsisを無視したぐらいではだれも俺を叩かないし、たまに気まぐれに応じたりすると、ぎょっとするほど大きな反応が返ってきたりもする。「ツンデレって得だよね」とそれを見て伊央は言うんだけど、「え、俺ってツンデレなんだ?」という戸惑いのほうが大きい。俺自身はそんなつもりじゃないのに、「アッキー」がどんどん一人歩きしていって、ぜんぜん知らないやつになっていくのが気持ち悪くてしかたがなかった。
 俺たちはこの夏、初のアリーナツアーを控えている。ボーイズグループ戦国時代の幕開けとともにデビューし、「いまが正念場」と言われ続け、そのつもりで俺もメンバーもがむしゃらに頑張ってきたけれど、ホールの規模が大きくなるにつれてどんどん身動きが取れなくなっていって、いまでは窮屈な箱にメンバー五人ぎゅうぎゅう詰めにされている気がする。
 SNSに写真を投稿しただけで、どこのブランドの服を着ているのか、どこの店で飯を食っているのか、どこのホテルに泊まっているのか一瞬で特定される。俺たちのパーソナリティや日常がパッケージングされて切り売りされ、なにがほんとうなのかわからなくなっていく。灰人を思って差し出した宙也のアロハシャツがあっというまにコンテンツと化して消費されてしまったように、配信中に灰人をかばうためにした俺の言動もいまごろどこかでだれかがおいしく貪っているんだろう。
 この春、深夜枠のBLドラマで主演をつとめた灰人は、いまやちょっとした「時の人」だった。書店には灰人が表紙の雑誌がずらりと並び、SNSのフォロワー数も爆発的に伸びた。
 スポットライトの数が増えれば、その分だけ影も生じる。それまでだれも注意を払っていなかったSNSの過去の投稿が掘り起こされ、「匂わせ」として検証記事が出るようになるまで、さほど時間はかからなかった。
 グラスや窓に映り込んだ影が灰人のシルエットに酷似している。ミミの家のソファに灰人がよく着ているコートと同じ色のコートが引っかかっている。灰人の地元の北海道名物ばかり並んだ食卓。同じ銘柄の香水、同じ型のスニーカー、色違いのピアスとブレスレット。
 写真に写ったわずかなピースを、女の側からの「匂わせ」だと断定し糾弾するSNSの投稿が急増したのは最近のことだ。世界的に活躍するダンサーのミミとの交際は、公然の秘密として古参のファンのあいだでは共有されていたはずなのに、灰人のブレイクにより状況がそれを許さなくなった。
 ―恋愛するなって言ってるんじゃなくて、匂わせするような女とつきあってることが許せないだけ
 ―女見る目なさすぎ
 ―リアコ売りするならワキ固めてからにしろよ
 ―ファンに対してあまりに無責任
 ―危機管理能力なさすぎ
 ―いまがいちばん大事なときなのになにやってんだよ
 ―グループのことを思ったら女といちゃついてる場合じゃなくない?
 ―ブレイカーズ、あとちょっとのところまできてたのに、カイトのせいでぜんぶ終わった
 ―メンバーに迷惑かけるぐらいならいますぐ辞めろ
 ―マジで害悪
 マネージャーもプロデューサーも事務所の社長でさえも言わないようなことを、SNSの投稿で毎日のように見かける。いったい何様のつもりなんだろう。メンバーのだれかが恋人とおそろいのリングをしていたからって、グループになんの関係があるっていうんだよ。仮にほんとうに「匂わせ」だったからって、それがなに? 好きにさせろよ。俺たちはアーティストであって、アイドルじゃないんだから。
「くそっ」
 腹立ちまぎれに川沿いの鉄柵を蹴っ飛ばしたら、思いのほか大きく響いた。外灯がぽつぽつ灯る蒸し暑い六月の夜空に、ごおおんと鉄が鳴る。ここからじゃ、ほとんど星は見えない。
 どうしたらいいんだろう。
 憤る気持ちがある一方で、灰人に先を行かれてしまってじりじりと焦るような気持ちになるのもまた事実だった。
「もういらない」と灰人はあっさり言って、卵で汚れたシャツを事務所のごみ箱に捨てていた。ハイブランドのシャツも降って湧いたようなブレイクも、灰人にはどうだっていいことなんだろう。ダンスとミミ。それ以外に執着するものはない。その身軽さが羨ましくも妬ましくもあった。
 踊っていられればそれだけでいい―かつては俺だってそう思っていたはずなのに、いつのまにかそれだけじゃいられなくなっている。自分がほんとうはなにを望んでいるのか、自分でもこのごろよくわからない。

「うわ、はずれたー」
「なんで? いいじゃん、ちゅーやん」
「そんなん言うなら、そっちのイーオと替えてよ」
「いや無理」
「ひっど。イーオ推しでもないくせに」
「だってイーオかわいいんだもん」
 寮の最寄りにあるコンビニ「SUNNY'S」の自動ドアを抜けたところで、イートインスペースで騒いでいる女子二人連れの声が耳に飛び込んできた。やべ、と思って、俺は急いでキャップのつばを引き下げた。コンビニチェーン「SUNNY'S」とのコラボ企画が今日からはじまることをすっかり忘れていた。事務所の前で灰人と別れ、一人でラーメン屋に入る気になれずになんとなく立ち寄ることにしたのだが、こんなことならまっすぐ寮に帰るべきだった。
「ちゅーやんだってかっこいいじゃん。ほら見てこの筋肉。男らしいよ?」
「いや、いいわ」
「なんでだよ!」
 店内のスピーカーから、三枚目のアルバムのタイトル曲でもある「Rhythm&Boys」のイントロが流れ出し、「『SUNNY'S』でお買い物中のみなさん! 僕たち『GAME BREAKERS』のアルバム発売を記念して、このたび『SUNNY'S』とのコラボキャンペーンが行われることになりました! 対象商品を二つ買うと、メンバーの写真を使用したアクリルチャームがもらえます!」とキャンペーンの内容を説明する伊央の声が聞こえてくる。
 ランダム型アイテム提供方式(いわゆる「ガチャ」)なので、お目当てのメンバーが一発で出るとはかぎらないから、熱心なファンは推しを引き当てるまで商品を買い続けるはめになる。コンプリートを目指すオタクはもっと大変だ。いまやあたりまえのように定着している商法だけど、つくづくあこぎなやり口だと思う。
「もういい。バイト代出たばっかりだし、こうなったらアッキー出るまで粘る!」
 そう言って、二人連れの片方が勢いよく立ちあがった。まずい。よりによって俺推しだ。
 そのまますぐに店を飛び出せばよかったのだが、焦るあまり店の奥のほうへ早足で進んでしまった。キャンペーンの対象商品はドリンクからガム、飴、チョコレート、ビスケット菓子、アイスキャンディと幅広い。あの女子がどちらのほうに来るか読めなくて、トイレに逃げ込もうかどうしようか迷っていると、
「こっち!」
 バックヤードの扉が開いて、「SUNNY'S」のオレンジ色の制服を着たおかっぱ頭の女の子が手招きした。
「え、え、え?」
「早く!」
 ひそめた声で言うと、戸惑う俺の手を引き、強引に中に引き込んだ。こんな店員、この店にいたっけ。なんとなく見たことあるような、ないような……。
「ちょ、え、なに?」
 状況が呑み込めずにいる俺とはちがい彼女はいたって冷静で、ミラーガラス越しに店内の様子をうかがっている。息も触れ合うほどの距離につるりとした横顔がある。
「大丈夫、気づかれていないみたいです。あちらのお客さまが帰られたらお知らせするので、しばらくここにいてください」
 それだけ言い残し、彼女はすぐに店内に戻っていった。
 ちょっと待て。どういうことだ。混乱して頭の整理が追いつかず、まずは落ち着こうとあたりを見まわす。たった一枚ドアを隔てただけなのに、バックヤードの中は蛍光灯のワット数が急に落ちたみたいに薄暗く雑然としていた。
 ひとまず、俺推しのsisに見つからなくて助かったということだけは確かだったが、手放しで喜べるような状況でもなかった。
 寮の最寄りにあるこの「SUNNY'S」は、大手のコンビニチェーンにくらべるとややマイナーではあるけれど、妙に気をひく商品ラインナップで気に入っていた。俺の厨房であり食堂であり冷蔵庫でありオアシスといっても過言ではない。
 レモン味のスイーツや豆乳系ドリンクなど俺好みの商品が充実している上に、なんといっても外せないのがオリジナル海苔弁当である。海苔の下に敷かれているのがおかかではなく高菜で、海苔の上に載っかっているのが白身魚フライではなくイカフライというところが俺のハートというか胃袋をわしづかみにしていた。はじめて食べたときは、メニュー開発者と固い抱擁をかわしたくなるほど感動したものだ。この春限定の筍メニューも、競合他社が土佐煮や炊き込みごはんなどのありがちなメニューでお茶を濁す中、筍のからあげに筍のバターピラフに筍のペペロンチーノといった攻めたラインナップにそれぞれたっぷり青のりをトッピングしていて最高としか言いようがなかった。もはや俺にとっては母親の次に信頼できる料理人である。
 しかし、ここにきて問題が発生した。
 先ほどのあの店員は、俺が「GAME BREAKERS」のメンバーだとわかった上で、バックヤードに匿ってくれたことになる。助けてもらっておきながら疑うのはなんだけれど、もしかしたら彼女自身がsisだという可能性だって否定しきれない。
 アリーナツアーを控えているとはいえ、俺たちはまだ一般的にそこまで知名度があるわけではなかった。子役から活躍している諒太や絶賛ブレイク中の灰人ならまだしも、俺やメンバーの顔まで知ってる人がファン以外にそこまでいるとは思えない。あらかじめ寮の場所を探り当てておいて、最寄りのコンビニでバイトを始めるぐらい、熱烈なsisならやりかねないだろう。
 現に事務所の周囲にあるコンビニの店員のほとんどが、うちの事務所に所属するアーティストのファンであることは周知の事実だ。求人広告に「みなさんよく来店されます!」という文句とともに事務所の所属アーティスト一覧が載せられていたなんて笑えない話もある。
 デビューして間もないころ、事務所近くのコンビニに入ったら、計ったようなタイミングで俺たちのデビュー曲が流れ出したことがあった。その挙句、「『GAME BREAKERS』のなる愛生さんですよね?」とレジで店員に話しかけられた。ぞっとして、釣りも受け取らずに店を飛び出した。以来、事務所やスタジオにいるときはわざわざ離れた場所にあるコンビニに行くか、マネージャーの浅井さんにお使いを頼むようにしている。
「それぐらいなんだっていうの。町をあげて応援してくれてるってことじゃん。へんに意識するほうが恥ずかしいよ」
 そんな俺を自意識過剰だといって伊央は笑う。
「そうそう、僕らこれから国民的スターになるんだから、いまから慣らしておいたほうがいいって!」
 子役時代から町で声をかけられることが多かったという諒太にいたっては、向こうからなんの申し出もないうちから、「いっしょに写真撮ります?」「握手しときます?」「サインは?」とみずから身を乗り出して引かれているような有様だ。
 人気商売ってそこまでしなけりゃいけないものなのか? 二人の言うとおり、俺の気にしすぎなんだろうか―いや、仮にそうだとしても、家の最寄りのコンビニぐらい気を張ることなくフラットに利用したいじゃないか。まさか最後の砦である「SUNNY'S」にも気軽に通えなくなる日がくるなんて……。
「え、だれ」
 背後で低い声がして、俺はびくりと振りかえった。
 ショルダーバッグを斜めがけにした短髪の男が、タイムカード片手にこちらを見ている。年齢は俺と変わらないか、いくらか若いぐらいだ。なにかスポーツでもしているのか、たくましい体つきをしていて一七八センチある俺とほとんど同じ位置に目線がある。この時間帯によくレジで見かける顔だった。タイムカードには「名倉なぐら祐也ゆうや」とある。
「お客さん? 勝手に入ってこられたら困るんすけど」
 出勤してきたばかりなのか、タイムレコーダーにカードを差し込みながら名倉祐也が言う。
「いや、ちが……」
 この状況をなんと説明したものか迷っていると、店内側からドアが開いて、先刻の店員の女の子が戻ってきた。
「お客さま、もう大丈夫ですよ―あ、祐也、ごめん、ちょっと事情があって」
「おい、店では店長代理って呼べって言っただろ」
「あ、そうだった。ごめんごめん、店長代理」
「ごめんじゃなくてすみません、だろ」
 そう言って名倉祐也は、手に持っていたタイムカードで彼女の頭をぺさりと叩いた。ずいぶん威圧的な態度だなと思って見ていると、女の子のほうはとくに気を悪くしたふうでもなく、「はーい、すみませんでしたー」とぺろりと舌を出している。
「ったく。で、なんの事情があるって?」
「いや、えっと、それは……」
 わずかに言いよどむと、彼女は俺のほうをちらっと見た。
「実は、こちらのお客さまがストーカー被害に遭われていて……」

 名倉祐也とシフトを交替して店から出てきた彼女は、シンプルなTシャツにジーパンとスニーカーという格好で、次に町ですれちがっても見分けられる自信がなかった。おしゃれでもなければ取り立てて美人でもなく、これといった特徴のないごくごく平凡な一般人というかんじ。
 だからこそ、ぜんぜん記憶に引っかからなかったのだろう。彼女はこの春から「SUNNY'S」でアルバイトをはじめたというが、店で見かけたおぼえがなかった。失礼を承知でそのまま伝えると、「おぼえてもらえてなくて、むしろうれしいです」と予想外の答えが返ってきた。
「コンビニって、日常の風景じゃないですか。店員に個性がないぐらいがちょうどいいんですよ。お客さんのノイズにならずに、気持ちよく利用してもらえるならそれに越したことはないんで」
 彼女の言葉に俺は感動した。まさに俺がコンビニに求めるところだったから。
「どうして俺が『GAME BREAKERS』のメンバーだって知ってるの?」
 バックヤードを出るときに直球で訊ねたら、「どうしてもなにも……」と彼女は首を傾げ、壁に貼られたコラボキャンペーンのポスターを指差した。
「お客さん、これぐらいの時間帯によく店にいらっしゃいますよね。レモン系のスイーツとか豆乳系ドリンクとか、個人的に私が気に入っている商品をよく購入されていくから印象深くて、このポスターを見たときから、あ、あの人だって思ってたんです」
 すぐに鵜呑みにしたわけではなかったが、MAXだった警戒心がそれでずいぶん引き下げられた。
 お礼とお詫びをかねてなにかご馳走すると申し出たら、最初のうちは固辞していた彼女もついには根負けして、「じゃあ塩レモンクッキーとソイラテにします」と店内の棚から商品を選んだ。どちらもキャンペーンの対象商品だった。
「あっ、やった、当たりがでましたよ!」
「いや、当たりかどうかは知らんけど……」
 近くの公園に移動してキャンペーンの景品の包装を剝くと、中から出てきたのは俺の全身写真を使ったアクリルチャームだった。チャームのふちに刻印されている「AKI NARUSE」の文字をたどたどしく読みあげ、「あきってどういう字を書くんですか?」と彼女が訊ねた。
「愛に生きるで愛生」
「すてきな名前」
「そうかな。ちょっと恥ずかしくない? 本名だからさすがにもう慣れたけど」
 さほど広くもなければ狭すぎもしない、ブランコと砂場と滑り台だけの児童公園。毎日前を通っているのに、中に入ったのははじめてだった。時折、仕事帰りのサラリーマンが帰宅路をショートカットするために突っ切っていくぐらいで、俺たちのほかに人影はない。
「なるせのほうは、ローマは一日にして成らずのほうですか? それとも鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギスのほうですか?」
「えっ、どっちがどっち? ローマは一日にしてならずってその字を当てんの?」
「だから、その字がなにかを訊いてるんですよ」
「成人の成」
「せいじんっていってもいろいろあるじゃないですか。ちがう星の人とか、聖なる人とか」
「そうかもしれないけど、なるせに当てられるのはひとつしかなくない?」
「たしかに」
 そう言って彼女はけらけらと笑い、ベンチに座ったまま脚をぱたぱたと揺らした。なにからなにまで演技とは思えない自然さで、ほんとうに俺らのファンじゃないんだなとようやくそこで一抹の疑念を拭い去った。
 どうやら彼女はドがつくほどの「SUNNY'S」オタクのようだ。高校を卒業してすぐ、幼なじみの名倉祐也の親が経営する「SUNNY'S」で雇ってもらったのだという。どうりでただのアルバイト同士にしては親しげな様子だったわけだ。店長代理にしては若いなと思ったが、オーナーの息子ということなら納得がいく。
「いずれは自分の店を持つのが夢で、いまは修行中の身なんです。だけど、祐也―じゃなかった店長代理には驚かれました。新人なのに俺よりコンビニのあれこれに詳しいって」
 湿気を含んだ生ぬるい風が吹いて、彼女の前髪がめくれあがった。
「コンビニなんてどこ行ったって同じだってみんな言うけど、そんなことないと私は思っていて。『SUNNY'S』は全国に千五百店舗ありますが、ひとつとして同じ店はないんです。いいかんじにまわっているお店は足を踏み入れた瞬間にわかります。空気がちがうんですよ。立地や客層に合わせてお店ごとに仕入れを変えているし、どこにどの商品を並べるか、ポップの有無、スナックの回転や油交換の頻度―そういったひとつひとつの要素がケミストリーを起こすと客足も伸びるし売上もあがる。ときには客層が変わったりすることもある。コンビニって生き物なんです」
 話し出したら止まらないといったかんじに熱っぽい口調で彼女は語った。その目が外灯を受けてきらきら光っている。今夜は星が出ていないけど、こんなところに落っこちていたのか。
「なんでさっき、その、店長代理には、俺のこと正直に言わなかったの?」
「そう言っておいたほうがいいのかなって。成瀬さん、あんまり素性を知られたくなさそうに見えたから」
「よくわかったね」
「普段からレジでもあんまり目を合わさないようにしてるし、いつもキャップをかぶって人目を気にされているように見えたから。さっき声をかけるときも迷ったんですよ。もし私が成瀬さんのことを知ってるってわかったら、もうお店にきてくれなくなっちゃうかもって」
 図星過ぎて返答のしようがなく、かわりに俺は「SUNNY'S」で買ってきたソイラテの残りをストローで一気に吸いあげた。いつもは気にしたこともないのに、ず、ず、とカップの底で鳴る音がやけに耳についた。
「でも、ファンの方に見つかりそうになって焦ってる成瀬さんの顔を見ていたら放っておけなくて、体が勝手に動いてました」
 そう言ってにっこり笑うと、彼女もソイラテに突き刺したストローを口に含んだ。ちゅう、とかすかに音がしたけど、まったく不快じゃないどころか耳に心地いいぐらいだった。
 もう遅いから家まで送っていくという申し出を、自転車だから大丈夫ですと彼女は断った。
「成瀬さんこそストーカー被害者なんですから、もうちょっとそれらしくしてくださいよ」
「それらしくってどんなだよ」
 思わず笑ってしまった。彼女と話しているとそういう瞬間が何度かあった。完全に素に戻って、ただの成瀬愛生が笑っている。そういう瞬間。
「名前訊いてもいい?」
 そういえば名札を見るのを忘れていたと思って別れ際に訊ねた。
「なまえ」とつぶやくと、どうしようか迷っているみたいな、微妙な間があった。
「いや、言いたくないならいいけど」
「そういうわけじゃないんですけど、だってよく行くコンビニ店員の名前をおぼえたらノイズになっちゃいますよ。いいんですか?」
「いまさらじゃない?」
「たしかに」
 彼女は背筋をぴんと伸ばし、「青木あおきマユです」と急にそこだけぎこちない発音になって名乗った。
「私のことは無視してくれてかまわないんで、これからも『SUNNY'S』には来てくださいね」
 どこかのアイドルが昔言っていたようなことを言い残し、自転車に乗って軽やかにマユは去っていった。



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