『未必のマクベス』読了

 という訳で感想文書こうと思います。
いやー面白かった。タイトルだけはどこかで耳にしていて、けれど特に手に取ることもなかったのだけれど、星新一賞に出した原稿を読んでくれた人から「早瀬耕さんっぽい」という感想を頂いて検索したらこの作品の著者だったので読んでみることにした。文庫で千円、六〇〇頁を越える結構なボリュームに気圧されつつ、軽やかというよりは静謐で清涼感のある文体のお蔭ですらすらと読め、しかも物語は二転三転の怒涛の展開を繰り返す。引き込まれずにはいられない。

 内容はやはり本編を読んで欲しいのでできるだけ触れずに、それでも私がこの物語の何を「面白い」と感じたのかを記す試みをしたい。その作品を楽しむことは殆ど「小説を楽しむ」ことと同義であるような、面白い小説を読むと必ずそう感じるところの感想をやはり今作についても抱いた。
 昔読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に書かれていたことによれば、人間の文化的営為とはつまるところ「ヒマ潰し」であるそうだ。何故ヒマを潰さねばならないか。それは狩猟採集生活においては十全に発揮されていた身体能力を、定住生活への移行と共に持て余すようになったからだという仮説が紹介されていた。この仮説は非常に説得的に思える。つまり、文化とは狩りの代替なのだ。
 そうした観点から、この小説が何故「面白い」のかを考えてみたい。
「物語」というものを非常に大雑把に定義すると、「登場人物がどこかに行き、何かをし、そして帰ってくる」とロシアのウラジーミル・プロップが『昔話の形態学』で分析したというようなことを確か大塚英志が書いていた。勿論、今となっては物語にはもっと色々なパターンがあると思う。それに、主人公が死んでしまうような物語では、もう「帰ってくる」ことはできない。それでも、ともかく我々は物語を読んで「面白い」と感じる。主人公が生きて帰ってくるにせよ、死んでしまうにせよ。何を達成するにせよ、何も達成しないにせよ。
 個人的には、あまり劇中で主人公が何かを達成したりしないような物語を好む。それはつまり、我々一人ひとりが生きるこの現実は、決して物語ではないからだ。物語の作中人物がそこで何を達成したところでそれは決して私自身の達成ではないし、にも拘わらずそのような達成が可能性として提示されてしまうことによって「ほら、お前も頑張れば成功者になれるんだから頑張れよ」と嗾けられている気になってしまう。いや、それはたまたまそいつがそいつだったからできただけだろ、と卑屈な私は思うのだ。
 その意味で、『未必のマクベス』の主人公であるところの中井優一は、勝者とも敗者とも曰く言い難い。実のところ彼の目的が何であったのかについてさえ、それ程明瞭に把握できる訳ではないかも知れない。目的を叶える為に、果たして相応しい手段はそれだったのかということについても疑問は残るかも知れない。けれど、ともかく彼は動いた。動けなかったかつての自分への償いなのか、動くことによって絶対に譲れない目的だけは達成した。それが誰にとってどれだけ意味のあることなのかは分からない。それでも、読者である私には、事の成否以上に彼が「動いた」というその事実が、物語を駆動するそのダイナミズムが、読んでいて非常に心地好く感じられた。
 結局のところ「意味のない」人生、いつか終ってしまう生、それに如何なる折り合いを付けてこの今を生き凌いでいくか。この今を生き凌げねば明日は来ない。その為に餓えを満たす。その手段として狩りがあり、読書がある。自分も何れこんな作品を書きたいと、烏滸がましくも思わされてしまった。未読の方には是非手に取って頂きたい。そして誰かの感想を聞かせてもらえたら、それは私にとってとても幸福な時間だと思う。

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