現代芸術、現代音楽についてのまとめ。 Concept memo

ツイートに変更を加えたものである。


初めに。 #現代アート #現代芸術 、#現代美術 #現代音楽 といったものは、ある意味だたの「狂気」であり、必要以上に価値や意味を与えるべきではないかもしれない。 時にヒトラーの描いた絵に「現代的な」価値を与える。楽しければやればよくて、少なくともやらなければならない。というものではない。


ただ、私の立場から、わかりうることを書き残しておきたい。


近代音楽のほうが健全であると現在考えている。


この手の芸術は深い意味はなく逆に意味を欲しがっている。と、解釈するのが正しいのかもしれない。


「4分33秒」とはプレーヤーを固定させるものである。まるで「犬」のように。逆に即興は「猫」のように自由だ。「4分33秒」は近代音楽の再現音楽つまり、楽譜通り演奏するという行為、解釈の可能性の象徴のようなものである。というのは一つの解釈。


死ぬのはいつも他人ばかり。 by マルセル・デュシャン
ジョン・ケージの即興が嫌いだった。真逆くらいに即興を愛している。 


ここまでうんこというのが流行ると、私も便器にサインを書けば価値が出るだろうか? その模倣者こそがそれについて最も価値があり、また価値がない。私の作品こそがそれについて最も最も価値があり、価値がない。 #レディ・メイド #攻殻機動隊 #笑い男 


私は耳鳴りを得たので、4分33秒の価値について理解が深まったと言えるだろう。 「サイレント」であることはありえないし、意図して音が発せられるわけではない。「」はかなりの皮肉を含んでいる。無論だが。 


君たちなら、4分33秒ではなくて、4分44秒だとか、3分33秒演奏するほうが好きな人もいるだろうな。  #4分33秒 #ジョン・ケージ
ただし、「4」と「3」両方含まれていることこそ意味があるように思える。 #4分33秒 


マルセル・デュシャンは「猫」であった。つまり、ゴーストライターや影役者のだと思っている。彼でさえ、社会的に完全に殺されることはなかった。
マルセル・デュシャンは芸術を意図的、故意に放棄したのではなく、放棄させられた。と、考えることができる


チェスのセミプロだったらしいが、チェスの勝敗で、社会の何かが決まっていてのかもしれない。 


川島素晴『《インベンションIII》発話と模倣の位相』は私がゴーストライターとして(そのようなことは気づいていなかったが)、制作に関わっている可能性があると考えている。
川島素晴《インヴェンションIII》 https://youtu.be/5DvY5TLVRJI 


模倣は模倣者であり、私が影役者であったアニメ攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEXの笑い男事件に関するものの模倣。発話というのは私が心因性失声症であったことを意味している。


"「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」"
"(「あなたにとってピアノとは?」と訊かれて)「猫達を食わせていくための道具ね」"
"「それでも私は、永遠に、永遠に生きて永遠に、弾くことは出来るわよ。」"
フジ子・ヘミング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E5%AD%90%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0

Fluxusやダダ(や、これらに参加していた<現代アーティストとしての>Yoko Ono)は、Score=楽譜を演じていていた。「一時間遅れてくる」と書かれていれば、彼らならそうするだろう。
わかりきったことだが、演じられないScore=楽譜は出来ないのだよ。 


ジョン・ケージはマルセル・デュシャンの影響を受けており、 オノ・ヨーコはジョン・ケージの影響を受けている。 言うまでもないが、「アイドル」だったジョン・レノンはオノ・ヨーコの影響を受けている。 


よって、ビートルズの「よくわからない」曲は、現代アート、現代美術、現代音楽の影響を主にオノ・ヨーコから受けている。

 
「ジョン・ケージ」は「作曲家」であり「ピアニスト」である。 つまり、「4分33秒」について、「自作自演のサイレントプレーヤー」である。 


ちなみに、こちらは「作曲家」であり「ピアニスト」であるラフマニノフによるラフマニノフの演奏。つまり、「自作自演」である。 ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ マーキュリー・ミュージックエンタテインメント https://www.amazon.co.jp/dp/B00005FH6S/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_WU3gBbC1K462J … @amazonJPさんから 


解釈問題が発生するが、「4分33秒」は、「演奏しないこと」を「演奏している」。 


マルセル・デュシャンも継承すると「コンセプト」の「ノート」や「メモ」で「演じること」「演奏すること」を「定義できる」。 


現代アート的な問題でなく、ロックやジャズの循環コードのセッションであれば、「自由に終われる」。 


"メールアドレスの由来は、19世紀のドイツ人作曲家でピアニストのカール・ツェルニーによる「ピアノ練習曲50番」。" 如月千早とは #hatenakeyword  

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A1%B7%EE%C0%E9%C1%E1
話が前後しているが、例えば菅野よう子の「Tank!」であれば、「休符」とは「演奏しない」ことを「演奏している」。ギターのカッティングなどもそう。 このようなことによって、歯切れのいい演奏が可能。  https://www.youtube.com/watch?v=CS3JjUccL_c


ショパンのEtude各曲はツェルニーから題(曲名)については、影響を受けていると思われる。代表される表題はあとから付いたもの。 "ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた[29]。" フレデリック・ショパン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3 … 


Etudeはそもそもは、練習曲。ただ、今日のようにツェルニーの練習曲のように毎日、弾いてほしいからっていう解釈もある。 ショパン即興曲第4番 嬰ハ短調『幻想即興曲』は当時は楽譜を崩して即興された可能性が高い。


流れを混ぜると(しかも飛んだり、前後したりしているが)、こういうことも言える。 ロマン派的=即興的=水彩画的。 新即物主義=写実的=油絵的。 


即興的をジャズが継承したことで、ジャズは本来のプリミティブ的からアカデミック的、クラシック的に転換しているように感じる。 そういった結果、ロック(ジャズ)のシーンは、インディーズやアンダーグラウンド、同人といった場所に回帰している。

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