負け犬の遠吠え 明治維新12 徳川幕府にとどめをさしたのは徳川家
※今回の注意点(15代将軍「徳川慶喜」と尾張藩主「徳川慶勝」がごっちゃにならないように気をつけて読んでください・・・)
今回は「尾張藩」の目線で明治維新を追ってみようと思います。
江戸幕府を築いた「徳川家康」には11人の男児がいました。
長男は織田信長に切腹させられ、次男は豊臣家の養子になっていたため、三男である秀忠が2代目将軍となりました。
秀忠に将軍職を譲って駿府城で隠居した家康は、九男「義直」十男「頼宣」十一男「頼房」を育てます。
そして義直は「尾張徳川家」頼宣は「紀州徳川家」頼房は「水戸徳川家」の藩主となりました。
「尾張・水戸・紀州」の、この三藩は徳川家康の血を継ぐ「御三家」と呼ばれ、「将軍家が途絶えた時には養子を出す」という役目を担うことになったのです。
御三家以外の徳川家の一門は「親藩」と呼ばれ、松平姓を名乗りました。
ここで「王政復古の大号令」の話を思い出していただきたいのです。
「王政復古」に関与した藩は薩摩・土佐・安芸・越前、そして「徳川慶勝」を代表とする尾張の5藩です。
徳川家の権力を剥奪するこの「王政復古」に、なぜ徳川御三家である尾張が参加しているのでしょうか?この疑問の答えは、江戸幕府と尾張徳川家との間にできた長年の確執にありました。
7代目将軍・徳川家継が8歳で死去した時、将軍宗家の血筋は断絶してしまいます。
当然「御三家」から後継者を出すことになるのですが、第8代将軍に選ばれたのは尾張藩からではなく、紀州徳川家から養子に出された「徳川吉宗」でした。
以降、14代まで紀州徳川家の血筋が江戸幕府を支える事になります。
第15代将軍の慶喜は「水戸徳川家」の血筋の者であり、尾張徳川家からは結局一人も将軍を出すことはありませんでした。
この事は、尾張藩と幕府との間に溝を作る一因になったのではないでしょうか。
幕府と尾張藩の確執は他にもあります。
「享保の改革」で知られる将軍「徳川吉宗」は、幕府の財政を立て直すために質素・倹約策をとっていましたが、これに対して尾張第7代藩主「徳川宗春」は、逆に規制緩和による経済活性化を図り、大成功を納めました。(結果的には借金まみれになりますが・・)
幕府の方針に従わなかったばかりか、大成功してしまった事は幕府の威信に関わると判断した幕閣達の画策によって、徳川宗春は謹慎処分を受けてしまいました。
この幕府の過度な干渉・介入は、尾張藩と幕府との溝を深めることになりました。
その後、尾張徳川家に後継がいなくなり徳川義直の血筋が途絶えると、徳川吉宗の血筋から養子を送り込まれて尾張藩主にされます。
幕府が送り込んだ藩主は4代にも渡り、これらの藩主は江戸に入り浸って尾張藩にいる事が少なかったため、尾張藩の財政は赤字になってしまいました。
尾張藩の幕府に対する反発は日に日に増していき、幕府から養子を押し付けられるのを阻止すべく、美濃高須藩から養子をとり、尾張藩主として迎え入れることに成功したのです。
それが「徳川慶勝」なのでした。
しかし、待望だった尾張藩自前の藩主も、幕府の大老・井伊直弼と対立し、「安政の大獄」で隠居処分とされてしまいました。
井伊直弼の暗殺によって復権し、尾張藩の実権を再び握った徳川慶勝は、第一次長州征伐の総大将に任命されます。
第一次長州征伐といえば以前、「西郷隆盛が長州に対して寛大な処分にする事を決めた」と説明しましたが、しかしよくよく考えてみると、参謀である西郷隆盛だけの判断で15万の大軍を引き返させる事などできません。
最終判断を下したのは、総大将である徳川慶勝なのです。
そしてその判断は、確実に、決定的に幕府を窮地に追い込むものでもありました。
この時の慶勝にはすでに幕府を倒そうという思いがあったのかもしれません。
そして王政復古の大号令では、徳川慶勝の手によって、徳川御三家の尾張藩が江戸幕府に引導を渡すことになったのです。
とはいえ慶勝が望んだのは「一強状態の徳川慶喜の力を奪い、政権交代を果たして諸藩と同じ立場にすること」でした。(倒幕)
しかし薩摩藩はそれで納得が行くわけがなく、あくまでも徳川家を武力で滅ぼそうとしました。(討幕)
そして薩摩藩の陽動作戦によって「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が起こり、これによって旧幕府側は憤慨し挙兵し京へ進軍することになったのです。
しかし上京の目的はあくまでも薩摩藩の罪状を列挙し、宣戦布告を書いた「討薩の表」を朝廷に示す為です。
徳川慶喜にとって、京都で戦闘を起こし「朝敵」となるのは最も避けたい事でした。
旧幕府軍はフランスから仕入れた最新兵器「シャスポー銃」を装備する精鋭部隊「伝習隊」を含んだ15000の大軍を進軍させますが、弾を込めておらず、街道も狭いため二列縦隊で進軍します。
京までの道のりに立ちはだかる薩長軍も、大軍を見れば道を開けるだろうと予測していたのです。
慶喜はまだ「戦うつもりはなかった」のかも知れませんが 当然これは軍事行動とみなされ、新政府軍は緊急会議を開き「旧幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」と決定しました。
鳥羽街道、伏見街道の二手に分かれて進軍する旧幕府軍が街道を塞ぐ新政府軍と対峙すると、「通せ」「通さない」の小競り合いが起こります。
そして小枝橋付近で鳥羽街道を強行突破しようとする旧幕府軍に対し、薩摩側は砲撃を開始し、戦闘が起こりました。
二列縦隊をとっていた旧幕府軍は、左右から新政府軍の攻撃を受けて大損害を出します。
一方の伏見方面でも、この銃声を聞いて戦闘が開始されました。
旧幕府軍一万五千、新政府軍五千と、兵力では旧幕府軍が優位でしたが、狭い街道では身動きが取れず、その兵力差を生かすことができません。
さらに新政府軍はあらかじめ「錦の御旗」を準備していました。
この旗は「天皇の軍隊」、官軍であることを意味します。朝廷の許可を得た新政府軍は、錦の御旗を翻しました。
これによって、旧幕府軍は天皇に刃向かう「朝敵」であることがはっきりと示されてしまったのです。
旧幕府軍はこの錦の御旗を見て愕然とします。
中立を保っていた藩も新政府軍に加勢したり、旧幕府軍から新政府軍へ寝返る勢力も出たりして、旧幕府軍は瓦解しました。
大阪城にいた徳川慶喜は軍艦・開陽丸に乗って江戸へ退却します。
朝廷は慶喜追討令を出し、新政府軍は江戸に進軍する事になりました。
しかし、名古屋から江戸までは旧幕府の直轄領が多く、旧幕府側について新政府軍と戦う勢力が出てくる可能性も考えられました。
実際、尾張藩の中にはまだ親幕派が残っており、藩内での対立が深まっていました。
朝廷は徳川慶勝を呼び出し、尾張藩内の親幕派を粛清するように命じます。
岩倉具視は、徳川一門としての立場を慶勝が捨てきる事ができるのか、旧幕府側か新政府のどちら側につくのか、最終判断を迫ったのです。
徳川慶勝は朝命を受けると、苦悩の末、親幕派の弾圧を決意しました。
神道に造詣が深く、尊王思想の強かった尾張徳川家の初代藩主である「徳川義直」によって、「万が一、幕府と朝廷が争う事態とならば、尾張は朝廷側につくこと」という「藩訓」を作られ、藩主から藩主へと伝えられて行きました。徳川慶勝はこの藩訓をしかと受け継いでいたのです。
「朝廷とは君臣関係。幕府とは父子関係。国難においては、親を捨ててでも君臣関係の義を取らねばならない」とその悲痛な決意を語っています。
慶勝は名古屋へ帰城すると、その日のうちに3名を斬首。
弾圧は重臣のみならず一般藩士にも及び、最終的には14名が斬首され、20名が処罰を受けました。(青松葉事件)
これにより尾張藩は新政府側につく事で統一され、周囲の諸藩もそれに追従しました。そもそも名古屋城は、西から敵が江戸に進軍してきた際の最終防衛拠点として作られました。慶勝の決断により、名古屋城はその役目を果たす事なく、新政府軍は抵抗を受ける事なく東海道を東進。徳川幕府にとどめを刺すことになりました。