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●発売後即重版●冒頭大公開!【試し読み】高瀬隼子さん『め生える』

 汗をかくと、はげが目立つ。髪と髪がくっついて頭皮が露わになるのが嫌で、汗がひくまでトイレの個室にいた。ハンカチで頭と首と、耳の裏を拭いた。滲んだにおいがする。案内された三畳ほどの広さのブースは、クーラーが効いていて涼しい。約束の時間の十五分前にこのビルに到着し、違うフロアのトイレで息を整えてからやって来た佐島には、すこし肌寒く感じられるくらいだった。
 佐島は木目調の椅子に腰かけ、同じ柄のテーブルに両手を置いた。尻の下がほんのり暖かかったので、直前まで別の客がいたのかもしれない。ブースは半透明の薄い壁で仕切られている。入る時に同じ形のブースがもうひとつ並んでいるのが見えたが、そちらは無人のようだった。天井のライトが、黄色とオレンジ色を混ぜたような色合いをしている。正面の棚には、ヘアセットや髪型に関する雑誌が何冊かと、シャンプーやコンディショナー類の見本品が数種類ずつ。それからかつらが、濃い黒色から明るい茶色、グレイヘア、白髪までグラデーションで並んでいた。サラリーマンカットの形がほとんどだが、かぶれば肩や胸元まで毛先が届きそうな長さのものもある。長髪の形のものも、女性用ではないはずだ。ここは男性用のヘアケアセンターなのだから。
 それらは透明な丸い模型にかけられているので、かつらかつらして見えるが、人間がかぶっているところを想像すると、ほんものの髪と見分けがつかないのではないかと思う。何でできているのかは分からないが、プラスチックにありがちなてかてか感はない。光をしっとりと吸収しながら、最低限だけを外に返す、自然な髪の毛の在り方に見える。肌ざわりはどんなふうだろうか、と佐島がそれに触れてみようと腰を浮かせかけた時、ブースの外で「失礼いたします」と声がした。返事をすると、自分と同じ二十代中頃の男が入ってきた。
 逃げようとする猫に向けるような、おだやかなほほ笑みを浮かべているが、そんな営業用の笑顔よりも彼のふさふさした髪に目がいく。黒髪の短髪ツーブロックが、きっちり整えられている。ほんものだろうか。生え際やつむじに目を向ける。黒髪に隠れてうっすら見える白い地肌は自然だ。これは多分ほんものだろう。ついじろじろと見つめてしまったが、男はそんな視線には慣れているのか、笑顔を崩さず、なめらかな手つきで名刺を取り出した。
『HAERU 企画営業部販売成長課 本多正志』―販売成長課という部署名が気になる。成長というのは何を成長させるんだろう。販売を? 販売は促進されるものではないか? としたら成長するのは売られた側か、売る側か。どういう人たちが働いているのだろう。
「お話を始める前に、なにかお飲み物はいかがですか」
 名刺を取り出すのと同じ手馴れた動きで、本多は雑誌と一緒に棚に並べてあったA4サイズのメニュー表を取り、差し出した。佐島が受け取る時には、にっこりと目元をほころばせて見せた。目を合わせるチャンスがあればその全部の機会でもって、自分が味方であることを伝えると決めているみたいだ、と佐島はすこし苦々しく思い、けれどそれ以上に、確かに安心もしているのだった。自分の顔を見た相手が優しくほほ笑んでくれるというのは、それだけで気持ちが楽になる。許されているような心地がする。
 佐島がアイスコーヒーを頼むと、本多は棚に置いてあった電話でそれを伝えてから、向かい合わせに座った。飲み物はどうせおれの分しか来ないんだろうな、一人だけ飲み物を飲むっていうのはけっこう気づまりなんだけどな、と考えていると、扉がノックされ、スーツを着た女性スタッフがアイスコーヒーを運んできた。
 本多も男性だし、受付にも男性がいたので、こういうところはスタッフ全員が男性なのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。大手企業なのだから当たり前と言えば当たり前だが、何が当たり前なのかは分からない。アイスコーヒーを手に取り、ストローをくわえて一口飲む。きんと冷えている。冷たい流れが佐島の喉を過ぎるのを待って、本多が話を始めた。
「本日は、増毛または育毛のコースをご相談されたいとのことで、ご予約を賜っておりますが」
 おりますが、と言ったのに続きはないらしく、本多が促すように佐島を見つめる。佐島は、アイスコーヒーを飲んだばかりなのに喉の渇きを覚え、ねばつく歯と歯茎を引きはがすようにして口を開いた。
「そうですね、あの、見てのとおりなもので」
 そう言って、髪が少なくなった頭に手をあてる。とはいえ、佐島の右手の指先は髪が生えている部分に触れている。髪がない、地肌が露出した部分は触れている箇所よりまだ三センチほど先だった。頭の頂点周辺が特に目立つ。前髪もまばらになっていた。本多にじっと見つめられ、佐島は自分の顔が熱くなるのを感じた。
 別に、はげだと思われるのは昨日今日に始まったことではない。若年性はげというのか、大学生の時にはすでに薄毛が進行し始めていた。二十歳前後の同級生たちが髪を茶色や金色や紫に染め上げ、ホールド性の高いワックスで自在に形を変えて遊ぶ中で、佐島は地肌にダメージを負わせないよう染めたことのない黒髪のままで、飲み会ではおまえそれやばいな、河童じゃん、とイジられた。
 傷ついたが、傷ついたと伝えても仕方がない。安易に共感されるくらいなら、笑われる方が呑み込めるかもしれない。徹底的に嫌悪し恨む理由にできる。共感には悪気がない。まるで味方みたいな顔で近付いてくる。おれ、はげってこと結構気にしてて、触れられるとつらいんだよと言うと、そうなんだーおれもひげが濃いのとか気にしてるから分かるわ、などと返される。何が分かるというのだ。同じように容姿にコンプレックスを抱いているから分かるというのか。そんな発想を抱く時点で全然分かっていない。ひげが濃い? ばかか。ひげが生えていてそれが濃いからつらい? ふざけるな。こっちは、生えてこないのだ。生まれてこない苦しみだ。何が分かる。何が。分かるはずがない。
 だから佐島は、ビールの泡を飛ばし「知ってるか、河童って尻の穴が三つあるんだってよ」と笑って見せる。幸いにも、じゃあおまえの尻も見せてみろよとパンツを引き下げにくるほど下品なやつは仲間内にはいなかった。ぎゃははとあえて過剰にうるさく笑い、服の上から尻を何度か叩かれるだけで許された。付き合ってきた人間はみんな、それなりに上品で優しく、常識のあるやつらだった。全員が器用に就活をこなして大学卒業と同時に正社員で勤め始め、今でも時々集まって酒を飲む。まともだし気のいいやつらだ。昨今厳しくなったハラスメントやコンプライアンスの話を飲みの肴に出しても、面倒くさがらずに「そういう人たちもいるからな」と受け止めている。それでも、はげは笑っていいものになっていて、笑う。
「接客業をしていまして、大人数の前に出る機会はそう多くないんですが、単純に会うお客さんの数は多くて、見られる仕事ではないのに、会うほどストレスがあるというか。こんなふうでは」
 両サイドは同世代と同程度に生え揃っているのも悪いのかもしれない、とそんなふうに思っていたら、ふっと本多が息を吐いた。息の吐き方まで優しいので驚いた。
「ここで私が、気にされているほどではありません、私は自然であるように思います、と言っても意味がないのでしょうね。私はほんとうに、佐島様が気にされているほど、見てのとおりなどと、そんなに悲しい顔をされるほど、髪が少ないようには見受けられません。ただ、こちらにいらっしゃるお客様はみなさまそうなのですが、他人からどう見えるということではなく、ご自身がどう感じておられるか、ご自身が現状のままではつらい、あるいは物足りないと感じていらっしゃる、だから髪の毛を増やしたいと希望している、ということなのだと存じます」
 その言葉を、佐島は嚙みしめるように聞いた。何度か頷いて見せながら、その振動で目から涙が飛んでしまいそうだった。そうなのだ、おれは、みんながはげを笑うからとかそういうことだけではなくて、単におれが、おれ自身がこの頭では嫌だから、髪を増やしたいのだ。
 本多は、しばし黙り込んでしまった佐島の次の言葉を辛抱強く待っていた。全部分かっていますよというほほ笑みを浮かべた口元と、すこし寂しげな目元が、佐島をますます励ました。どうしたらいいか教えてください、どういう増毛や育毛のプランがあるのかを。
 佐島がそう尋ねようとした時に、それは起きた。
 はじめ、本多は何が起きたのか分からない様子だった。だからそれは、正面で見ていた佐島の方が正確に把握している。
 まずは浮き上がってきた。なんだかわさっとしたな、と思ったのだ。本多のサラリーマンらしく眉毛にかかるくらいの高さで横に流した前髪が、つい今しがたまでワックスで綺麗になでつけられていたのに、急に足場をなくしたかのように乱れた。激しい動きをしたわけでもないのにどうしたのだろうと思って見ていると、何か違和感を覚えたらしい本多が、佐島に落ち着いた笑みを向けたまま、さりげなく手を前髪にやった。その指先が触れた途端、前髪が束になって落ちた。それは二人の間にある木目調のテーブルの上に、ばらばらと広がった。ワックスで固まった表面の部分はその形のまま落ち、それ以外の部分はさらさらと解体する。
 佐島がひっと息を呑み、座ったまま上半身を後ろに引いた。本多が驚愕に目を見開く。先ほどまでほほ笑んでいた目と口が、その名残を残したまま引きつった。目元はほころんでいるのに、その真ん中にある瞳からは光が失われていく。弓形の眉が凍る。佐島が足に力を入れて体ごと後ろに引いた、その時に立てた椅子の音が合図になり、本多が立ち上がった。後ろの棚に置いてある鏡を取ろうとしたらしい。勢いよく振り返る。その俊敏な動きに付いていけなかった髪が、根こそぎ落ちた。糊付けもせず頭に載せていただけなのでそんなの当たり前です、とでもいうように、まとまって全部。ずるんっ、という効果音が聞こえたような気がするくらい、それは暴力的な視覚情報だった。
 抜けた髪の一部分は勢いが止まらずテーブルから滑り落ち、床にまで散らばった。佐島はそれを青い顔で見た。本多は棚の方へ振り返ったままの姿勢で、鏡に手を伸ばそうとはしない。固まった背中の向こうで、はあっはあっ、と荒い息遣いが聞こえた。
 始まった、と佐島は思った。何がだろう。けれど始まった、きっと始まったのだ。確信めいた不安を感じ、両手を自分の頭にあてる。両サイドの髪が生えている部分を優しくなでる。
 どのくらいの時間が経っただろうか。本多がこちらを向いた。ゆっくりとした動作だったが、ぎこちなさはなく、髪が抜ける前と同じ、自然で丁寧な動きだった。佐島はむしろそのことにぞっとし、本多の顔を見つめた。意識して目を見ようとしないと、視線が勝手に彼の頭の方へ吸い寄せられてしまう。その視線の動きがどんなふうに心を傷つけるか知っているからこそ、目を見よう、目を、と自分に言い聞かせた。
 本多は口元にかすかな微笑を浮かべたまま、テーブルの上に散らばった髪の塊を見下ろした。つられて佐島もそれを見る。それはあまりにまるきり全部の髪なので、本多の頭本体のように見えた。
「ご安心ください」
 と、本多が言った。佐島が髪から本多の顔へ視線を戻すと、本多は誰もが安心感を抱くような笑顔を浮かべていた。なんだよその笑みは。悲鳴をあげ損なった佐島の喉がぎゅっと締まる。本多はそのおだやかな表情のまま話し始めた。
「今、私の髪が抜けてしまったようですが、すみません、驚かせてしまいましたよね、急なことで。自分でも驚いているのですが、いや、でも良かったです。逆に。こうなったことで今後は弊社の製品を自分自身で、」
 本多が唐突に黙った。営業用の笑顔のまま、口だけがぱくぱく開いたり閉じたりしている。なにかを話しているつもりなのだ。ブースに沈黙が降りる。佐島は体を強張らせて本多を見つめていた。しばらくすると、本多ははっと目を見開いて手を口に当て、なでるようにして閉じさせた。それからその手を頭の方にやり、頭皮に張り付いて残っていた数本の髪を払って落とした。目はもう佐島の方を向いておらず、壁や床を向いていたが、なにも見ていないだろうということは、瞬きも忘れた瞼の様子で分かった。両手をこめかみから頭全体を包み込むようにあて、ぐりぐりとマッサージする手つきで動かし始めた。
「冷たい」
 重たいつぶやきが本多の口から洩れた。頭皮が冷たいのだろうか。頭を揉む手の動きがどんどんと激しくなっていき、息を絞り出すような呻き声も聞こえた。
 佐島は呆然と動けないでいたが―本多は、まずい。本多は、病気だ。助けてあげなければいけない。かわいそうだ―そう思うと、急に体に力が戻ってきた。椅子から立ち上がり、ぱっとブースから飛び出した。叫ぶ。
「誰か! すみません、誰か来てください! 大変なんです!」
 大声を出しながら、事務室があるらしい奥のドアへ向かって行く。背後から物音が聞こえて振り返ると、たった今出てきたブースの扉が閉じられていた。本多が閉めたのだろう。どうしてと考える間もなく、「誰も入って来るな!」という怒鳴り声が聞こえた。先ほどまでの穏やかな口調からは想像できない、悲鳴のような声だった。
 奥の部屋から出てきた数名のスタッフが「どうされましたか」と、怪訝な表情を浮かべて佐島に近づいて来る。本多のいるブースはもう静かだ。潜んでいるのだ。佐島は悲しかった。先ほどまで感じていた恐怖はいつの間にか去り、本多を思う哀しみで心が満たされていた。かわいそうだ。はげてしまって、かわいそうな人だ。
「早く! 早く、助けてあげましょう」
 佐島は髪の生えた数人と力を合わせて、ブースの扉を開くことに成功した。

■著者紹介
高瀬 隼子(たかせ・じゅんこ)
1988年愛媛県生まれ。東京都在住。立命館大学文学部卒業。2019年「犬のかたちをしているもの」で第43回すばる文学賞を受賞しデビュー。2022年「おいしいごはんが食べられますように」で第167回芥川賞を受賞。著書に『犬のかたちをしているもの』『水たまりで息をする』『おいしいごはんが食べられますように』『いい子のあくび』『うるさいこの音の全部』がある。

■あらすじ
「みんなはげてしまうならいい。一人残らず、一本も残さずに」
髪の毛が根こそぎ抜ける感染症は、いつしか中高生以下を除く全ての人がはげる平等な世界に変えた。
元々薄毛を気にしていた真智加は開放感を抱いていたのだが、ある日、思いがけない新たな悩みに直面し、そのことが長年友情を培ってきたテラとの関係にも影響が及ぼしそうで…。
同じく、予想外の悩みは、幼少期に髪を切られる被害にあった高校生の琢磨にもある。それは恋人の希春と行った占い師のお告げがきっかけだった…。

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