スローシャッター感傷【7終】
コロナ禍の始まりをふりかえる
2018年9月6日(木)北海道胆振東部地震による北海道全域の “ブラックアウト”は、突如電気が生活から奪われ、仕事も流通も子どもたちの登校も止まった。暖房を必要としない季節であったのは当時救いだった。実家に連絡が取れず区役所前の電話BOXへ駆け込む。災害時に無料で繋がる緑の受話器を握りしめ母の声を聞き、家族の無事を知り安堵した。情報から完全にシャットダウンされる、という経験をその時に得た。翌朝、定期購読していた北海道新聞の朝刊が投函され、災害時に変わらず情報を届けようと走り働く人々へ心から感謝した。報道にもある通り電気が回復し、北海道以外の世界が動いていたし生活も仕事も徐々に元のように戻った。しかし、コロナ禍の苦悩はここから遡って対となり、思い出される。
2019年12月初旬、中国の武漢市で第1例目の感染者が報告されてから数ヶ月で、一気に世界中へ得体の知れない疫病が蔓延する。2020年1月末から「さっぽろ雪まつり」は開催され冬の観光シーズン到来、 多くの中国人観光客が来道した。私はイベントブーステントへ仕事で行っていた。その後、疲労なのか正体不明の微熱が続く。病院へ行ってもインフルエンザ検査は陰性、ただ、怠さと微熱に耐えていた。2月28日北海道知事による緊急会見、北海道独自の緊急事態宣言が発表されたその日は、長男の誕生日であった。2週間の外出自粛と学校休業、それは、そのまま子供達にとって学校へ行かず春休みに突入となる知らせだった。仕事は稼働するだろうか…不安が黒い渦となって、我が胸に、埋めいた。
「注文をきかない料理店」店主の魅力
仕事に寄せて、というところで一番好きなエピソードがある。
元々どの客へも1.4kgのステーキを出す店ではなく、店主の一番のウリは記憶力で、一度訪れたお客がどんな焼き方が好きだったのか、どの程度の量を食べられたのか全てを覚えているのだという。この店の一番のエンターテインメントなのだと。アツシは年に1度しか行けないが、何年もの間、通うたびに店主は何も言わず1.4kgのステーキを用意した。そして、コロナウイルス蔓延の世界が続くうちに、店主は…。覚えるということ、忘れないということは、繋がりづつけるということ。仕事のありようによってそれは、絶えることなく。店主の写真が添えられていて、肉の味も店主の笑顔も、読者の一部となるページだ。
コロナ禍で、絶望的に仕事がなくなる
私は、自営でデザインサービス業をしています。コロナ禍当時は、ニセコ富裕層のホテルに係るメニュー作成や写真の加工など。撮影は信頼できるプロのカメラマンに外注し、撮影当日ディレクションを行う。希望に満ちて、環境にも担当にも恵まれ、撮影後の料理をいただいたりもしていました。料理の色彩ほど笑顔の記憶しかない。
それらが、全て、なくなりました。
観光シーズン全盛期にインバウンド来道おろか互いの国を訪問することができない。観光需要が消失し、ホテルのシェフは?海外から来ていたカタコト日本語だった見習いはどうしただろう?ジェネラルマネージャーは?何処へ行ったかわからない。中継ぎの収益マネージャーより「退職します」とだけメールが届く。ホテルごと他の外資に変わり、散り散りとなってしまった。契約予定していた業務もイベントが行われず収益が見込めない、稼げる仕事が物凄い勢いで先細り、文字通り、途絶えていく。イベント会社に登録もあり仕事受注が少ない時はコンサートスタッフやホテルコンパニオンをしていたが、イベントがないのだから業務もない。飲み会なんてとんでもない、という社会に急激になっていった。
そんな頃。進路に迷い止まっていた長男が、突如意を決して行ったオープンキャンパスで、学長と話したことで進学の強い意志。そりゃ、、頑張って稼ぐか!!派遣会社へ登録してコールセンターでの仕事を始めることにした。派遣研修が始まって、2日目の夜、”僕たちは会って話してなに考えてるの?” 番組内告知本の出版が決まったと。知ったのです。
旅と仕事が同時に始まったこと
少し前後しますが、遡ること「0メートルの旅」が発行された2020年12月15日。それこそ先が見えない不安や恐怖にあり、布団の中で正座して一気に読み上げた。込み上げるものを感じて挑戦的なスイッチに切り替わり、仕事を通じて、望んだ出会いがありました。
モータースポーツカテゴリでも「ラリー」の、全日本ラリー選手権に参戦のチームに帯同してマネージャー業務をしています。仕事中の写真は、ラリーファンの友人が応援して撮影してくれたもの。とても大切にしています。
来月から、モータースポーツはハイシーズンを迎えます。フレキシブルに全日本8戦を動き回り(コロナ禍以降、開催中止も相次ぎ10戦から8戦になりました)チームメンバー各々が、各々の仕事に集中できるようにサポートしていく。出来ないなんて思わなくて、全力で楽しむ。チーム一丸で勝利に向かうこと。ようやく、コロナで無観客だったラリーでも有観客観戦が戻りつつあります。ファンの楽しさ、皆さんと共有することもとても大切。
デザインサービス業の方でも、以前イラスト担当させていただいた書籍の第二弾拡大版の出版が決まり、鋭利、同時進行でイラストも描きます。自分が何屋か?極めることはもう求めず、全力で応援する人をサポートしていく、それが、自分の生き方だと気づいたコロナ禍でした。
最後に、ひろのぶさんへ
ひろのぶと株式会社の株主になったのは、「紙の本が勝つ」世界は、自分の未来見たい景色でもあったからです。過去の記憶は、音楽のように私には本というものがあって、経年劣化で色褪せたり日焼けしたり、もう一度開いて読むことは難しくても、当時の自分を読んでいた景色ごと思い出すもの、それが、紙の本です。過去の偉人、過去の作家と一方通行の会話をするより、生きた作家を応援したい。
自分が応援すること、応援する力で自分の人生という仕事に挑む姿を、息子娘たちが背中なり見て、働くことに希望を持って欲しいです。夢のない時代に生きた、なんて思わないで少年少女よ。「ひろのぶさんが〜」と、私がひろのぶとについて語り始めると生暖かい目で見守ってくれる子供たちです。生きるの、楽しいよね。大変だけど楽しいよね。形に残るの、嬉しいよね。
そして「スローシャッター」ですが、激しく仕事の本となりました。美しい装幀、生まれてこれまで、後にも先にも、コロナ禍の苦悩も相まって、装幀で、本編で、何度も泣くという、掛け替えのない経験をし続けています。
最後に、敦嗣さんへ
後悔しています。疫病に関わらず「またいつでも撮れるだろう」と同じ理由で、「もう必要ないだろう」と、過去の写真、自分のも子供たちのも処分して、ほんとうに、少ない。この疫病で、誰を何を信じ残すべきかを、学びました。疫病のせいでも他人のせいでも、ないことが、自分の中心に残りました。
これからの人生、記録に溢れる日々を。
様々途絶えていた記録が始まっております。
信念は、自分の中にきちんと居ました。
ということを、スローシャッターは教えてくれました。
最後に、ひろのぶと株式会社へ
「全部を賭けない恋がはじまれば」
「スローシャッター」へ寄せる感情に出逢えたこと、
ひろのぶと株式会社の存在ある時代に重ねて生きれたこと、
ラッキーだったな、って思います。
本が好きな人たちと繋がって、
話したり笑ったり励ましたり喜んだりなども、
これからの楽しみです。
「旅することは、生きること」が、
生きることは、旅することになり、
その旅は人生であり、仕事なのです。
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