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【試し読み】嘘のような本当の話が起こったら・・・朝倉かすみさん『令和枯れすすき』

手描きの地図を片手に「わたし」はどこへ向かおうとしているのか? そこに待ち受けているものとは?
予想がつかない展開が、見事な描写で綴られていく。
朝倉かすみさんの新作の冒頭を公開いたします。

■著者紹介

朝倉かすみ
1960年北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞を、04年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞を受賞し作家デビュー。09年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞、19年『平場の月』で第32回山本周五郎賞を受賞。他の著書に、『ロコモーション』『静かにしなさい、でないと』『満潮』『にぎやかな落日』など多数。

■あらすじ

わたしの手には粗い手描きの地図がある。あの人が書いたものだ。変わった風体の、毎週金曜に決まって日雇い派遣の事務所で会う、名前も知らないあの人。地図の目的地を、あの人は「ずっとのおうち」と言った。わたしは心から信じていたわけではない。けれど嘘のような本当の話で、今わたしの目の前にそれはある。そして、おそらくあの人はこの「ずっとのおうち」の中で…。短編小説の名手・朝倉かすみが贈る濃密で芳醇な掌編世界。

■本文

 駅口を降り、「おソバ屋さん」を右に曲がる。線路沿いに直進し、「ウスチャ色のマンション」を左折、細道を歩くと丁字路に出る。突き当たりは「クリーニング屋さん」だ。黄のテント看板に白い飾り文字でファッションクリーニングと書いてある。ふむ。
 地図に目を落とした。すぐに目を上げ右に振る。あちらに五、六分も行けばいいのだ。そしたらこの「クリーニング屋さん」の並びに、と、粗い手描きの地図を雑に畳んでカーディガンのポケットにしまいかけたら、あ、と口がひらいた。「あ」、「あ」、「あ」、と続けざまに声が漏れる。
 こころのなかでは、噓だ、噓だ、と繰り返していた。その裏側で、ほんとだ、ほんとだったんだ、と思っていた。だんだんと前傾姿勢になっていき、すると本格的に泡を食った気分になっていった。なにかの拍車がかかった感じだ。だって目の先に家があるのだ。地図で「ココ」と矢印で指されたあたりに家が。ほんとに。ちゃんと。地図に描かれた通りの風景をあらためて見渡す。あの人の声が被さってくる。
(あのね、つっとのおうちの話なの)
 お腹にひとつの力も入っていない声だ。スの入ったゴボウみたいに割れていて聞きにくい。加えてあの滑舌の悪さ。しかも語句の頭が出づらいらしく、犬でいえば「うーーわん!」の「うーー」くらいの間があく。
(なにそれ)
 これはわたしの声。からかい、親しみ、同情なんかがごちゃ混ぜになった声。
(ちらないの? つっとのおうち)
 あの人はまず言葉の説明をした。保護猫に里親が見つかると、そこん家を「ずっとのおうち」というのだそうだ。へえ、そうなんだ、というふうにわたしが軽くうなずくと、あの人は背筋を伸ばして本題に入り、話し終えてこう言った。
(とれがわたちたちの、つっとのおうちってわけなんでつよ)
 微笑し、首を前に出すようにしてわたしの顔を覗き込んだ。目が光っていた。あの人の黒目は光ると、ふと、緑色に見える。その色がいつもわたしを少しだけ怯ませた。あの人の目の奥に果てしない野っ原が広がっているような気がしたからだ。
 そんなことを思い思いしながら歩いた。わたしたちの「ずっとのおうち」が近づいてくる。ちいさな、いかにもおんぼろな平屋である。
 中通りから三メートルほど奥まって建っていた。両隣と背後には低いアパートがあった。いずれの建物ともやはり三メートルほどの距離を置いている。ゆえに、おんぼろ平屋は正方形の空き地の真んなかにポツンと建っているように見えた。界隈はけっこうな住宅密集地だった。三メートル幅のぐるりを持つ家屋などほかにない。
 おんぼろ平屋のぐるりには膝までの高さの草が茂っていた。風が渡るといっせいにそよぐ。さやさやと優しく揺れて、わたしは大繁殖した藻類の漣(さざなみ)を連想した。と、おんぼろ平屋がお堀をめぐらせたお城に見えてくる。ふっ、と口元がゆるんだ。まーねー、と髪を払う振りをして、お城かもね、と胸の内で言った。わたしたちの、とそっと続ける。
 お堀越しにおんぼろ城と正対した。
 玄関は煤けた二本格子の引き戸だった。磨りガラスが嵌まっている。軒の下に汚れた白球の玄関灯がぶら下がっていた。左に表札の剝がした跡があった。右には縦長の郵便受けが掛かっていた。あちこち錆びた朱色の鉄製で、口からチラシを溢れさせていた。
 スーと鼻から息を吸い、玄関の引き戸をじっと見た。わたしの視線が家のなかに入っていく。内視鏡カメラみたいだ。ライトをぴかぴかさせて、自在にくねりながら奥へと進む。
 突き当たりに風呂場がある。左に進むと十四、五畳のリビングがひらいている。板敷きだ。縁側に通じているが雨戸を立てているのでひっそりと暗い。天井から長四角の吊り下げ灯が下がっている。紐スイッチのやつだ。点くまでちょっと時間のかかるやつ。点いたらジージーと虫のような音を立てる。それは虫のではなく蛍光灯の鳴き声なのだが、見上げるとわんさとコバエが集っているので、どちらのものか自信がなくなる。同時に、室内を雨のように飛び回る無数のコバエにも気づく。にわかにジージー音がこもって聞こえ出し、耳鳴りかもしれないと思い始める。小学生だった頃、夏休み、中耳炎にかかったことがあった。治療の途中で「もう治った」とひとり決めして耳鼻科に行くのを止したので、その後遺症かもしれない、と耳鳴りの原因を自分自身に説明し、ようやくわたしは左の壁に目を向ける。あの人がぶら下がっている。天井に渡した頑丈な飴色の角材に丈夫なロープを引っ掛けて決して解けない輪をつくり、首を括っている。あの人の足の下には炉を切ったような四角い穴が空いている。その、すぐそばに、木製の三段の踏み台が横倒しになっている。きっとあの人は四角い穴のきわに踏み台を置き、嚙みしめるように三段のぼり、丈夫なロープでつくった輪っかに首を入れ、「えいっ」と蹴ったに違いなかった。

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