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レグリーズ/教会

割引あり

レグリーズ/教会


プロローグ


 オーギュストは年齢は二十八歳の建築家だった。住まいはパリの北駅の近くで出身はロワール地方のアンジェだった。

 オーギュストが建築の仕事を生業として選んだのは、生まれ育ったロワール渓谷の環境にあった。大きく

趣向を凝らした建物が物心ついた時からごく自然に周りにあり、それと共に彼は成長して来た。

 ただオーギュストは周りの仲間と比べてやはり少しだけ建築に対して思い入れが違った。彼には他の仲間が経験しなかった様な不思議な体験と経験があった。それがある故にこの道を選んだのだった。彼の不思議な数回の体験はまるで彼をこの道に誘うかの様な出来事だった。それを彼は奇妙に感じてはいたが、無意識の内ではそれは当然、起こるべくして自分の人生で起きた出来事である事を悟りもしていた。不思議な事を偶然と捉えない自分を時に疑った。だがその体験で自分の生きる道は決まった。そこに疑問を差し挟むと、自分が一体何者なのか判然としなくなる。疑わないと、自意識は楽になる。誰だって、その方が良いではないか。

 時に、オーギュストは建築物を生き物の様に錯覚する事があった。その辺りの柔らかい感受性も神秘体験をそのまま事実として受け入れた理由になるかも知れない。建築物は人間が運営しなければ機能しない。それは人間にも言える事で、目に見えない程微小な細胞の働きによって動く事が出来る。オーギュストはそれをそのまま人間と建築物で同様であると、心の静かな所で信じてしまっていた。そして彼が滅多矢鱈に自分の思いを口に出さぬ様に、建築物も物を言わないのだ、と童心めいた感情で理解していた。

 自分で設計した建物が既に幾つかあった。彼は運が良く彼の設計は人に好かれた。それぞれの建築物に思い入れはあったが、しかし完全に満足しているかと言えば違った。建物が完成したその時に、その建築物は自分から離れる。その後のその建物がどうあろうとも、余り関心を惹かなかったがその点に自分の未熟さがあると考えた。自分の元から離れても、離れていかない建築物を作りたかった。それでも矛盾の開きは仕事をこなす度に大きくなって行った。作る度に建築に対する関心は薄らぎ、人からの依頼は増えて行った。

 オーギュストはパリに来てからロワールには帰らなかった。アンジェに帰って休暇の日を過ごせば、自分の草臥れた感性が潤おされるのは解っていた。だが帰らなかった。オーギュストにとって、ロワールの城という城は厳めしい父親の様な存在となっていた。城を訪れて心が晴れたその引き返しに自らを責める感情に苛まれる様な気がした。その時、シャンボールもアンボワーズもシュノンソーもきっと自分を冷たく見下ろすだろうと恐れすら抱いた。

 だが実の父親、葡萄酒醸造家のジョルジュは全くそういう父親ではなく穏やかで優しく、年に数回、誕生日とかノエルにオーギュストに端正込めて作ったワインを送ってくれた。父の葡萄酒の贈り物はオーギュストに何にも代えられぬ宝物だった。彼は送られた葡萄酒はすぐに開けて飲む事に決めていた。そして滅多矢鱈には人に出さなかった。送られて来る度に異なる葡萄酒の味に、まるで遠くにいるソムリエが自分の心身の状態に合った葡萄酒を提供してくれている様で細やかだが貴い時間を感じて、それを飲む事を楽しみにしていた。

 今現在手掛けている仕事は裕福な男の別荘と数件の郊外の家、そして地方のレストラン、カフェの数件だったが、本心では全て投げ出したい気持ちで一杯だった。だが投げ槍半分でやればやるほど捗った。いい加減な気持ちで作れば作る程、人に好かれた。これは面白い心理の作用だった様で、オーギュストはどちらかと言うと生来生真面目で固い意志の持ち主だったが、商売で建築に取り組むとそういった硬質な性質が幾分緩和される。つまり雑にこなしている様でいい加減に成り切れない絶妙な天秤の平衡が成り立った。であるものだから、オーギュストは裕福だった。

 ある日、オーギュストは南仏へとバカンスに行った。全く建物らしい建物を見たくなくなってニースの海でただただ体を伸ばしていた。目に青以外の色を映したくなかった。そして飽きたらホテルに戻り、ジョー・パスのギターを聴きながら南の暖気に浸り、レストランに出ては全く他人事の旅客の喧騒を聞き流した。バカンスはまるで砂時計そのものだった。限りある瓶と砂を設定して、時間がただ下方へと滑り落ちる。南の日中の光のプラチナ、夜の深い青、視覚を楽しむ色彩が静かに限った時間を示す。

 それに比べてパリでの砂時計といったら、暗澹としたものだった。まるでコンクリートの粉塵を集めて、飲み干したビール瓶に詰めて窓のテラスから下に巻いている様な時間だった。

 「ニースに来たのは良かったかも知れない」

 オーギュストは何となく力の沸き上がるのを感じた。 

 「そうだ、もっと光を建物の中に入れる様にしよう。作る物に光を呼び込む工夫が足りないんだ。しかし何故それに今まで気付かなかったんだろう。ニースの光とイル・ド・フランスの光の違いなのかな。ロワールの光は・・・生まれた土地の光、自分を育てた光は・・・」

 そこまで考えるとオーギュストは部屋を出た。そして海沿いを歩く事にした。

 「この目に青以外映したくない」

 ふとそう呟いた。呟いた拍子、白のワンピースを着た長い黄金の髪の女性とすれ違った。彼女と目が合った。ニースの海のと同じ色瞳だった。オーギュストの心は動き、軽く食事に誘うと彼女は付いてきた。話も合い、ニースにいる間は彼女と過ごした。三週間の滞在で別れ際に彼女にアパタイトのイヤリングを贈った。彼女は言った。

 「パリで会わない?」

 オーギュストは微笑んだ。彼はニース・コート・ダジュール空港を発った。

 パリに戻ると、オーギュストは仕事の日々に戻った。ニースの光の余韻が後を引き、仕事への活力に繋がった。ニースで得た発想を仕事には持ち込まなかった。しかしこんな空想が日の始終彼の心のシネマに投射された。


 ロワールの城に

 ニースの光を投じたら


 太陽の白光と海の青が止めどなく混ざり、それをオーギュストにロワールに持ち込めと誰かが言う。光の研究家か、何者か?その光を彼に当てる者がいる。眩しくて彼は手を翳す。手を翳せば、オーギュストの世界は暗黒の闇に陥る。オーギュストはそれが嫌で翳した手を解き、照射された光を背に駆け出す。フランスの石はオーギュストの駆ける足を支える。大地は石。地球は石。地球は青。青い石。丸く青い巨大な石。隕石。隕石の光がオーギュストのシネマを引き裂く。そして幕を燃やす。燃えた後の焦げの臭い。その隕石のやって来た遠くの宇宙の果てを思い巡る。思いの旅はほぼ永遠の時間を要するだろう。それを測る砂時計はどれ程大きな容積が必要だろう。その砂時計を空想上で思い浮かべ、設計する。永遠の砂時計を、作る。

 空想シネマを止めて、日常に戻る。友人の建築家モイーズと会う約束だ。モイーズは仲間のジュールとシャイム、その他を連れて来る。だがそこに何があろうか?会う事の無意味さを思うと嫌気を感じるが、会うと気が晴れる。心の煙の様な靄を払うには友人と会うのが最も良い。意味が生じないからこそ気が楽になるのだが、価値や意味を追い求める性格のオーギュストはそれを徒労と捉える向きがあった。心に創作した砂時計を懐に携えて、夜のレストランに向かった。

 タクシーを捕まえると、オーギュストはコンコルド広場と伝えた。

 「ウィ、ムッシュー」

 太い黒淵眼鏡を掛けた若い男性の運転手は車を出した。

 「ムッシュー、ちょっと気付いたんですがあなたは建築家の・・・」

 「ウィ」

 オーギュストは認めた。

 「そうですか。そりゃあ」

 運転手はハンドルを回す動きに喜びを垣間見せた。

 「パリはどうですか?」

 「それは?パリには住んでいるが」

 オーギュストは不審に思って言った。

 「パリは暮らし安いですか?」

 やけに馴れ馴れしいので答えるのが面倒になって来た。

 「まあまあ」

 オーギュストは気のない返答をした。

 「所で一つ聞いて貰えませんか」

 「何を?」

 オーギュストは苛立ったがまだ耐えた。

 「このパリが近い内に爆発するって眉唾物の噂話です」

 「爆発?」

 オーギュストが眉をひそめると運転手の口元の笑みを見て取った。

 「単なる噂話です。どうも遠くない先に隕石が落ちてきてどうやらこのパリに衝突するらしいんです」

 オーギュストはハッと声を飛ばして呆れた。

 「誰がそんな事を」

 「誰なんでしょうねぇ。でも、世界ってのはどんな事が起こってもおかしくないですからね」

 オーギュストは少しこの言葉に反応した。

 「その噂は誰から聞いたんだい?」

 オーギュストが尋ねた。

 「同業者です」

 車がゆったり右に曲がった。

 「何だか面白い話だな」

 「でも何でよりによってこのパリなんですかねぇ。ロンドンでもワシントンでもなく」

 「それはこの噂が生まれた所がパリだからだろう」

 「アー」

 運転手は感心して納得した。

 「ロンドンでこの噂が生まれれば隕石の落ちる場所はロンドンで、ワシントンでこの噂が生まれれば隕石はワシントンに落ちると。成る程。あ、もうすぐ着きますね」

 運転手はコンコルド広場近くに来た事を告げた。オーギュストにも広場が見えた。

 「勘定はカードで」

 「承知」

 オーギュストが差し出したカードを運転手が受け取って支払いの機械の操作をした。

 「はい、済みました」

 運転手がカードをオーギュストに返した。

 「メルシィ」

 オーギュストが外に出ようとした。

 「ムッシュー、最後に一言言わせて下さい。私はユーチューブ作りをやっています。何か、貴方に会えた事が嬉しい」

 オーギュストはそれを聞くと不安を感じた。

 「ネタでこの車の中で何か撮ってるのか?」

 すると運転手はそれを激しく否定した。

 「ノンノンノン!そんな事は一切ない!」

 「変な話を吹っ掛けてその反応をネット上にばら蒔くのか?」

 「アー!ノン!そこまで疑われると何も言えなくなる!分かったよ!消えるよ!ただ貴方と会えて嬉しかったってだけだよ!ユーチューブ作ってるなんて言わなきゃ良かった!」

 オーギュストはそこで少し関心を惹かれた。

 「ユーチューブか。どんな物を作っているんだ」

 「え?友達と遊んでいる時のハプニングとか」

 「そうか」

 オーギュストは運転手の作る物の程度を知り、少し安堵した。

 「兎に角、会えて嬉しかったよ!さよなら!」

 タクシーは逃げる様に走って去った。オーギュストは近くの待ち合わせのレストランに向かった。

 レストラン手前まで来るとモイーズの姿を見付けた。連れはジュールにシャイム、他に三人程見ない顔があった。それを億劫に感じながらもモイーズに作り笑顔で挨拶すると気が晴れた。

 「痩せたんじゃないか?」

 モイーズは開口一番にそう言うと笑ってオーギュストの腰を叩いた。

 「そうかも知れん」

 オーギュストも含み笑いで答えた。

 「まあ入ろうじゃないか」

 モイーズは店内に入って行った。

 「ニースはどうだった?」

 ジュールがオーギュストに尋ねた。

 「気晴らしになったよ」

 オーギュストは答えた。

 「そう。あ、今日初めて会うと思うんだが、こちらはモイーズの幼馴染み」

 ジュールが三人を寄せた。

 「クロード、エリック、ルイ」

 ジュールがポンポンポンと三人を紹介した。


 アンシャンテ!


 オーギュストと三人は挨拶を交わした。

 「さあ、行こう。牡蠣を全部モイーズに食われちまう」

 ジュールが冗談を言うと皆笑った。オーギュストはまた更に、安堵感を覚えた。

 予約されたテーブルにモイーズが座っていた。

 「遅いぞ!早くやろう!」

 一同は待ち切れない様子のモイーズに従って座った。

 「注文は済ませたからな!葡萄酒も俺の好みだ!お前らが遅いせいだぞ!」

 一同は笑った。

 「オーギュスト、しかしいつ以来会ってない?随分久しぶりに感じるし、容貌も変わった」

 「敵わんな。ええと、春に会ったきりじゃないか?」

 「春か。しかし痩せたは痩せたが日焼けもしてる。ニースの太陽か。いいな、俺も行きたい」

 モイーズの喋りが興に乗り出した。

 「ニースで何してた?」

 シャイムがオーギュストに尋ねた。

 「何も。ただアフロディーテの様な子と友達になった」


 オー・・・


 一同は溜め息を吐いた。モイーズはフィーゥと口で笛の音を出した。

 「何だそのアフロディーテって」

 モイーズが探りを入れて来た。

 「想像しな。アフロディーテだよ。ギリシャの神話の。それ以上説明しようがない」

 実際に話して、パリに帰って来てから初めて彼女の事を脳内のシネマに思い出した。

 「ニースでアフロディーテか。羨ましい。ならば、こっちはストラスブールに行ってアルテミスを口説くとするか」

 一同が笑うと葡萄酒の赤を注ぎに店員が来た。

 「ローヌの物だ。異存はあるまい?」

 誰もモイーズに逆らわなかった。

 「ではやろう!ボン・サンテ!」

 葡萄酒が始まった。牡蠣が運ばれて来た。

 「オーギュスト、聞いたと思うが俺の幼馴染みだ。気の良い奴等だよ。気構えて引っ込まないでくれよな」

 モイーズは運ばれた牡蠣をスルッと食べて言った。それを端緒にそれぞれが牡蠣を食べ始めた。オーギュストも牡蠣を取り、食べると赤い葡萄酒を一口飲んだ。

 「仕事はどうだい?」

 モイーズがオーギュストに尋ねた。

 「ああ、上々だよ」

 「もうあの店は終わったのか?」

 「あれは終わったよ」

 「何だ、言ってくれればいいのに。見に行くよ」

 「いいよ、行かなくて」

 オーギュストは声色を落として言った。

 「あれ?自信がないのか?売れっ子が」

 モイーズの陽気は曇る事がなかった。

 「人気では負けるよ。聞いたよ。図書館をやるんだって?」

 オーギュストもモイーズの陽気に連れて冗談めかして言った。

 「いや、もう終わった様なものだ」

 モイーズは葡萄酒を飲み干した。

 「どこに建つんだ?」

 「カルカッソンヌだ」

 「へえ」

 オーギュストは少し関心が惹かれた。

 「どういう傾向の物なんだ?」

 「現代的、というか流行りというか、そういう物はもううんざりだ。だからと言って古典の風もなぁ。考えを煮詰めて、目新しい物を作るしかないんだが、それが一体何になる?機能を重視する、それは当然。目に煩くない物、それも当然。当然、当然、で全く詰まらん」

 オーギュストの心はグッと引っ張られた。少し年下ではあるが同業のモイーズは、自分と似たような悩みがある事に協調するバイオリンの音を感じた。

 「自分の思う様にいかなかったか?」

 オーギュストが尋ねた。

 「そっちは思う様に作れた事があるか?」

 「アー!」

 オーギュストは仰け反って呆れ声を上げた。一同は笑った。

 「そうだ、今度シャイムが個人宅を手掛ける」

 モイーズがそう言うと、シャイムは照れて笑った。

 「そうか!」

 オーギュストはモイーズの隣に座るシャイムを祝って、葡萄酒杯を手に取り伸ばした。シャイムも杯を取り、オーギュストの杯に軽く当てた。

 「最近は人の物を見る方が良いよ」

 オーギュストは葡萄酒を飲み干した。

 「どうも行き詰まっている様だな」

 モイーズがオーギュストに言った。

 「判って貰えるかどうか・・・注文が増えるに従って意欲が落ちる。意欲の落ちた物程、喜ばれるし評価も良い」

 他の者はそれぞれ難しい様な困った様な表情をした。

 「ただニースにバカンスに行ったのは良かったよ。自分の欲しい物、自分のしたい事をちょっと思い出したよ」

 「オー、おまけにアフロディーテまで手に入れて」

 モイーズがガハハと笑った。

 「あの子は今、何してるかな」

 オーギュストはちょっとニヤけながら言った。

 「そんなに美人だったのか?」

 モイーズが尋ねた。

 「ウィ。目の覚める様な美しさだった」

 「有名人では誰に似てる?」

 オーギュストは問われて考えた。

 「いないな。似てる女優とかがいたらその渾名を使ってるよ。いないから、アフロディーテとしか表せないんだ」

 「憎たらしい奴だ」

 モイーズが苦笑いをして言った。

 「パリで会おうと約束はしたんだがな」

 オーギュストは思い出し笑いを浮かべて言った。

 「その後、会ってないのか?」

 「ウィ」

 「アー!聞いてられん!行き詰まっているなんて嘘だ!アフロディーテに骨抜きにされてだらけてるだけだ!」

 モイーズは更に葡萄酒を酌む様に注文した。

 「そっちもニースに行ってみたら?」

 オーギュストがからかい半分で言った。

 「ノンノン!しばらくは無理なんだ!ストラスブールで大仕事がある!」

 「大仕事?何だ?アルテミスを見つけに行くのか」

 オーギュストは好奇心が沸いて尋ねた。

 「そうありたいものだ。いや、だが俺の人生にとってアルテミスより価値が高い物になるかも知れん」

 「つまり何だ?」

 オーギュストは催促した。

 「アルザスの文化を集約した、ストラスブールの目玉になるような文化会館の話だ」

 

 ・・・


 一同は絶句した。

 「木材製を向こうは望んでいる。内装はアール・デコ調にして欲しいと。ドーム兄弟の物を沢山配置したいらしい。だが今、向こうさんとやり合ってるんだ。ストラスブールのアイコンになる程の物を造りたくないなら他を当たってくれ、と。こっちがそう言うと、向こうさんは待ってましたとばかりにこちらの発想をねだる。近現代建築なんか、もう食傷気味だろう?近未来的な物を狙うのもそうだ。かと言って古典に遡るのもな。詰まらない。そもそもアール・デコの物が重たいんだ。発想が制限される。木材を使うという点もそうだ。造るならば、新しいストラスブールだ。新しいストラスブールが産声を上げて、ストラスブールからフランスのみならずEUに新しい息吹きを吹き込む様な、そんな建築物にしたい」

 モイーズは話し終えた。オーギュストは頭を額から後ろにかけて撫でて溜め息をついた。

 「モイーズ、素晴らしい」

 自然に皆は拍手した。

 「メルシィ、メルシィ・ボーク」

 モイーズは皆を宥めた。

 「だから強ちアルザスにアルテミスを探しに行くと言った冗談はそんなに冗談でもない・・・ん・・・アルテミスか」

 モイーズの霊感にギリシャの女神が息を吹き掛けた。

 「アルテミス、月に狩り、木材の豊富なアルザスには似つかわしいな。それを建物の主題にしようかな」

 モイーズは話しながら想像を膨らませた。

 「それは素晴らしい」

 今度はジュールが言った。

 「モイーズ、目に見える様に想像出来るよ。木造建築で内装にドーム兄弟の物が配されて、それを司るのはアルテミスか。アルザスに相応しいじゃないか」

 ジュールは葡萄酒を一気に飲み干した。

 「そうだな、アルテミスを頂点に持って来るとアール・デコの物も気にならない。ギリシャ神話の文献を読み込んでみるか。もっと膨らみそうだぞ」

 「葡萄酒が旨い。旨くなる物語だ」

 感動してオーギュストが呟き、葡萄酒を更に飲んだ。

 「いや!それだけに留まってはならない。神話の古代の息吹きは現代にまで吹き通す為に、古典に遡り過ぎてはならない」

 モイーズは顔を赤らめて興奮して言った。

 「どこまで発想が発熱するんだ?」

 モイーズの幼馴染みのエリックが言った。

 「死ぬまでだ。死んだ所で発想は消滅する」

 本人は冗談めかして言ったが、皆それを本心と捉えた。

 「悔しいな、モイーズ。こっちはニースに行ってアフロディーテと邂逅したのに大した想像は生まれなかったのに、お前はこの話をしただけで新しい芸術を生み出してしまった」

 オーギュストは降参気味に言った。

 「・・・それはお前、ちゃんとアフロディーテを捕まえて置かないからだ」

 モイーズがそう言った時、皆は大いに笑った。オーギュストも一緒に笑ってしまった。

 「アフロディーテか」

 笑いながらもオーギュストの心にニースで出会った彼女の顔形、姿形、身振り仕草が甦って来た。

 「俺にもニースでの大きい話が来ないかな」

 「動いてみたら?彼処は金持ちがごっちゃにいる」

 モイーズが首後ろを掻きながら言った。するとオーギュストはあるアイディアを思い付いた。

 「よし、じゃあこれは競争だ。俺がニースで仕事を見つけて出来上がった物と、そっちがストラスブールで建てた物とどちらが良いかで勝負しよう。今ここにいる仲間が審査員だ。乗るか?」

 モイーズはそれが提案された時、気の抜けた様な顔を少しの間したがすぐにその意を理解して挑戦意欲が沸き上がり、葡萄酒も良い塩梅で回った柘榴色の顔色になった。

 「挑む所だ。受けて立つ。そっちのアフロディーテが勝つか、こっちのアルテミスが勝つか?ホメロスの『イリアス』の現代版だ!金も賭けよう!何ユーロ出す?おい!皆も出せ!乗らないなんて不粋なフランス人はここにおるまいな!当方ダルタニャン、アトス殿の御相手つかまつる!」

 モイーズは席を立ち、サーベルを構える身振りをした。そして続けた。

 「おい、エリック。お前がこの掛け金の親だ。決して不正の無い様に心掛けよ」

 「ウィ!心得た!」

 他の者達はおいおいと言いたげな表情をしながらも笑みを絶やさず、それぞれがユーロ札をテーブルに捨てる様に投げた。

 「何だ何だ!諸君、それっぽっちしか賭けんのか?フランスの男も落ちたものだ!それでも幾度の苦しい国難を跳ね返して来た末裔の男達か?あの世でボナパルトやド・ゴールに対してどの面下げて謁見するんだ?」

 そこでオーギュストは止めに入った。

 「モイーズ!そこまでにしろ!賭けって言ったってまだ俺にはニースでの仕事なんかサラサラ無いんだぞ!」

 オーギュストも葡萄酒の回った赤い顔で笑みを絶やさず言った。そこで皆笑った。

 「何を言う、アトス殿。勝負はもう始まっております。ニースで仕事を取れずんば、そこで貴殿の負けに御座います」

 モイーズは言いながら深々とお辞儀した。

 「何てこった!言わなきゃ良かった!」

 オーギュストがそう言うと皆笑った。そこでモイーズがおどけるのを止めて席に座った。

 「勝負は始まった。期限はここ五年以内という事にしよう」

 モイーズが切り出した。

 「いや、それは長いな」

 エリックが言った。

 「じゃあ三年にするか」

 モイーズは考慮しながら答えた。

 「三年、余裕を持った見積りだな。だけどこれは勝負だろ?金も出た。余裕ある勝負なんて退屈だ!二年にしろ!」

 「おいおい」

 オーギュストは不安にかられて宥める様に言った。

 「良いだろう。二年だ。オーギュスト、異存はあるまい?」

 「ウィと言わねばフランスの男ではないと来そうだな」

 オーギュストは額に手を当てて答えた。

 「その通りだ」

 モイーズは既に勝ち誇った様に言った。

 「真剣にニースの仕事を探すか」

 オーギュストは斜め上を見て考えながら言った。


 こうして二人の闘いの火蓋は切って落とされた。

   

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