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コミュニケーションツールからの脅迫(の対応がメインだったちょっと前)

去年書いた文章。コロナ前、世界が変わる前。
半年たった今なら全く違うことを書くだろう。と思って、(の対応がメインだったちょっと前)とコメントを追加した。今後のメモのために残しておこうと思う。世界は一瞬で変わる。

米国では1997年以降に生まれた人口層はポストミレニアル世代と呼ばれ、代表的な特徴として、テクノロジー依存、マルチタスク志向、4D志向と言われている。常にPCとスマホで情報を得て、インプットし、SNSで発信している。先日その世代に近い同僚のアメリカ人が、とある興味深い記事をFacebook上でシェアした。ミレニアル世代は、常にテレビ見ようとし、本を読もうとし、次に何をするかを考え、やるべきことができていないことに罪悪感を覚え、気付けば全くリラックスできていないというのだ。実際どうなのか本人に聞いたところ、「自分も周りもまさにそうです。大学時代の同級生は卒業後も勉強も続け、ハーバードのロー・スクールに入りました。それに比べたら私はゆるく生きていますが、やはり常に何かをしていないと不安です。」と語っていた。母国語が英語にも関わらず、日本語でMBAを勉強している彼女は、私からすると全くゆるくはないのだが。
テクノロジーの発達により情報の取得や交換といったコミュニケーションが飛躍的に容易になり、それだけ時間に余裕ができるという事でもあるはずなのに、なぜ彼女たちはそれに逆行するように時間に追われる心理状況なり、疲労を蓄積してしまうのだろうか。自身の経験としての、インターネットが登場する前と比べてみたいと思う。

私は1991年から1年間イギリスに留学していたのだが、当時日本とのやりとりは主に手紙だった。(国際電話もあったが料金が非常に高かった)。帰国後、イギリスで流行していた服装を日本でしたところ随分と笑い者になったが、1年後に日本で流行し、驚いたことを強く覚えている。それまで自身と繋がりのない情報の入手先は、テレビ、雑誌、新聞などで、家族や友人とのやりとりは対面か家の固定電話だった。そのため、様々な情報が伝わっていくのに時間がかかった。当時のコミュニケーションにはそれをつなぐ人の存在が強く感じられた時代だったように思う。今はネットでほとんどの情報を検索するようになり、そこに人は感じられない。
あの頃の私にはこんな時代が来るとは想像もできなかったし、今の若い人達を羨ましく思うこともある。あの頃は繋がるということに対して今よりも遥かに多くの不可能が存在していた。
では、私の時代に存在していた我慢が軽減されたはずのミレニアル世代が、なぜ心のゆとりを感じられないのだろうか。私はここに、不可能という名の逃げ場が存在しなくなったからではないかと省察する。
コミュニケーションとは自己の拡張である。その拡張させるツールが限定的だった時代は不可能だという諦めがあり、仕方ないのだという赦しもあった。友人に連絡がつかない、情報の伝達に時間がかかる、そういったことに苛立ちながらも、想像力を膨らませ、待つことや相手を思いやることも学んだ。
しかし、彼女たちは待つ必要がない。スマートフォンで情報を調べ、どこにいても繋がってしまう。そしてそれは、待つ必要がない、を超えて、待たせてもらえないという状況も生み出している。
また、身近な友人から世界中の人達まで瞬時に繋がることができ、情報の共有ができるということは、互いを監視し合うという危険も孕んでいる。一度繋がったら、逃げたり隠れたりすることも難しくなる。その場から離れれば、知らない間に嘘やデマが流される可能性があるからだ。もはや他人の不可能を受け入れられないと同時に、自分も常に可能な人間でいなければならないという感情が強迫観念となっているのではないだろうか。
 コミュニケーションツールでお互いを監視し合う中で、不可能を取り上げられた彼らは言い訳ができない。そうして日々努力した姿を晒し合いながら、逃げることもできず、彼女たちは走り続けている。そしてそれは全世代に広がりつつある。我々が燃え尽きてしまう前に、これの状況をかえる方法はあるのだろうか?
 先日「働き方改革」と銘打った会社のトークイベントに参加した。そこでとある会社社長が「地方で公演を行なった際、やりとりが電子化されたことにより仕事がよりスピードアップし、以前だったら一泊しなければいけなかったのがその日に戻ってこられることになってよかった。」と発言した。それに対してコメンテーターとして来ていた山田五郎氏の返しが面白かった。つまり、そういうところがダメなのだと。時間ができたのなら、そこで温泉にでも入ってリラックスして、そこで一泊してその町の経済に貢献した方がよっぽどいいでしょう。働き方改革って言いながら結局戻ってきて働いたのでしょう。それは改革でも全くないですよと。これほどのコミュニケーションツールが乏しかった時代に当たり前にあった余暇は一体どういうものだったか、もう多くの人は忘れてしまっているのかもしれない。そして、働き方改革というスローガンは今のところうまく機能しているようには見えない。これからどうなっていくのか、コミュニケーション論という学問的視点を持って今後見て行きたいと思う。


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