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【小説】海

 「次のニュースです。今日、東京都内の美術館で展示準備中の作品が盗難されました。絵画は二十年ほど前にも盗難被害に遭い、一昨年フランス国内で発見、修復を経て展示される予定でした。事件以降、警備を担当していた警備会社勤務の女が行方不明になっており、警察は女が事件に関与しているとみて捜査を進めています」

 ―― あの絵、億とかするらしいよ。
 ―― えー、絶対金目当てじゃん。もう売られてるんじゃない?警備員って給料少ないのかね。
 ―― 知らないけど。売られてたらすぐばれるでしょ。ニュースになってるんだから。
 ―― 確かにー。

 一週間ほどして、女は逮捕された。絵を盗んだことを認めて、「絵は燃やしました」と。それだけしか言わなかった。

 女は留置所で係員が目を離した隙を見て自ら命を絶った。

 この事件は連日ワイドショーを賑わせた。絵画の盗難、若い女の犯人の自死。エンターテイメントとしてはそれで十分だった。ただ、女――杏理の犯行の動機を知り得る者は誰もいない。


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 杏理の名前は、両親が一文字ずつ付けた。杏の花が好きだという母、理(ことわり)の分かる人間になって欲しいという父。
 母は杏理が五歳の時に死んだ。最期を看取ったのは母の主治医でもあった父だった。父が経営するクリニックでの診療中、母の容態は急変。総合病院に救急搬送されるも、搬送中に息を引き取った。
 開業医の子女というのはなかなかに大変らしい。当然のことのようにクリニックを引き継ぐことを期待されるからだ。ただ杏理はそれ以降、父親に「医者にだけはなるな」と言われて育った。杏理にとってそれが良かったのかは分からない。家に経済的な余裕もある中で、親の期待の重圧もなくのびのびと育つことができたのは幸福だったと言えるかもしれない。

 五歳で母を亡くした杏理に、母の記憶はほとんどない。恥ずかしがって写真をあまり撮られたがらない人だったから、「杏理の母」としての写真は一枚も残っていない。遺影には高校の卒業写真を使った。仏壇に置かれた遺影の中で、はにかんで俯く、セーラー服姿の母は、母親というよりお姉さんだった。

 母との記憶で、杏理が唯一思い出せるものがある。といっても、母のあたたかさ、ぬくもり、愛のようなものが曖昧なイメージとなって杏理の中に残留していると言った方が正確なのかもしれない。
 ともかく、母が死ぬ一年か二年前の話だ。家族三人で展覧会に行った。父も母も美術に明るい人ではなかったと思う。母が死んだ後になってその展覧会のことを父に聞いても、「あー、そんなこともあったな。確か知り合いの医者に券をもらったんだ」と答えるだけだった。だから、何の展覧会だったのかを思い出すことはできない。どこの美術館だったのか、あるいは、もしかしたらギャラリーだったのかもよく分からない。幼い杏理は母に抱きかかえられて展示室に入った。
 両親以上に絵に興味などあるはずもない幼い杏理はほとんど母の腕の中で眠っていた。父と母はそれぞれ別に鑑賞していたように思う。母がふと立ち止まるので目を開けると、海の絵だった。腕の中にいる杏理に母の顔は見えない。
 杏理は絵を指して「うみ?」と聞いた。母は一拍置いて「そうだね、海だね」と答えた。また眠ってしまったのだろう。そこから先の記憶は残っていない。

 なんてことはない記憶だと思う。ただ、母の腕の中の安心感、母の存在、存在した母とあの海の絵は、組み合わさってスーベニアとなって杏理の心の中に大切に保存されている。
 高校生になるまで、母が恋しくなったことが何度あっただろうか。母の記憶はほとんどない。恋しかったのは母なのだろうか? 母親という概念そのもの、かもしれない。
 自信に満ちた杏理が唯一臆病になるのは、欠如した母の愛についてだった。なに不自由なく育ち、何事も器用にこなせる杏理にとって、唯一の欠落を補うために求める先。それはいつだって展覧会のスーベニアだった。スーベニアは杏理が思う以上に杏理の中で巨大な存在になっていたし、日に日に大きくなってもいった。それは、ある種の信仰といっても差し支えないかもしれない。

 杏理は高校の図書館、時には県立図書館や県立美術館の資料室にまで出向いてあの海の絵のことを調べた。あの絵と再会することは、不自由ない彼女の人生においての唯一の使命とさえ思った。
 二年以上かけても絵は見つからなかった。これだけの労力をかけてもほんの少しの手がかりも見つからないことにやきもきもしたが、振り返ればそれで良かったのかもしれない。

 大学受験が近づいて、杏理は東京の美術大学を志望した。父親譲りか、進学校でも成績優秀だった杏理がいわゆる難関校を志望しないことに担任は随分と反対して、せめて難関大学を併願するように説得を試みた。しかし、もとより医者にはなってくれるなと言っていた父がいる。この医学部とは正反対と言えるような進路希望に父は大いに賛成し、杏理は希望通りの進路を選択した。共通テストだけ受験し、その成績で美大に入学。芸術学科で芸術学や美学を学びつつ、学芸員課程も履修した。

 杏理が美大に入学した理由は一つしかなった。あの海の絵と再会するため――しかし、美術の専門家に美術の「おたく」たちが集まる美大の環境でも、その海の絵の情報を掴むのは簡単ではなかった。四年間、いろいろと調べ回っても結果は高校の時と同じだった。
 実は在学中、その絵をいっそう自分で描いてみようとしたこともあった。見つからないあの絵も杏理の記憶のなかには、はっきりとあるはずだった。友人が多い杏理は絵画学科にも友人がいて、彼女に頼んで油絵の画材一式を借りた。絵の具は新宿の世界堂で海の色らしいものをいくつか見繕って購入した。友人の指導のもと、筆やペインティングナイフで何枚か描いてみる。友人は作品の出来を褒めてくれたし、確かに海の絵として悪くない作品が描けた。それでもやはり、記憶の中の海の絵からはかけ離れている。絵は知り合いに配って、何枚かは希望する人がいたから売った。残った海色の絵の具たちは友人にあげた。

 つつがなく学芸員課程も修了して美大を卒業した杏理は、地元に戻って県立美術館の学芸員になった。噂通り学芸員の給料はそれほど良くなかったが、実家暮らしで経済的に困ることもない。大学で四年、卒業後すでに四年、美術に携わっている杏理は美術が好きだったし、仕事に誇りを持った優秀な学芸員だった。
 館長も杏理の仕事ぶりを高く評価している。杏理が学芸員になって間もなく、県立美術館は印象派の絵画展を企画した。企画チームに配属された杏理は「水」をテーマにした展示を提案した。新人の提案であったが、企画書の内容に他の学芸員も好感触だった。
 幸いにもモネからルノワール、リュスの作品まで、水をテーマにした絵画を集める手はずが整った。ただ、予算やスケジュールの兼ね合いもあって、絵画の点数には限界があった。
 そこで杏理がした提案はこうだった。写真家に依頼して画家が作品のモデルとした風景の現代の写真も並列して展示する。また新進気鋭の現代アート作家に依頼して、足元に薄く水を張ってプロジェクションマッピングと音響で絵画の世界観を体感できる区画も用意する。絵画の点数自体は少なかったものの、企画展として十分に見応えのあるものになった。
 前衛的な企画展には批判も少なくなかったが、企画展はSNSを中心に大きな話題を呼んだ。テレビの取材も随分ときた。県外からも多くの来館者を集め、県立美術館の動員数としては記録的なものになった。
 仕事にはやりがいを感じていたし、職場は居心地が良かった。ただ、たまにあの海の絵のことを思い出すことがある。水をテーマにした絵画を集める提案をしたのも元はと言えば、もしかしたらあの絵が見つかるかもしれないと思ったからだった。いつか自分が働く美術館にあの絵が展示されることがあるかもしれない――杏理はそんな妄想を楽しみもした。


 再会は唐突だった。休憩時間に美術手帖のバックナンバーを読み返していた杏理は小さな記事を見つけた。
 《二十年前に盗難されたレオ=ユーリの絵画 フランスで見つかる》
 レオ=ユーリ……聞いたことがない名前だった。ただ、白黒の記事に指先くらいの大きさで載っている絵にはどうしようもなく見覚えがあった。
 ――母の腕の中で見たあの絵そのものだ。
 記事によればユーリは旧ドイツ東部領出身の画家で、イスラエル博物館に作品が数点所蔵されている。フランス印象派の影響を受け、彼らを介して日本の浮世絵からも影響を受けた。今回再発見された絵――『海』も歌川広重ら日本の浮世絵師の作品の影響が窺える。ユダヤ系ということもあり、イスラエル以外での知名度は低かった。しかし、ここ2年ほどで日本を中心に再評価が進み、そんな中での盗難絵画の再発見でさらに注目を集めている、と。

 杏理の心は高鳴った。長年会えなかった恋人に再会するのはこんな心境だろうか。二十六年恋愛経験のない杏理には分からない。何より、これは母との再会だと思った。亡き母との再会は、私が死にでもしないと叶わない。でも、これは生きながらに母と再会することだ。杏理はそう思った。

 すぐに杏理はこの絵のことを館長に聞いた。
 最近になって発見されたその絵は、フランスのとある資産家の家で大切に保管されていて、非常に状態が良かった。資産家は当然、この絵が盗難されたものとは知らずに無名画家の作品として気に入り、二十年にわたって所蔵していた。盗難されたものと知ると、資産家は無償での寄贈を申し出たという。
 ちょうど日本で日仏友好記念美術展の企画があり、協賛金を出している資産家はこの絵をフランスの印象派の画家たちの絵画と並べて展示することを提案した。絵が戻ってくることをほとんど諦めていた、絵の元の持ち主であるイスラエル博物館もこれを快諾した。絵は資産家の希望もあって美術展に先駆けて来日し、日本の美大で保存修復作業が行われている最中だという。

 その美大は、杏理の出身校だった。
 全てのピースがぴたりと合わさる。
 そんな感覚があった。
 母が死んでから、この時のために生きてきた。
 そんな気すらした。
 杏理は館長に頼んで、研究員として保存修復の見学をすることになった。県立美術館と母校が協定を結んでいることに、杏理がOGであることもあって、話は早く進んだ。

 一週間後、杏理は母校に向かった。久しぶりの母校。そしてなにより、久しぶりに再会するあの絵。
 杏理は二十年ほどの時を経て、修復作業台の上の『海』に向き合った。

 杏理は当然、自分が何かしらの感動を覚えると予期していたし、期待してもいた。が、――何も感じない。
「これがレオ=ユーリの『海』ですよね」
杏理が聞くと、マスクを外しながら修復師の先生が答える。
「そうよ。ほとんどすることがないってくらい状態が良いわ。それでも色々と点検とか調査とかはしないといけないけれど、二十年も行方不明だった絵がこんなに綺麗な状態で見つかるのは奇跡ね」
少し迷ったが、思い切って聞いてみる。
「実は私、この絵をその二十年くらい前に見たんです。ちょっと色味とか、違う気がして」
修復師は少し驚いた顔をして、杏理の顔を見る。今度は考え込むような顔をして、
「そうね……光の当たり方とか、場所によって見え方が違うかもしれない」そう言って。
 ――それに、二十年前ってあなたは五歳かそこらでしょう、あなたの記憶の方も正しいか分からないわよ。と付け加えた。
 この修復師は修復に失敗したんじゃないだろうか。本人を前に失礼だが、そんなことも考えた。しかし、館長の話からも修復師の話からも、それはありえない。
 この絵はレオ=ユーリの『海』で、私が母の腕の中で見たあの絵に違いないのだ。
 違う。
 違わない。
 思っていたのと、違う。
「日仏展でこの絵は展示されるんですよね」
「そう。上野で来年にね」
 『海』が、人目に晒される。杏理はこの時の自分の心境を説明できない。ただ、『海』が人目に晒されてはならないと思った。
 『海』は、私の手で終わらせないといけない。

 次の日、杏理は県立美術館に辞表を提出した。「一身上の都合」を館長は案じたが、杏理が何も言うつもりがないことを察するとそれ以上追求しなかった。
 杏理はその日のうちに上野の美術館の警備を担う会社を何社か調べ、その次の日には警備会社の面接を受けた。
 杏理は引きが強かった。一社目の面接でその会社が来年の日仏展の警備を引き受けるという情報を得た。人手不足もあって、警備会社は杏理を歓迎した。それに、学芸員資格があるということで、杏理は日仏展が開催される予定の美術館の警備を担当することになった。
 ここまで完璧。杏理は一年間、その日を待った。『海』を人目に晒さない。そのためにするべきことだけを考え、警備の仕事をこなしつつ綿密な計画を立てた。


 ついに美術展初日を翌日に控えた深夜、杏理は計画を実行した。杏理はこの日の警備をほとんど一人で任されていた。一年の働きぶりで、杏理は信頼を獲得していたのだ。『海』の額装を外し、木枠の角にナイフをあてがって木枠から画布を切り離す。画布を丁寧に巻くと制服に忍ばせ、事前の計画通り美術館の裏口から抜け出す。上野駅前のパーキングに停めていた車に乗り込むと、そのまま父が所有する軽井沢の別荘に向かった。

 まだ暗いうちに杏理は別荘に着いた。
 埃を被った古い机に『海』の画布を置く。手で押し広げると、無理に制服に押し込んだせいだろう。ウルトラマリンの絵の具の破片がぽろぽろと散った。
 杏理は暗い部屋の中、漠然と絵を眺めた。

 しばらくして、別荘の東の大窓から朝日が差し込んで『海』を照らした。
 『海』のウルトラマリンが朝日を反射して輝く。杏理は思わず目をぎゅっと閉じた。
 次に目を開けたとき、杏理は泣いていた。
 涙が止まらなかった。

 杏理は一週間、食事も摂らずに『海』と過ごした。一週間経って、杏理は暖炉に火を焚べて『海』を燃やした。

 盗難事件を追っていた警察が杏理の居場所を突き止めたのは、その次の日のことだった。

【終】

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