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【試し読み】津村記久子さん『うどん陣営の受難』

7月7日に発売する津村記久子さんの新作小説『うどん陣営の受難』を、
5月19日よりU-NEXT限定で先行配信開始しました。
会社の代表選が舞台となる本作は、職場のめんどくさいあれこれが描かれていて、共感&笑ってしまうこと必至です。
ゲラを読まれた書店員さんが「今までのお仕事小説とは一線を画す傑作!」と太鼓判の本作!
「タイトルにあるうどん陣営って何⁇」の疑問もクリアになり、おもしろさにどっぷりはまる冒頭を大公開します。ぜひご覧ください。

■著者紹介

津村記久子(つむら・きくこ)
1978年大阪市生まれ。2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で第21回太宰治賞。2009年「ポトスライムの舟」で第140回芥川賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2019年『ディス・イズ・ザ・デイ』でサッカー本大賞など。他著作に『ミュージック・ブレス・ユー!!』『ワーカーズ・ダイジェスト』『サキの忘れ物』『つまらない住宅地のすべての家』『現代生活独習ノート』『やりなおし世界文学』『水車小屋のネネ』などがある。

■あらすじ

四年ごとに開かれる会社の代表選挙。一回目の投票は票が散らばったため、上位二名による決選投票が行われることになった。現体制は手堅い保守層から支持を集め、二番手につく候補は吸収合併した会社のプロパー社員のリストラ等過激なスローガンを掲げる。接戦が予想される中、両陣営共に動向を窺うのは、一回目で三位につけた候補の支持者たちであった。運動員の送り込み、ハラスメント手前の圧力、上司からの探り…。社内政治の面倒臭さをリアルにコミカルに描く。

■本文

 その日はみどりやまさんの落選後の最初の金曜日だか土曜日だった。どちらか微妙だなと思うのは、アナウンスされた集まりの開始時間が二十三時だったからだ。私がよく顔を出している緑の会合は、夜型の人たちがかなり多いので、そのぐらいの時間に会合が開かれることがよくあった。家庭のある人は、定時後に帰って食事を作ったり子供を寝かしつけたりした後やってきて、家庭のない私のような人は、食事をしてうとうとした後に、また会社の会議室に出かける。
 面倒なようだけれども、集まりはだいたい一時間半で終わるし、いつも運営のおごりでうどんが出るので、あまり不満には思わず出かけるようにしていた。集まりで食べるうどんはおいしい。議長の緑山さんの大学時代の友達の実家が、この近所で製麺所をやっているから、安くておいしいうどんを出してもらえるのだという話を聞いたことがある。
 会議室には、第一回投票の直前に集まったのと同じぐらいの人たちが来ていた。私たちは代表選で負けたし、もうばらばらになっていてもよかったのだが、緑山さんが会合に来てくれと熱心に呼びかけたから人が集まったようだった。私は、後ろの方の中ほどの列に席を見つけたので、立ったまま会議用のデスクにバッグを置いてその場所を確保し、うどんの配給の列へと向かった。列の二人先には、丸いニット帽をかぶった守衛の秋野さんがいて、声をかけると、やあこばちゃん、と振り向いた。
「かき揚げはもうないんだって」
「あー今日もか」
 私と秋野さんの間にいる、秋野さんと似たようなニットの丸い帽子をかぶった女性は、かき揚げはいつも二十個しか作らないからすぐ出ちゃうんだよ、と教えてくれる。
「そうなんですか、知らなかった」
「うどんを提供してくれる製麺所と自宅が近いの」
「へー」
 話しているうちにすぐに秋野さんの番が来て、私たちはプラスチックの容器に入ったうどんをもらい、それぞれの席に戻った。お箸は家から持参だ。
 会議室にいる人たちが、ざわざわとりとめもなく談笑している中、容器の半分ほどのうどんを夢中で食べた後、今日はどのぐらい現地採用の人がいるんだろうかと部屋を見回してみる。だいたい三分の一の人が丸い帽子をかぶっていた。帽子の人たちは、みんなこの時間帯は生き生きしている。現地採用の人たちと私たちは、身体的に何ら違いはないそうなのだが、やっぱり子供の頃から夜型の習慣があるのとないのとでは夜に対する適応能力に差があるのだろう。
 私が勤務しているやしろもり社は、二十年前にこの土地にやってきて、地元にあったはな社を吸収合併した。地域の伝統的な丸い帽子をかぶっていて、主食がうどんで夜型の人たちのうち、二十年以上勤務している人たちは、どの人も野乃花社で働いていた人たちだ。穏当な買収だったのか、それとも敵対的なものだったのか、社員の間では今も意見が分かれるのだが、社員同士はとにかく協力し合って、特に分け隔てもなく働いている。現地採用の人たちは、もともと野乃花に勤めていた人たちと、合併後に採用された人たちを含めると、全社員の五分の一を占める。
 先日、四年ごとの会社の代表を決める投票があった。この会合の議長である緑山さんは、四年前にも立候補して落選したのだが、今回はかなりいいところまでいって、得票率24%で三位という結果に終わった。一位のあいには4%、二位のじまには2%という僅差で、緑山さんは決選投票である第二回投票に進む権利を失った。
 緑山さんは、この地方の出身ではないけれども、大学一年からの二十数年間をここで過ごし、現地採用の女性と結婚したため、野乃花の人たちの支持が厚い。十五年前まで社食になかったうどんを導入する運動をしたのも、緑山さんなのだという。緑山さんが権益を代弁しているのは、主に元野乃花の社員さんや現地採用の人々、また彼らのライフスタイルに共感する他の地域からやってきた社員、ライフスタイルに共感していなくても、減給や納得のいかない合理化、まだ実施はされていないが常に疑惑があるリストラに反対する末端から管理職までの社員、といった雑多な人たちだった。共通しているのは、給料を減らさないでくれ、ということと、人を減らさないでくれ、ということだった。リストラの候補に挙がるのは、常に吸収合併時に野乃花にいた社員さんたちだったが、そちらがまかり通ってしまったら我々だって安泰ではない、割れ窓理論と同じです、まずは会社に窓を割らせてはいけません、と緑山さんはよく言っていた。
 会社の状況を考えると、「お金も人もどちらも」という考え方はあまり現実的ではないのはわかっている。けれども、はじめから諦めて抵抗しなければ、今の代表や次の代表のいいようにお給料も人員も削減されてしまうことも目に見えている。だから、藍井戸や黄島の支持者たちから「お花畑ども」とそしられているのは知っていても、私や他の人たちは緑山さんに投票した。
 私自身はこの地域の出身ではないけれども、夜型でうどんが好きだし給料は減らされたくないし、自分や知り合いがリストラされるのは嫌だ、という理由で緑山さんを支持している。今日のうどんもおいしいので、また四年後がんばるか、と大して票を募る運動にも関わらないくせにのんきに思う。
 うどんを食べ終わると、二列右斜め前の席から池田先輩が、こばちゃーん、と手を振ってくれたので、私も頭を下げて手を振り返す。池田先輩は、同じ部署の先輩だ。今の仕事を一から教えてくれた、忍耐強くていつも落ち着いているいい人だった。最近、飼っていたウサギのニコちゃんを亡くし、ものすごく落ち込んで休職した。そのため、集まりにも全然来なかったのだけれども、今日から復帰することにしたのかもしれない。
 緑山さんが演壇の近くにやってきているのが見えたので、私は急いでうどんのプラスチック容器を返却に行く。席に戻るのと同時ぐらいにざわざわが静まって、緑山さんが話し始める。
「えーみなさん、先日は私の代表選を応援していただき、どうもありがとうございました」緑山さんがそう言って壇上から頭を下げると、まばらな拍手が始まり、それは時間を追うごとにだんだん確信的な密度の高い拍手になっていく。「拍手をありがとうございました。惜しくも選外という結果になってしまい、大変残念に思います。あとたった2%で、私たちの考えが二番目の多数を占め、決選投票に進めていたのかと思うと、悔しいと同時に、四年前よりも私たちに共感してくださる方が増えていることに感謝の念が込み上げます。本当にどうもありがとうございます」
 また拍手が起こる。誰かが指笛を鳴らす。たぶん野乃花の人たちの誰かだと思う。そういうノリのいい人たちなのだ。
「負けたなら負けたで、また四年後を目指しますという話でよいのかもしれませんが、今回お集まりいただいたのは、四年後ではなく、これから実施される第二次投票について、皆さんに心に留めておいていただきたいことがあるからです」本題が始まりそうな雰囲気になってくる。今度は拍手は起こらなかった。「ご存じの通り、第二次投票に進む藍井戸氏は28%、黄島氏は26%と接戦になっております。彼らの自力だけでは、ほとんど当選の行方は見えないと言っても過言ではない状況になってまいりました」
 近くの誰かが、早くも詰めていた息を吐き出すのが聞こえる。緑山さんがこれから言うことを先取りして、そのことに拒否を示しているみたいに思える。私は特に反応はしなかったけれども、気持ちはわかる。
「そこで、我々という大きなリソースが、彼らのどちらに傾くかということが重要になってきます」
 緑山さん以外は誰も話をしていなかった会議室は、にわかにざわっとし始める。おそらく、緑山さんが言っていることの意味がわかった上でめんどくさいと思う人たちの唸り声か、リソースって何? 我々はリソースだったの? という疑問の声のどちらかだと思う。
 緑山さんも、なんとなく後者の雰囲気がわかったのか、渋々ながらという態であけすけな言葉を口にする。
「藍井戸氏にとっても、黄島氏にとっても、我々は大きな票田なのです。今後、藍井戸氏、黄島氏、双方の支持者が、我々の支持を取り付けにやってくることが予想されます」
 きけーん、棄権するよー、心配しないでー、という声が口々に聞こえる。私は、この団体のこういう適当な雰囲気が好きだけど、緑山さんが退くなり諦めるなりした後、果たして自分たちが他の代表を送り出せる集団なのかとも少しだけ疑問に思う。
 緑山さんはいったん黙って、彼らのエールとも野次ともつかない言葉の一つ一つに軽くうなずいた後、再び話し始める。
「ここで、藍井戸氏と黄島氏の方針について整理しましょう」
 私は一応、携帯のメモアプリを出して、これまで自分なりに藍井戸と黄島のやり方についてまとめてきたことを参照する。四年前に代表選に当選した藍井戸は、現在の会社の代表を務めている。私と同い年なので四十代前半だけれども、ずっと順調に出世してきたせいか末端の人間の気持ちを汲むことができない上、頭は堅くて、会社の業績悪化を補填するには減給しかないと考えていて、給料減らすぞとずーっと言っている。しかしまだ実施はされていない。黄島氏は、二十四年前に代表だった母親の跡を継ぐ形で現れた人物だった。年齢は藍井戸よりは二、三歳下だと思う。野乃花社の吸収合併の際に、野乃花の社員さんたちをリストラしなかったことに懐疑的で、今の会社の閉塞感を打開するためには、野乃花の社員さんたちに退職を促し、改めて社之杜社としての一体性と結束を取り戻すことが肝要だと説く。そうすれば、残った社員は減給を免れることができるという。
 控えめに言って、どっちもくそではある。緑山さんは、どっちもくそのくそたる点を淡々と整理したあと、もう一度、彼らが私たちの支持を取り付けにやってくる、ということを強調した。そしてまた上がった棄権するよぉ、との声に、今度は首を振った。
「私たちの得票率には及びませんでしたが、むら氏が12%に達していたことはご存じですよね」
 緑山さんの言葉で、紫村のことを思い出すようにその場が静かになった。紫村は黄島の母親の側近だった人間で、野乃花の人たちを過剰に敵視している上、彼らの夜勤のための設備投資について、彼らの給料から三割を返還するように求める、という過激な方針を明らかにしている。紫村は、今会社が大変なのは野乃花の人たちを吸収してしまったからで、彼らさえいなくなれば、会社はまた元通りの隆盛を取り戻せる、減給もなくてすむ、と黄島以上にはっきり発言している過激な候補者で、当然支持者は多くはないのだが、それでも投票した人のうち、百人に十二人が紫村を支持していると思うとうんざりするものはある。
「紫村氏の支持者は、ほとんどが黄島氏支持に回ると見られています。そして得票率10%を獲得したももはら氏の支持者が、方針の似ている藍井戸氏の支持に回るとすると、ざっくり足して両者共に38%の支持があるということで拮抗します」
 桃野原さんは、若くて穏健な中道派で、藍井戸の支持層から独立した一派だった。緑山さんとも言っていることは近いけれども、どちらかというと、社員よりは会社の利益を優先する考え方なので藍井戸寄りと言えなくもない。
「そういうわけで、藍井戸氏、黄島氏の両陣営は、私たちの次回投票での動きを注視せざるを得ないわけです」緑山さんは、次に言うことに備えるように、手元のグラスから水を飲んで少しの間うつむく。そして、また私たちをまっすぐに見て話を再開する。「棄権というのも一つの意思表示かもしれません。ですが、私たちに決断が委ねられている以上、それを放棄してしまうのは果たして倫理的なことなのであろうかとも思います。よろしければ皆さんには、より冷静な決断、より多くの社員の安定につながるような決断をしていただきたく思います。私からは以上です」 
 緑山さんはそう言って一礼し、ちょっと戸惑っているような拍手の中、壇上から降りていった。え、棄権する気満々だったんだけど、それじゃだめなわけ? と前の列の帽子をかぶった女性と、同年代のそうじゃない女性がひそひそと話し合っていて、話しかけられたわけでもないのに私もうなずいてしまった。
 その後、運営の今後の人事についての報告などがあって、集まりは一時間半で終わった。一時にはぎりぎり帰れる、寝付く前になんかドラマ一本ぐらいなら観れそうだ、と喜びつつも、緑山さんから決選投票の棄権を阻止するような発言があったのは複雑だった。
 会議室にいた人たちと一緒にぞろぞろ会社を出ると雨が降っていて、私たちを待ち受けていた数人が駆け寄ってきて、傘のない人はいらっしゃいませんか? 返却不要です! と呼びかけ始めた。私は持っていなかったのだけれども、あまりひどい雨でもないし、雨宿りしながら帰るつもりだったので、しつこく傘を押しつけてこようとする彼らを、いいです、いいです、と押し戻しながら会社の敷地を出た。
 傘はビニール傘だったけれども、フチと持ち手が黄色で、いったい誰が私たちに傘を配るように差し向けたのかということは一目瞭然だった。半分ぐらいの人は、傘を渡そうとしてくる人々を避けるように離れたところを歩こうとしていたけれども、助かるー、と言いながら傘をもらっている人もいた。
 明日の夕方、勉強会があるんですけれどもいらっしゃいませんか? という勧誘の声も聞こえ始めた。私の隣を歩いていた、自分の傘を差している帽子の人が、軽く首を振っていた。方針についての誤解を解きたいんです! 野乃花の皆さん! と黄島の運動員がよく通る声で言った。
「私たちと共に戦ってくださる方であれば、社内に残っていただくのは大歓迎です!」
 じゃあ支持しない人間の権利はどうでもいいってことね、と先ほど首を振っていた帽子の人が呟いているのが聞こえた。
 それでも、真新しい傘を開く音が背後からいくつも聞こえると、私は複雑な気持ちになった。



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