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「The Miracle of Teddy Bear」をもっと楽しむ!著者Prapt×訳者福冨渉インタビュー

2023年7月7日。
「The Miracle of Teddy Bear」発売間近の七夕に、織姫と彦星ばりの距離を電波の川に支えられ、本書の訳者:福冨渉さんによる著者:Praptさんへのインタビューの機会をいただきました。
本書が生まれた経緯、ドラマの反響、タイの創作環境、そしてPraptさんが作品に込める想い。
実は同い年のお二人の話、必読です。

Prapt(プラープ)
1986年バンコク生まれ。本名チャイラット・ピピットパッタナープラープ。タマサート大学商学・会計学部業務管理専攻を卒業。最初のサスペンス小説『狂騒の混沌』(2014年)が国内の多くの文学賞を受賞し、「タイのダン・ブラウン」とも称される。またサスペンス以外にも、さまざまなジャンルの小説を執筆する。メディアの注目度も高く、『狂騒の混沌』やラブ・コメディ『この運命は衰えない My Precious Bad Luck』は、ドラマ化もされている。本作『The Miracle of Teddy Bear』は、プラープにとって初めてのBL小説となる。

福冨渉
1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、『絶縁』(共訳、小学館)など。

タオフーが生まれるまで

福冨:ということで、ついに『The Miracle of Teddy Bear』[以下『テディベア』]の日本語版が発売されますね。タイ語版の出版が2019年の5月だったので、翻訳にだいぶ時間がかかってしまいました。ごめんなさい。

プラープ:大丈夫、分厚いからしょうがない(笑)。

福冨:もともとは、ウェブサイトで連載された作品なんですよね?

プラープ:はい。ただこの作品は、先に初めから終わりまでを書き上げてから、章ごとに掲載していってもらうようにしたという経緯があります。
『テディベア』の版元のDeepの場合は、ちょうど向こうが新しいレーベルとして創設されたばかりだったんですね。サターポーン・ブックス(สถาพรบุ๊คส์)という、ドラマ原作になるような異性愛の恋愛小説を多く出していた出版社が、BL小説のレーベルを作ったというので、声をかけてくれたんです。

福冨:なるほど。でもべつに、当時のプラープさんにBL作家としてのイメージはなかったはずですよね?

プラープ:というのもその当時、『狂騒の混沌 กาหลมหรทึก』(2014)とか『虎模様の猿 ลิงพาดกลอน』(2018)といったぼくのミステリー小説に登場する男性キャラクターたちをBLカップリングして妄想する読者たちがいたんですね(笑)。
はじまりは『狂騒の混沌』でした。ミステリー小説も書いたことがなかったのに、第二次世界大戦の頃を舞台にした警察モノのミステリーというプロットにしてしまって(笑)。古い法律とか、昔の警察についてのリサーチはもちろんしたのですが、主人公たちの助手で密偵を担うようなキャラクターたちについて、なにを書けばいいかわからない。なので、そのキャラたちについてBL妄想ができるような書き方にして、かれらの仕事はどんなものかというような、ディテールの部分から読者の目を逸らそうとしたんです(笑)。そもそも登場人物のすごく多い作品だったので、読者にそれぞれのキャラクターを覚えてもらうための方法という意味合いもあったんですが。

福冨:なんと(笑)。

プラープ:しかもそのふたりは、たったの4ページしか登場しないんですよ(笑)。だけど読者のあいだですごく話題になった。ふたりをメインにした作品を書いてほしいという声も多く挙がって『虎模様の猿』につながるんです。

福冨:読者の妄想や願望が、作家の作品に影響を与えていっている側面もあるんですね。興味深いです。それゆえにBL小説としての『テディベア』の執筆依頼も来たんだと。とはいえプラープさんにとっては初めての本格的なBL小説の執筆になったわけで、プロットづくりや執筆には困難が伴ったのでは?

プラープ:正直に言って、BLというものについてほとんど知らなかったんです。初めは、男性ふたりの恋愛を描くんだから、それはLGBTQ、あるいはゲイを表象するものなんだろうと理解していて。タイや中国のBLドラマを見てみたりもしました。
でも疑問が湧いたんです。「なんでまわりの友人たちは、主人公のセクシュアリティをこんなに簡単に受け入れてるんだ?」というような。BLというものがわからなくなった。イライラしちゃったんです。そのカッとなったイラ立ちを書くことにしたのが『テディベア』でした(笑)。現実が、ドラマの中みたいにうまくいくわけねえだろう、と(笑)。

福冨:実際、この作品をカテゴライズするのであれば、BL小説というよりも、ゲイ小説とかLGBTQ小説と呼ぶほうがいいように感じるときもあります。

プラープ:そうですね。BLの皮を外側にかぶせて、内側に自分の伝えたいことを書こうと思っていました。本当に難しかったのは、当時「プラープ」という名前には、文学賞を狙うような、シリアスなものを書く作家のイメージがついていたことです。どういう書き方をしたら、既存の読者にも受け入れてもらえて、BL小説の読者にも読んでもらえるのか。『テディベア』はタマネギみたいだという読者もいましたね。一番外側はキラキラした優しい世界なんだけど、皮を向いていくたびに中身がだんだん見えていく。一番内側には政治とか、そういったテーマがある、みたいな。

福冨:作中でナットくんがBLドラマのあり方について疑問を呈するシーンなんかもありましたけど、ドラマの業界とかBL小説の業界に対するいい問いかけになっているんじゃないかと思いました。

プラープ:『テディベア』のあとに『The Eclipse คาธ』(2021)を発表してからようやく、BL小説をきちんと読んで研究しはじめました。それで、BL小説はやっぱり、もうひとつのまったく別の世界だな、LGBTQとは完全に違うんじゃないか、と。アット・ブンナークさん[タイ日翻訳者・文芸批評家]とか、ナッタナイ・プラサーンナーム先生[文学研究者]みたいに、BLがどんなものかを説明してくれる批評家とか研究者の方の話を聞く機会も増えて、自分の理解も深まった気がします。『テディベア』はほとんどBLらしくない。そのあとに書いた作品たちのほうが、もっとBLらしいと思います。

「The Eclipse」

福冨:ある意味、いろいろな部分のバランスをとって書いた作品ということなんでしょうか。自分の書きたいことと、読者の一部が求めているものと、また別の読者層が求めているものと、あるいは出版社の求めているものとのあいだで。

プラープ:そうですね。実験でもありました。

福冨:ジャンルとしても一言では言いづらいですもんね。ミステリーもあるし、家族小説的でもあるし、性の話はもちろんあるし、政治や社会についても語っている。しかもその全部を、さらに上からファンタジーで覆っているという。

テーマが作品を形にする

福冨:そもそも「物」が自我をもつというアイディアはどこから来たんでしょう?

プラープ:子どもの頃、家にぬいぐるみが一杯あったんです(笑)。クマのぬいぐるみじゃないんですが、母のくれた小さなものがたくさん。小さいとき、寝る前にぬいぐるみたちを全部ギュってしてあげないと、みんな悲しむんだ、みたいに思ってました(笑)。それと昔、夜のドラマの前にやってたアニメがあったんですよね。タイトルを忘れちゃったんだけど……「物」が登場していて、人が見ているときは寝たふりをしているんだけど、人が眠ったり外に出たりすると動き出していろんなことをする、みたいな作品でした。
そんなような昔の感情から始まってるんです。ぬいぐるみが人間になったら、「物」が意志をもったらどうなるか、みたいなことを考えました。

福冨:人間のキャラクターよりも、「物」のキャラクターのほうが多いくらいですもんね。

プラープ:タオフーの世界を描こうと思ったからです。作中のほとんどが、タオフーひとりの見たものになっている。

福冨:人間の世界とタオフーの世界が接合していくんですね。そんな物語を、BLとして読むことも、ミステリーとして読むことも、家族小説として読むこともできる。もしかしたら政治的なテーマは入れなくてもいいんじゃないかと思うんですが、プラープさんはそれをあえて入れた。どうしてでしょう。

プラープ:まず、さっきも言ったみたいに「文学賞」の作家という冠がついてしまっていることで、怖くもあったんです。あまりに薄っぺらいものを書いたら罵られるかもしれないって(笑)。
そのうちに、童話みたいに、沢山の視点から語られる物語をあわせることで、政治的なテーマを語れるかもしれないって思ったんです。「奇跡」っていうのは、特定の人物のもとにしか訪れない。それは「格差」であり「不公正」であり「不平等」である、というところから始まって、そこから嘘が作られていく、と考えて、そのうちに政治につながりました。

実際、ぼくがミステリー小説を書くときでも、たくさんの事実に依拠します。だからリサーチを重ねていく。すると、問題のおおもとは、ぼくたちの暮らしている社会の制度であり構造であるということに気がつく。作家として作品を執筆しているうちに、結局はそちらの方向に突き進んでいってしまう、みたいな感じです。

福冨:社会構造についての大きな問いを続けているということなんでしょうね。たとえば作中に「112」という数字がしれっと登場することで、読者はそこで、なにに対しての問いかけがなされているのかわかる。本作の大きなテーマのひとつに「物語の不確かさ」というものがあるかと思いますが、これもやはり、自分たちの暮らす社会の制度や構造への問いといったところと関係するんでしょうか。

福冨さんによる「The Miracle of Teddy Bear」解説noteより

プラープ:そうですね。執筆していたときのタイの政治状況から、そちらを向かざるを得なかった。どうしてこの国にここまでの分断が起こってしまったのか、あらゆるひとが答えを探していました。そこから導き出せる答えというのは、それぞれの人間がそれぞれの物語を持っている、というものでした。つまり、自分が間違っていると考えているひとはだれもいなくて、みんな自分が正しいと思っている。「国のため」を掲げるひともいる。そんな感じで、それぞれにそれぞれの理由があって、それぞれの真実が存在していることで、対話すら不可能な状況になっていた。
 当時は文学界でも、同じような話をする作品が多かった。社会に暮らすひとりとして、そんな問いに惹きつけられている部分もありました。強い意図があったかというとそこまでではないんですが、自分が語ろうとする物語を解釈してみると、そういう問いに接続していった。
ぼくの執筆プロセスでは、プロットが先行することが多いんです。あるプロットが、どんなことを語れるか。そこからだんだん、自分の語りたいことを見つけ出していく。

福冨:特定のテーマや問いに向き合いすぎて、プロットが崩れていくみたいなこともありうるんでしょうか。

プラープ:ある作品を執筆していたときに、この世のどんなものでも作品に入れられるなと思えた瞬間があったんです。テーマとか主題が、作中のあらゆるものをコントロールしてくれるんだと。なのでむしろ、テーマがあるおかげで、それぞれの作品が似通わなくてすむと思っています。
1年のうちに長編を3本くらい書くこともあるので、似たような作品になってしまう危険性はかなりある。テーマがはっきりとしていれば、この作品ではこれをここまで語ろう、次の作品ではこの話をしようとはっきりさせられます。

福冨:作品で語るテーマは、自分で見つけていくんですよね。出版社からお題として与えられるのではない?

プラープ:はい。そのときの社会の環境とか文脈とかに応じて生まれることが多いですね。プロットがまずできて、それがなにと接続できたり、なにを反映できるかを考えます。
コロナのあとから、いろいろなセミナーをオンラインで聞くことができるようになったので、興味のあるものには参加してメモをとったりもしています。
『テディベア』のあとに『シャムの墓標』(2020)というディストピア小説を書いたんですが、これはプラープダー・ユンさんの、文学についてのセミナーに参加したのがきっかけでした。『ハンガー・ゲーム』が大ヒットしていた時期で、どこでもだれでもディストピアの話をしていた。ひとまずいろんな場所に自分で行って、素材を貯めておく。それがいつの日か使えるだろう、みたいな感じです。

プラープ:それと実は、『テディべア』の場合は、日本の小説『また、同じ夢を見ていた』からインスピレーションを受けています。

福冨:えっ。

プラープ:『テディベア』を何章か書き終えたタイミングで、旅行に行ったんです。旅行先でこの本を読んだらあまりにも良くて。自分が恥ずかしくなって、家に帰って、書いてあったぶんを全部書き直しました。『テディベア』も、第10章くらいまでは割と淡々と話が進んで、そこから一気にどんでん返し的に展開していきますが、そういうアイディアは『また、同じ夢を見ていた』から得たものなんです。

福冨:意外なような気もするし、 作品を読むとわかるような気もする。特定のジャンルにとどまっていないのがプラープさんらしさとも言えそうですし。

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プラープ少年の読書遍歴

福冨: おそらく読書好きの子どもだったのはきっとそうだろうとして、なにがきっかけでそうなったのか、覚えていますか。

プラープ:あまり。ひとつ覚えているのは、母が買ってくれた子ども向けの絵本で、そこに塗り絵もできるというものがあったんですよね。ぼくは絵を描くのも好きだったし、本を読むのも早くて、すぐ読み終わってしまった。新しい本を自分で買うお金もない。だからそこに物語を書いたりしていました。小学校に入ってからは、昼食を抜いてお小遣いを浮かせて、本を買ってましたね。

福冨:その頃って、どんなものを読んでたんでしょう?

プラープ:童話とか絵本はもちろんそうなんですが、ドラマもよく見ていたんですよね。渉さん知ってますかね? 昔、ドラマのあらすじをまとめた本っていうのが売ってて。俳優の写真が表紙で、薄くて、25バーツ[現在のレートで100円]くらいのやつ。家のお手伝いさんとかが買ってきてたのを、こっそり読んでたんです。小説という言葉も知らなかったけれど、それを真似して自分の物語も書いていて。

中学に入るとすぐに、今度はほんものの小説に出会います。つまり、ドラマのあらすじじゃなくて、ドラマの原作小説ですね。読んでみたら、これはドラマよりもおもしろい。どんどん読んでいきました。
といっても最初は、ドラマ原作の恋愛小説みたいなのばっかり読んでいて、シリアスで重い文学作品は読みませんでした。ウィン・リアオワーリンとかプラープダー・ユン[いずれも2000年前後に、実験的な方法論の短編が人気を博した]みたいに、東南アジア文学賞をとるような今っぽい作品も読んでみたりもしたんですが、ワケがわからなくて読めなかった(笑)。

そもそもぼくの家族はまったく本を読まなかったんです。父も母も。父なんかは昔は読んでいたみたいなんですが、年を経るにつれて仕事ばかりになって。妹がひとりいるんですが、彼女だけはぼくに引っ張られて読書をするようになりました。でもまわりの大人はまったく読んでいなかった。読書は無意味なものとすら思っていたようなんですが、幸いぼくは学校の成績がよかったので、その部分をきちんとやれてるなら、読んでもいいよ、ただ買いすぎるなよ、と。

福冨:タイのアッパーミドル家庭の典型みたいな雰囲気もありますね。

プラープ:そういう状況もあって、自分が理解できて、楽しいと感じられる範囲の作品を自分だけで読んでいくかたちになりました。それが高校生になるとJBOOK[2000年代初頭に日本の現代文学作品を出版して一躍ブームになった出版社]みたいなところの作品が、新しい世界を開いてくれました。『リング』とか、『金田一耕助』シリーズとか、『三毛猫ホームズ』シリーズ とか、そういう翻訳作品をたくさん読むようになって。

福冨:ミステリーとかホラーに興味が出てきたんですね。

プラープ:そのうえで、読んだあとに悲しくなったりする、感情の動かされるものですね。その前は辛くなるから読めなかったんですが、成長するにつれて、そういう作品が好きになっていった。そこからだんだんほかのジャンルも読むようになります。

大学を卒業して就職すると、覚醒というか、目覚めの時期が来ます。この世界とか社会っていうのは、子どもの頃に母から教わってたみたいなものじゃ全然ないぞという気付きが来るんですね。それで、昔読んでいたようなものは読めなくなった。代わりにチャート・コープチッティの『狂犬たち พันธุ์หมาบ้า』[退廃的な暮らしを送る若者たちの破滅を描く、1988年の小説]とか、サンスクリットっていう出版社が出していた、かなり重めな、海外の偉人の伝記のシリーズとかを読むようになります。自分の興味の変化にあわせて、書くもののスタイルも変わっていきました。

プラープダー・ユンさんの作品は、福冨さんの訳でも日本に紹介されております。


小説家Prapt誕生

福冨:子どもの頃、それこそ小学校に入る前から自分で物語を書いてらしたんですよね。そのあともずっと、読書の遍歴に沿うように、作品も書いていたんですか?

プラープ:はい。 最初は絵本に物語を書いていて、それから、ドラマのあらすじ本に出会うわけです。そこで、ドラマの展開が不満になって「どうしてこうしないんだ」と、自分で好きなように書き換えていました。

福冨:二次創作だ(笑)。

プラープ:そう(笑)。中学に入って本当の原作小説に出会うと、今度はそれをもとに書いていきました。鉛筆で、使いかけの紙の裏なんかに書いて。家がよろずやをやっていたんですよね。学校から帰ってくると、母が家事をしているあいだの店番をさせられました。そのときもし本を借りてきていればそれを読んだし、なければ自分で書いていたんです。
高校生になると、Dek-D.comっていうオンライン小説サイトに投稿するようになります。大して中身のないような、10代の子たちのコミカルな話です。卒業したあたりで出版社から連絡があって、ウェブに掲載されている作品を出版することになりました。4冊か5冊出版されたのかな。

大学を卒業するときには、もう少し大人っぽい作品を書きたいなと思っていました。タイの書籍市場も変化していて、ファンタジーとか、さもなければ18禁のエロティックなやつが流行していた。でもぼくにはそういうのは書けない。かといって本格的なミステリーも書けなくて、大学生がちょっとした探偵ごっこをする程度のものなんかを書いて、ウェブに載せる。そういうことの繰り返しだったんですが、今度はちっとも出版には結びつきませんでした。
27歳か28歳の頃になって、焦りを感じて。しかもまわりは、どんどん次のステージに進んでいってるわけです。結婚して子どもがいたり、会社で昇進したり、大学院に入るやつがいたり。だけどぼくにはなにもないじゃないか、と。
平日に会社から帰ったあとと土日はどこにも遊びに行かず、ひたすら本を読んで、執筆だけしていたんです。没頭していた。だけど、なんにも報われないじゃないかという疑問が湧いてきました。これ以上書き続けるなら、ぼくの作品は大丈夫、世に出る価値があると自分に証明できないと、もう書き続けられないと思った。
だから自分で期限を区切ることにしたんです。あと1年、自分に時間をあげよう、それで出版に結びつくようなものが書けなければ、もうやめるべきなんだ、ほかのことをして、人生を前に進めよう、と(笑)。

そのときに『狂騒の混沌』が書けて、大きな文学賞を受賞して、出版されたので、書き続けたんです。

福冨:まさにドラマのような展開ですね。自分で物語を書いているうちに、小説家として仕事をしたいと思うようになっていった?

プラープ:そうですね。子どものときから、自分がなってみたい唯一の職業が小説家でした。でも母には、生活できやしないからやめておけと言われていました。安定して稼げそうな仕事につながりそうなことを勉強させようとしていたみたいで。暇な時間に趣味として小説を書けばいいと教え込まれていました。

働いていた会社がブラックな職場じゃなくて助かりました(笑)。終業時間になるとパッと仕事が終わって、それ以降は仕事の話に追われたりもしなかった。おかげで、自分のしたいことをする時間がじゅうぶんにとれた。その時間で、こうやって書くとダメだ、読まれない、出版されない、みたいなことを学びながら作品を発展させていきました。失敗の繰り返しのなかで、作風も変化していったんです。自分は恋愛ものも、コメディも、ミステリーも書けそうだなと、本が出ない期間に、試せることはぜんぶ試していきました。

 

タイで作家として暮らすこと

福冨:いまはほかのところでは仕事はしていないんですよね。

プラープ:していません。『狂騒の混沌』が出版されて1年か2年かしたあたりで、どうも生活していけそうだなと思って、会社を辞めることにしました。30歳という年齢も見えてきていて、いまじゃなければタイミングを逃すなと。それまでも執筆しかしていなかったので貯金もあったし、辞めても多少は気持ちの余裕がありました。
ここでも自分で期限を区切ることにしたんです。仮に3年間執筆だけを続けて、成長の見込みがなかったり、生活がおぼつかなかったりしたら、また会社員になろうと。だけどそのあいだに、どうすれば作家として暮らしていけるか、どこから収入が得られるかということを学ぶことができて、もう5-6年になります。

福冨:さきほど、年間で長編3本みたいな話がありましたけど、それくらいが生活できるラインということなんでしょうか。

プラープ:年4作品くらいのペースのときもあります(笑)。会社を辞める前の時期は、出版社が主催するいろいろな文学賞にたくさん作品を送るという方法をとっていました。 会社とは違って強制力が働かないので、スケジュールも自分で考えないといけないし。ある作品に取り組んでいるときに、別のプロジェクトが舞い込んできて、そちらのほうが締め切りが早くて、お金も先にもらえる、みたいなこともある。その頃はまず、お金のために作品を書いてました。だれがどんな企画をもってきても全部やる、という感じで。

だけど最近はもう少し考えながら書くようになっています。どうしたらドラマ化ができるか、 この作品をどの方向に発展させることができるか、ということを。ただそのときその場のお金のためだけには書かないようにしています。さもないと、1年間にとてもたくさんの作品を生み出さないといけない。

福冨:つまり、本そのものだけで稼ぐのではなくて、本を起点に、アダプテーションされたり、別の方向に展開していくようなチャンネルを探していかないといけないんですね。

プラープ:『テディベア』は成功したケースですね。ドラマ化されたと思えば、いろいろな国で翻訳もされて、オーディオブックとか、マンガ化してくれるところもあれば、ラジオドラマの制作が進んでいる国もあると聞いています。ある種のボーナスみたいなものですね。こういうタイミングで一息ついて、お金にはならないかもしれないけれど、自分が本当にやりたいと思える仕事をすることもできる。

福冨:執筆の段階で、常に作品の出版後の展開まで考え続けているということですかね?

プラープ:作品のジャンルにもよります。たとえばいまは、BL作品が命を支える水源みたいになっているところもあって(笑)。BLを書くときには、どう展開できるか、自分になにができるのかをかなり細かく考える必要があります。ミステリーだと、もう少し文学賞やコンテストのほうを向いていて、そこから賞金が取れるかもしれないということを考えたり。そのうえでドラマ化されたらなおラッキーだな、とか。
逆に『シャムの墓標』は、執筆の段階では本当にただ自分が書きたいだけの作品でした。だいぶ強烈な作品なので、出版されるかもわからなかったけれど、書きたいから書いていた。幸いにもそれなりに売れて、賞も取れたので、そんなパターンもありますね。

福冨:『生ごみ少年泰無頼 ทามลายของเด็กชายขยะเปียก』(2022)みたいに、かなり実験的な作品もありますよね。

プラープ:ああいう作品は、出版とかそれからあとのことを考えていると書けないですね。そもそも書く機会がないんです。
文学賞よりの純文学作品を読むような読者はぼくの作品を読まない。一方で、すごくマスなエンタメ作品の読者も、ぼくの本は読まない。ある意味その真ん中にいて、また別の文学の空間を作っているとも言えるし、どの方向を向いているのかはっきりしていないとも言えるんだと思います。

福冨:自分の立ち位置をあえて決めないようにして書いているということですかね。

プラープ:特に最初、『狂騒の混沌』を書いて会社を辞めた頃は、すごくたくさんの出版社とコンタクトをとっていました。それぞれの版元にそれぞれのジャンルがあるので、むしろそちらをファクターにして、その都度自分の立ち位置を決めていました。
あとは、読者からの信頼に頼っているところもあります。つまり、いろいろなタイプの作品を書いているけれども、適当に好き勝手やってスカスカなものを書いているんじゃなくて、その中身には必ずなにかがある。そういうふうに読者が思ってくれると、たとえば1冊読んで気に入ってくれれば、次の作品のジャンルが違っても手に取ってくれる。『テディベア』も、その部分はかなり気を遣いました。

福冨:プラープさんは自分の本だけではなくて、そのあとに翻案されたドラマの宣伝なんかもかなり積極的にされてますもんね。でもその部分の責任をとるのは、本来は作家の仕事ではないのでは?

プラープ:ぼくは多分、できるだけなんでもやろうとする作家なんですよね(笑)。作家によっては、執筆が終わったらあとのことにはかかわらない、というひともいる。ぼくは、難しすぎず、負担が大きすぎなければ、やれることはやりたいタイプです。
『テディベア』のドラマ化のときも、最初の放送が終わったあとに制作チームとのTwitterスペースに誘われました。視聴者からのエンゲージメントを増やしたいんだ、ということで。でも、そこでぼくを新しく知ってくれるひとも出てきた。ぼくの作品を読んだことはない、そもそも本を読んだことがない、というひとが作品を読んでくれるようにもなって、新しい読者も獲得できました。

出版そのものについて言うと、こちらのほうが読めないことが多い。それぞれの出版社で、ぼくよりももっと重要な作家がいます。知名度とかじゃなくて、端的にぼくよりもお金を稼いでくれる作家ですね。あるいは、翻訳作品のほうが売上が高いので、タイの作家の作品はあまり刷らない、なんてところも出てきています。

福冨:厳しいですね。セルフパブリッシュするタイの作家もかなり多いと感じていますけど、プラープさんはやらないんですか。

プラープ:実はかつて1作品だけやったことがあるんです。『傀儡 พยนต์』(2019)という、アユッタヤー時代を舞台にした歴史ミステリーでした。中国の狄仁傑シリーズを意識して書こうと思って。
『狂騒の混沌』が東南アジア文学賞の最終候補になったときに、最終候補作の作家を集めたセミナーが開催されたんですよね。

福冨:ありましたね、覚えてます。

プラープ:あの舞台で、ぼくの世界がすごく広がったんです。「ほかの作家たちはこんなにいろいろなことを考えているのか」って(笑)。それで、いつか自分の頭の中をできるだけ詰め込んだ作品を書きたいと思っていた。それで出版社に送ったりコンテストに送ったりしてみたのですが、どこも刷ってくれるところがなかったんです。
だけどちょうど下院の選挙があったタイミングで、プラユット政権が勝利してしまった。社会的に広がっていた失望感が作品ともつながるし、出すならいまが一番いいタイミングだと思ったんです。それで少部数だけ刷って、書店にも卸さずに、自分のFacebookページ経由のみで販売してみました。自分で郵送もして。でも、買ってくれた読者の評判はとてもよかった。プラープの過去一番の作品じゃないかというコメントすらありましたね。
とはいえ、ぼくの場合は、このやり方では生活は続けられない、とも思った。いい教訓にはなったと思います。

福冨:ほかの作家とそんなに違いますかね。

プラープ:ぼくの場合は、読者の層がそこまでは厚くないせいじゃないかなと思っています。セルフパブリッシュでやっていける作家たちの読者層は、かなりの厚さなんじゃないかな。作品自体にもマスなところがあるし。ぼくの場合は、リスクを出版社にとってもらっているわけです(笑)。

福冨:じゃあそうやって、むしろもっとマスなほうに進んでいきたいなんてことは考えますか。

プラープ:考えたりもしますが、どうやっても無理なんですよね。たとえば最近『蜉蝣の夢 แมงละเมอ』(2022)という長編BLを発表しました。BLの中でも、特に人気があってマスな作品たちみたいに似せていこうと思ってたんです。前半は良かったけど、後半は結局『テディベア』みたいになってしまって(笑)。いろいろな話がまぜこぜになっていってしまう。
なので、だんだん自分にはそういう方向は無理なんだと思うようになってきました。自分ももうすぐ40で、その年齢をごまかして、若いひとたちが読むような物語を書くことはできない。無理矢理に若ぶった作品は書かないようにしようと思っています。『The Eclipse』だって主人公たちは高校生ですけど、どう読んでも高校生の語る物語じゃない。『テディベア』はむしろ登場人物と年齢が近かったので、自然な物語を書きやすかったのかもしれません。

 

著者と物語の距離

福冨:自分の年齢が近いという話が出ましたけど、ふだん執筆するときに、自分自身を物語に投影することはありますか。『テディベア』には、あれ、ここには著者が透けて見えるのかななんて思えるところもあったんですが。

プラープ:実際、あらゆる作品のキャラクターがぼく自身なんだと言ってもいいかもしれません。『The Eclipse』がわかりやすい例です。あの作品は、社会に対する認識とかイデオロギーの異なる主人公たちが描かれていますよね。そのそれぞれにぼく自身を投影することもできる。

ぼくの育った家というのは、「サリム」[政治的中立を謳いながら、王党派・保守派に近いイデオロギーを持つ人々を揶揄するタイ語]というか、政治的に無垢というか、そういう環境だったわけです。中華系の家庭で、王室についての話なんか家の中でしちゃいけないと言ったりとか、「本当のことはここに書いてある」と言いながら、保守系でフェイクニュースも多いメディアを読むよう進められたりとか(笑)。あの家でぼくみたいな育ち方をしていること自体が「奇跡」かもしれません(笑)。
だからこそ、物語のいろいろな瞬間に自分自身を投影するようにしています。ぼくの作品のキャラクターたちは、さまざまなことに疑問を持つということを続けていきます。ぼく自身もなにが正しいのかわからなくて、答えの見つかっていないことを書いているとも言える。それでも最後には、どうにか一緒に答えを出そうとするわけです。

福冨:そんな家庭環境の中で、政治的に「目覚めた」のはなにかきっかけがあったんでしょうか。

プラープ:会社を辞めたときですね。ぼくが働いていた会社は、ほとんどのひとが、ぼくの家族と同じような政治的考えを持っていました。職場がシーロム[バンコクの古くからのオフィス街]にあったので、いろいろなデモの現場にもなっていたんですが、職場のひとは、「デモは邪魔なもの」としか考えていなかった。ぼくも当時はそうでした。

会社を辞めて、変わりました。会社員だとやっぱり、生活の安定が保証されている。それが、病院代ひとつとったって安定しなくなるわけです。社会保険はもちろんありますけど、タイの社会保険で保証されるものなんて、地獄みたいな程度でしかない(笑)。税金もそうですね。こんなにたくさんの金額を払ってるのはどこに使われてるんだ?とか。生活費をどう工面しようとか、年老いたらだれに面倒を見てもらえばいいんだ、とか。

いまでこそ SNS を開けば政治的な意見を表明する投稿もたくさんありますけど、当時はまだそこまで多くなかった。むしろ、自分の経験とか感情をもとに、考え方が変わっていきました。タイ社会も、ある種の物語で覆われているんだなと。ここには正当性とか公正さが存在していない。その状況を覆い隠している嘘が存在して、それこそがすべての根本なんだと。

福冨:プライベートな話になってしまいますが、ご家族といまは会話はできているんでしょうか。家庭内での政治的対立というのも、近年のタイでは大きな問題になっているわけですけれども。それこそ、親が子どもを不敬罪で訴えて、子どもは国外に亡命して、なんて話もあります。

プラープ:仮に実家に帰ることがあっても、できるだけ政治の話はしないようにしています(笑)。向こうもぼくに遠慮している部分があるみたいですが、立場を変えているわけではないし。
『テディベア』のナットくんの家の環境も、ぼくの家の状況に似ている部分がないわけではないんです。もちろんあそこまでの状況ではないですが、ナットくんと同じように、ぼくも「いい子」ではなかった(笑)。でもああいう家庭内での噴火みたいなものを起こしかねない状況というのが、我が家にもあったんです。

 

ドラマ化の功罪

福冨:ナットくんの噴火というと、ぼくを含め多くの読者が、最初は「いやこいつ簡単にキレすぎだろう」と思っていたはずです(笑)。でも読み進めていくうちに、かれにはかれなりの理由がきちんとあるんだということもわかっていく。ああいうどんでん返しとか、だんだんと解けていく謎というのは本作の魅力ですが、ドラマ化のプロセスでは、どうしても物語とか構造を変えないとならないところもありますよね。原作者としてそういうドラマ化に際しての変更というのは、受け入れられましたか。

プラープ:『テディベア』のドラマ化について言えば、かなり原作に忠実に翻案してもらったと思っています。大きく変わったところは「物」のシーンですかね。小説だと、最初の10章くらいはほとんど「物」しか出てこないんですが、ドラマではかなりカットされています。そうしないと、ドラマ版全体のテーマからズレていってしまうからですね。
だけど、マタナーさんからタオフーへの、亡き夫を懐かしむ語りがあって、それが覆されて、という展開はそのままになっています。ぼくですら「もっと変えてもいいんだよ」と思ったくらいで(笑)。

福冨:プリップリーの役割が小説版よりだいぶ大きくなっているとか、登場人物が増えているとかはありますが、物語の基本的な線はそのままですものね。

プラープ:タイのラコーン[古くからあるスタイルのメロドラマ]の視聴文化だと、ああいう展開は本当は好まれないんですよね。ただドラマ化の発表があったときに、読者からの期待がかなり大きかったみたいなんです。原作がよかったんだから、ドラマも最高なはずだ、と。制作側も、どうやったら原作に近づけられるかというのが大きな課題になったみたいでした。脚本家のひととも話ましたが、原作の読者に怒られないかプレッシャーがかかっていると(笑)。

福冨:ぼくは、ドラマ版もとてもよかったと思いますけどね。映像も美しいし、なにより俳優陣の演技が素晴らしかったです。

プラープ:ただ、チャンネル3のドラマとしては、歴史的な視聴率の低さだったみたいですけど(笑)

福冨:さながら、作中のナットくんのドラマみたいなものですかね(笑)。

プラープ:実はナットくんのドラマは『狂騒の混沌』のドラマ版をイメージしていました。あれはチャンネルoneで放送されたわけですが、こちらもやはり歴史的に低い視聴率を叩いたみたいで(笑)。だからちょっと皮肉と自虐として入れてやろうと思ったら、『テディベア』でも同じことになったわけです(笑)。

福冨:(笑)。でもSNSを見る限り、ずいぶんと評判だったようにも思いますけど。

プラープ:SNSのユーザー層と、視聴率に影響するテレビの視聴者層は違いますしね。前者は若者ですが、後者は40代か50代以上じゃないかな。チャンネル3で『テディベア』が放送されると発表されて、初めからはっきりと「BL」であり「性的マイノリティ」を描くんだということが言われていたんですが、放送される前からかなり激しい反発がありました。「これが本当に、多様な性への寛容を謳ってる国の姿かよ?」と思うくらいに。

福冨:そういった社会の窮屈で行き詰まった状況を、執筆によって変化させたいと思うことはありますか。

プラープ:ぼくの書くものは大体、自分自身の抑圧された感情とか不満とかそういうものから生まれることが多いと思います。ある問題があって、それについてぼく自身がどう思うのか、あるいはどうすればいいのかという問いを続けていく、というかたちで書いていく。
ただ今回の『テディベア』みたいなケースで、実際に社会が直面している問題を提起するというのは、いいことだとも思っています。日本のドラマで『Mother』がすごく好きなんですが、日本とか韓国のドラマで、社会的な論点を提示しながら、でもおもしろいものになっているのを見ると、なんでタイにこういう作品がないんだろうと思っていたので。

タイのドラマはよく、パクチーで表面を彩るみたいに、外側を美しく飾りたがるわけですが、実際にはそんな状況ではないわけです。若いひとたちはその粉飾に気がついていて、もう古いタイプのドラマは見なくなってしまっている。いまはなんというか、木の葉が色づいて落葉して、次の変化が生まれているタイミングなんです。上の世代の人間であっても、アクティブに自分を変えていかないといけない。そして、人々が本当に向き合っている問題を取り上げないとならない。

福冨:制作チームの細部のこだわりみたいなものも見える作品でしたね。ナットくんの本棚ひとつとっても、批評家のワート・ラウィー[ラディカルな文芸・政治批評家]の本が並んでいたりして、メッセージがのぞける。

プラープ:ユッタナー・ローパンパイブーン監督のこれまでの作品というのは、ロマンティックで夢見るようなものがほとんどだったんですけど、監督自身も「今回は自分の本当にやりたいことをやった」と言っていました。性についてのメッセージもそうですし、たとえばタオフーが視聴者に突然語りかけてくる、演劇的な演出なんかもそうですね。いままでで一番好きな作品だと言ってくれていました。ただそのぶん、視聴率と引き換えになったわけですが(笑)。

福冨:どうしても主な視聴者層の好みとはあわなかったんだと。

プラープ:代わりに、海外との版権契約はうまくいきました。チャンネル3側も初めから海外への展開を指向していて、こちらは多分、これまでで一番売れた作品になっていたはずです。

 

現実と向き合い、業を背負う

福冨:ドラマの視聴者層の話が出ましたけど、そもそも執筆するときに想定している読者層というのはどういったひとたちなんでしょうか。

プラープ:ぼくはTwitterに常駐しているわけですが(笑)、読者とのコミュニケーションはSNSでとることが多いです。そういうところにいるのは、ぼくよりは若いひとたちですね。若いといっても10代というほどではなく、もう少し大人かもしれません。ぼくの作品には割と抽象的な話も出てきたりするのですが、すごく若い読者が「お前の作品はわからない」と直接メッセージを送ってきてくれることもあります(笑)。

福冨:そういうメッセージにもきちんとお返事されてるのがすごいです。『テディベア』のオチには、否定的なひとも多かったのでしょうか。

プラープ:小説のほうでは、そこまででもなかったと思います。言葉で書いている限りは、論理的に文を作って、はっきり順番に説明していくことができますから。これがドラマになると、そういう説明の仕方ができないので、ずいぶん叩かれました。
小説のほうがどうしても、読者が解釈できる余地があります。だから単なる悲恋の物語ではなくて、そこに政治的な意味を読みとりやすかった。ドラマだとそういう解釈が少し難しくなって、ラブストーリーが悲劇に終わるという形に見えてしまう部分もあったのかもしれません。

福冨:そもそも「奇跡」は一時的なもので、不公正なものなのだという前提があるわけですもんね。だからいずれは終わるものであって、登場人物も読者も視聴者も、どこかで現実と向き合わなければならない。なかなかに残酷ではあるかと思います(笑)。

プラープ:ぼく自身がもともとそういう物語が好きでしたからね(笑)。10代で小説を読みはじめたときも、純粋な恋愛ものよりは、社会的・政治的な論点が混じっている作品のほうが好きでした。ふわふわと夢うつつになるような作品は、書いていてもノレないんです。
世界を悲観的に見ている人間なのかもしれません(笑)。自分の人生の基盤がこういう状態なんだ、支えてくれるものがないんだと認識して、どこかのタイミングで自分の人生に責任をとらないといけない。想像力を働かせて、一番うまく進めるパターンを考えてみて、未来とどう向き合うか考える。作品の登場人物にも、そういうところが反映されているんでしょうね。かれらを助けてくれるものはあまり存在しなくて、だからどこかで、自分自身の運命を受け入れないといけない、という。

福冨:現在のタイ社会の状況も反映されているのかもしれませんね。一瞬で世界を変えてくれるような奇跡というのは存在しないんだ、という。

プラープ:前進党[民主派政党]が選挙で勝っただけでも奇跡かもしれませんけど(笑)。

福冨:それは確かに(笑)。プラープさんはSNSでも積極的に政治についての発言をしてますけど、もともと作品を読んでいる読者は、当然受け入れてくれるんですよね。

プラープ:「こいつはこういうことを書くやつなんだ」って(笑)。でも不思議なこともあります。たとえば『The Eclipse』のモチーフのひとつになっているのは「悪い生徒 นักเรียนเลว」[2020年以降の民主化運動で教育改革を訴えた中高生の社会運動グループ]ですよね。それははっきりしている。読者やドラマ版の視聴者も、主人公のアーヤンをあれやこれやと応援する。だけど現実の世界でヨック[王室不敬罪で告訴された当時14歳の少女]の事件が起こったりすると、なぜか彼女を攻撃する読者や視聴者が多く出てくる。どうしてそうなってしまうのかは、ぼくにもわからない。

福冨:作品内世界のできごとと現実のできごとを接続して想像する回路があまり開いていないんですかね。とはいえ『The Eclipse』なんて作品は、現実の民主化運動でも使われているようなさまざまな記号とかサインを用いたり、ピブーン政権期[戦前にタイナショナリズムを高めた軍人首相]の教育についての法律を批判的に取り上げたりと、メッセージとしてはずいぶんはっきりしているはずですよね。
そういうメッセージへのフィードバックとか、それこそ炎上とか、怖かったりしますか。

プラープ:昔は怖かったですけどね。ロマンティックな恋愛ものを読んでいるような読者に向けてそういう論点を示していくのは、リスクでもありましたから。たとえばドラマ化もされた『My Precious Bad Luck ดวงแบบนี้ไม่มีจู๋』(2017)という作品があります。占い狂いの女性主人公を書いたラブコメなんですが、タイ社会というのは法律も社会制度もなにも信頼できなくて、拠り所がない、だからひとが占いとか霊とかを必要以上に信じるようになるんだ、という気持ちで書いていました。それくらいだと攻撃はされなかった。

その次は別の作品で、王室について否定的な発言をして投獄されたひとが獄中で首を吊ったという話に触れてみた。友人にはやめておけば、と言われたんですが、出版社的には大丈夫だった。そうやって少しずつ、ここまでは触れて大丈夫だという挑戦をしてきました。いまはそれこそ性の話とか、タイ社会はもっと先に進むべきだろうという論点について積極的に書いています。

最近むしろ怖いのは、 リベラルを謳っているけれども、知識や理解が足りずに相手を攻撃してしまうようなひとたちへの対応かもしれません。それで、本来は対応しなくてもいいような炎上に対応しないといけなくなったりする。最近は『The Eclipse』の続編を書いていたわけですが、そこで「タイという国は、内面では性欲たっぷりのヤりたがりなのに、外見は白い服で取り繕っている」というようなセリフを書きました。DMで罵られたりするかなと怯えてましたが、いまのところ大丈夫そうです(笑)。

福冨:読者とか視聴者じゃない場合はどうでしょう。『テディベア』だとまさに王室不敬罪の話とか、人身売買の話とか、国立公園の不正取得の話とかが出てきます。政府にとって明らかに不都合な作品内容が理由で、自宅に警察とか軍が来たり、みたいなことはありましたか。

プラープ:いまのところないですね。あるとすれば、IO(情報作戦)での妨害くらいでしょうか。Goodreadsみたいなレビューサイトで、リベラル系とか民主派の作家の作品に、連続で低評価をつけて、政治的に批判するレビューを書いているアカウントがあるんですが、ああいうのは軍とか警察の仕業だと言われています。ぼくの作品のぜんぶに低評価をつけているアカウントとか。どの作家もみんなやられていますが、それだけで済んでいるのでまだ幸運ですね。

福冨:ひどいところだと、本を押収されている出版社なんかもありますしね。「112」という数字と王室不敬罪についてのエピソードがドラマ版でカットされていたのは個人的に残念だったのですが、さすがにあれを映像化するのは危険過ぎるし、カットしないといけないというのもわかる。
ただ、一見家庭内暴力の被害者に見えるマタナーさんというキャラクターが、実は権威的で家父長的な上の世代の大人としても振る舞っている。その彼女がタイにおいて最も権威的で家父長的な抑圧ともいえる王室不敬罪を象徴する本のページから前に進めないというのは、被害者でもあり加害者でもあるその原因から脱却できないという、実に批評的なメッセージだと思いました。どれだけ過去の過ちを反省して未来に進もうとしても、彼女たちの世代は不敬罪を乗り越えられないわけです。ナットくん、ターターン、タオフー、そして読者はそのページを越えて、未来に進んでいくことができる。

プラープ:マタナーさんもまた、この社会の大人を代表するキャラクターですからね。彼女は過ちを犯して、人生に、軍という暴力を招き入れてしまう。彼女の人生は壊れる。それを受け入れて生きていくためには、狂うしかないわけです。こんな社会で生きていきたいなら、狂ってしまえ、と。そしてその業は、ナットやターターンといった次の世代が背負って、償わなければいけない。

福冨:重い……。次の世代の問いかけという意味では、各章のタイトルもそうですね。「赤いドラム缶」[1970年代に、タイ南部で共産主義者だと疑われた人々が、ドラム缶の中で生きたまま燃やされた事件]みたいに、歴史的事件としては認知度のすごく低いものも入っている。

プラープ:作品の中身でここまでやっているので、章のタイトルもいいだろうと。読者への挑戦でもあります。「気になるだろ、気になるならきちんと調べてみろ」という。

福冨:そういう意味では、プラープさんの作品は、かなりいろいろな層の読者とのコミュニケーションを志向しているともいえるんですよね。


最後に

福冨:いまさらの質問を最後にしようと思いますが、今回『テディベア』の日本語版が出版されることになって、どう感じられてますか。

プラープ:もともとぼくは日本の作品を読んできたし、この作品も日本の作品にインスピレーションを受けて書いた部分もあるので、なおうれしいです。翻訳されるというだけで最高の気分。これまでのタイ文学だと、東南アジア文学賞をとるような作品だけがようやく翻訳されるかどうかというところで、作家としての希望もあまり持てなかったのです。だから自分の作品が翻訳されるなんて、とてもうれしいです。

BLと銘打っているこの作品が日本の読者にどう受け取ってもらえるかはちょっと不安ですが、なんにしてもこの作品を読む時間が楽しいものになってくれればと思っています。軽いものも重いものもいろいろなテーマが入っている作品ですが、それをどう受け止めるかはみなさんの自由です。いまでもタイの読者から罵られているくらいなので(笑)、楽しんでもらえるだけで大丈夫です。タイという国を、また別の視点から見ることができるんじゃないかな。タイは本当に性的マイノリティに寛容なのか、とか。

福冨:ありがとうございました。今日の話って、ぜんぶ載せて大丈夫なのかな(笑)。

プラープ:あとで話しましょう(笑)。

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