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贖罪と名声 ーTAR-

YouTubeで『Actors on Actors』を観るまで単なる名声に固執した人だと思っていた。

男性優位社会に男性のように生きる。男性になる事に固執し、男性が得られる名声や特権に固執しているだけだと思っていた。
映画には描かれていないが、主人公『ター』の両親は聾啞者だった。
また、『ター』は絶対音感を持ち、両親に罪悪感を抱いて生きてきた。
YouTubeでは、そう語られていた。
『ター』は罪悪感から逃げたかったのだろうか。
自分だけが音を享受する事を『両親から許されていない』と感じたのだろうか。
どうして、その先が名声だったのだろう。
罪滅ぼしか、過去の自分との決別か。

絶対音感を持つ『ター』の音と世界に対する価値観は、学生に講義しているシーンに良く現れていると思う。
『ター』は音を愛している。音に罪はないと、むしろ不遜な態度や生き方が男性らしいと遥か昔の偉大な作曲者を称賛している。
最近になってピカソは、女癖の悪さ、女性への仕打ちから芸術的な価値が下がっている。
学生にはそのような価値観が当然のように育っているから、聴く価値のない曲だと反発するが『ター』には理解できない。現代的な音を毛嫌いしているところも、ステレオタイプの男性像を崇拝していからだろう。
『ター』は本当に音を愛しているんだろう。そして自分の価値基準で音が良ければ、その音に人生を捧げるほど情熱を注いでいる。やはり恐ろしいほどの才能がある。

『ター』は音以外で何を求めているんだろう。
自分が『ター』である、かつてアメリカに置いてきた『あの家の少女』ではない自分になる事が、今の自分の証明なのかもしれない。
では、どんな自分なのか。
どんな男性になりたかったのか。

男性優位社会で女性が男性の権威を手に入れることは、並大抵のことではない。『ター』の振る舞いは正に男性だが、生物学的に男性の前では女性のようでもある。そして女性の前では当然男性になっている。
『ター』は巧妙に楽団という組織の構成を理解し、ある時は男性を称え、ある時は女性を篭絡して自分が求めるポジションに収まった。
欲望に忠実で、欲望に吞まれていた。
何のために求めているのか。
ただの享楽か。
それとも、過去からの逃走か。

女性的な名前を変え、長髪以外の女性らしさを捨て、父親らしいの役割を担う。それでも、女性は『女性というアイコン』から脱却することは出来ない。『ター』は男性のように振る舞う『レズビアン』という枠から抜けることは出来ない。必死に自分の人生から逃れて、男性らしい人生を突き進んでも、世間の『女性である』という認識からは逃れられない。
だからこそ男性らしい自分が、女性らしいまま成功を収める、または成功する才能を持つ女性が許せないのかもしれない。

『女性という認識』の中『男性のように振る舞う』ことで、女性を篭絡し、時に同性である女性の才能を潰し、自分だけが特別であるように生きてきた。
自分が手にした『名声』は女性らしい彼女のままでは築けなかった。
そういう時代でもあったし、『男性である自分』は女性より優位な生き物でると思い込んでいるのだろう。

そして結局、簡単に『名声』を失ってしまった。『手に負えないレズビアン』という認識だけが残ってしまった。
自分の人生を見失ったまま生きてきた彼女は、ずっと迷子のまま終わる。
音楽で食べていくため、皮肉にも価値がないと一笑した音に自分の才能を捧げて。

この物語は何を伝えたかったんだろう。
『ター』に救いがあるんだろうか。
現実を受け入れざるを得ない彼女は、本当の自分を許せるときが来るんだろうか。
彼女の両親への贖罪の時は、ようやく始まったのかもしれない。







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