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現象論としての村上春樹

割引あり

現象論としての村上春樹

太宰治から現代までの文学及び文化についての総論を始めたい。まず最初に範囲。太宰治、三島由紀夫、寺山修司、村上春樹という縦軸で考えて行きたい。だが、評者は実はあまりこれらの作家を読んでいない。そういう事で、この時点で評者の事をいい加減な輩だと感じた方は読むのを避けて頂きたい。
読書歴として、太宰治は四分の三位は読んだ。最終的に全ての著作を読むのを断念した。学生時に漱石、芥川には共感する物、又は自分にとってプラスになる物を見出だせたが、太宰治の作品を読む事に頑張ってみたが離れてしまった。
三島由紀夫。彼の作品にはもう初めから共感し難い物があって、その世界観に入れなかった。谷崎潤一郎や川端康成の作品作風にも近い感情を得た。『金閣寺』、『仮面の告白』位か。
寺山修司。全く読んでない。彼は詩人が本職だろうが、活動が多彩なので本を取る事も出来たが入らなかった。
村上春樹。これは言わずもがな、現代の読書家が皆その世界観に入り夢中になって行く作家だが、評者は入る事が出来なかった。『ノルウェーの森』だったか、即不可能だと悟った。
第一回目で、ほぼ上記の作家達への悪口になってしまったが、自分と違う事を客観的に考える事はかなり有意義であるので続けて行きたい。


所で現代の話を唐突にするが、村上春樹はノーベル文学賞を早く取って貰えないだろうか?実の所、評者は村上春樹の作品を好まないのだが、毎回毎回名前が上がっては消えてを繰り返しているのが、情報が流れる度に喉に刺さった魚の骨みたいで煩わしい。逸そ賞を取って貰った方がしっくり来る。
現代の日本の作家で村上春樹程世界中で固い読者がいて読まれている人もいない。影響力の強さで、もう国としても財産の価値がある。つまりもう既に村上春樹は国民的な作家である。国が村上の代わりにロビー活動したとしても何ら狡くもない。
ただこう外野がじりじりと喧しく言っても、村上本人は特段、ノーベル賞に関心が薄く、本音の所、いらないのだろう。彼が本心から賞を望んだら、重からないロビー活動で充分に取れるだろう。
これから語る、多くの作家は皆そうなのだが、皆出だしが幸運だ。村上も芥川賞にノミネートはされたが、賞が村上に行かなかったのは本人の意志が積極的でなかった、つまり既に固い読者がいて芥川賞の受賞に大した価値を見いたせなかったのだろう。ノーベル賞に関してもそうあるのか?
もし村上にメッセージが届くなら言いたい物だ。
“あなたはあなたが意識している以上にメインストリートで、アンダーグラウンドでもサブカルチャーでもカウンターカルチャーでもありません。都会の路地で物貰いしている人の指にダイヤモンドが光っている様なものです"

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