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猫を撫でる

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 舞台の本番の合間に〆切の迫る公募向け小説の原稿を書き、それだけでオーバーなキャパシティの脳みそとは無関係に降ってくるリリックを手帳に書き溜めているといよいよ自分が何者か分からなくなってくる。
その酩酊感が心地好い、というのも一面の真理であろうが、生憎と俺はその酩酊に全面的に身体を預けることは出来ない。そもそもそれができる人間は敢えて小説なぞ書くまい。酩酊、前後不覚、自分が自分じゃない感じ。そうした感覚は"社会"と真っ向から対立する。社会は常に個人に向けて「お前が何者であるかをお前の手で示せ」とメッセージを発し続ける。それは殆ど命令と言っていい。俺はその命令に背く素振りで、その実誰よりも忠実にそれをこなしている。目にモノ見せてやる、と思うのは、自分が他ならぬ自分であることをこの世界に知らしめようという欲望そのものなのだから。つまりここで、俺は社会と利害を同じくしている。口ではいくら汚い言葉で罵ろうとも、自分が自分であることを手離せないならば、畢竟俺は社会に隷属しそれを構成する一因子でしかないのかも知れない。

 などということを考えたり考えなかったりしながら猫を撫でた。俺の猫ではない。というか猫は誰のものでもない。バイト中、チラシを配りながら見付けた猫屋敷で、唯一俺に毛並みを撫でさせた猫だ。それから何回か撫でに行って、屋敷の主人にも挨拶をした。今度ちゅ~るでも持って行こう。
 陽も暮れて、猫は寝ていた。俺は足音を立てないように玄関先のコンクリートに腰を下ろし、ヘッドフォンの音を消して猫の寝息を聴いていた。規則的に膨らんでは縮む横腹を見ていると、猫が目を覚ました。気配で起こしてしまったのだろうか。しかし猫は俺を見るでもなく伸びをし、それから徐に屈んだ膝のそばにやって来て座った。何かの歯車が噛み合ったように、俺の右手は猫の背中を撫でた。一撫でごとに、世界の真理が遠退いてゆく。何も分からなくなってゆく。肩凝りが解れるように、世界から意味が剥がれていく。ああこれか、と合点した。以前、友人が「猫を撫でるとは、人間という宇宙が猫という宇宙と触れ合うことだ」と言っていた。なんたる大言壮語、とその時は思ったけれど、俺の身体は今紛れもなくそれを実感している。俺は今、宇宙を撫でている。
 俺が猫を撫でているのか、猫が俺に撫でられているのか。猫が俺に撫でさせているのか、俺が猫に撫でさせられているのか。日常の暮らしは常にこのような不毛な問いに苛まれている。どちらが主で、どちらが客か。しかしそんなことを気にするのは人間だけで、では人間が何故それを気にするのかと言えば言葉を喋るからだ。言葉は世界を各々自分の口に入る大きさに切り分ける為のナイフだ。人は、そのナイフで切り分けた大きさしか世界を味わえない。だとしたら、言葉を持たずに世界を丸呑みできる生き物の方が、人間よりも豊かに生を味わっているのではないか? 少なくとも、俺が猫を撫でている間、俺と猫は一切の制度から解き放たれている。言葉の外で、何が起きているかも分からないまま、猫の身体と、俺の身体が、ただ動いている。それはまさに一つの宇宙がもう一つの宇宙と触れ合っているということだ。

 昨日初日の舞台を終え、観に来てくれた友人たちと久々に会食した。珍しく酒を二杯飲み、案の定帰宅して部屋で気絶した。酩酊による眠気は睡眠とは異なり、正しく「気を失っている」状態であるからしていくら気を失ったところで脳は休まらないらしい。という訳で午前三時に目を覚ますと、丁度三十分前に関東上空を火球が通過したという事件がツイッターを賑わしていた。生きていれば勿論そういうこともある。明日質量5,000000トンの隕石が地球を砕きにやって来ないとも限らない。もしもそんなことがあれば、真っ先にあの猫のところへ行こう。もしも猫が変わらず玄関先に居て、俺にその背中を撫でさせれば、俺は猫を抱きかかえてその耳を塞ごう。猫が怯えないようにしよう。

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