LGBTQ問題に思うこと

性的マイノリティの差別は良くない。これは理解できる。
一方でトランススポーツ選手の問題など誤った対応の結果発生した歪みみたいなものはあちこちで発生している。共用トイレや温浴施設の議論もそうだろう。

この手の問題を見ていて感じるのは根本的なアプローチを間違えたというところ。

感情や精神的なものを身体的な区別に過ぎないはずの男女性にカテゴライズすること自体が大いなる間違いだという話だ。
同性愛者という用語自体がこれを助長している。
性的嗜好(性的志向ではない)は千差万別。
何故性別のみを特別に扱うのか理解できないというのが正直なところ。
例えばレズビアンは身体的女性を性愛対象として好む身体的女性のことだが、これにレズビアンという用語を準備してカテゴライズする必要性がわからない。
高身長が好きだとかブロンドヘアが好きだとかと何が違うのかと。
白人が白人を好きになる場合と黒人が好きになる場合で用語を準備してカテゴライズするのか?という話で。
好きになる側の属性はそもそも関係ないはずだし、これのみを殊更に特殊であり少数者であると取り扱うのはそもそもおかしい。
個々の細かい性的嗜好を網羅していけば全員が性的少数者だろうに。

またこの手の問題の最もナンセンスな部分は個々人の人格を精神的男性と精神的女性に分けていることだと感じる。
スカートを好めば身体的男性は精神的女性なのか?ラーメン屋に一人で入る身体的女性は男らしいのか?
これはあくまでも個人的な人格であって性的価値観ではない。
単にステレオタイプに毒されてるだけだろう。

そうなってきたときにトランスジェンダーとは何かという問題にぶち当たる
トランスジェンダーの認識する身体性に対する異性的精神は本当に現実の異性の精神と同一だろうか?
彼らの抱える認識は世間的なステレオタイプとの乖離或いは接近であって解決のために打破すべきは精神的性差というステレオタイプの価値観だろう。
戦うべきは身体的性差に対応した社会構造ではないと考える。
トランス女性がスポーツ競技で身体的女性に混ざって大暴れなんてのは馬鹿げた話でしかない。
身体的性差による区分は格闘技の階級分けのようなものでしかないのに、俺は100キロだけど精神的60キロだから60キロ級に出ますなんてことにはならないだろう。

トイレや浴室の問題も同じで、基本的にこれはそれぞれの身体的性差に適した構造になっているはずだ。
精神的男性なので男性用小便器で用を足しますなんて身体的女性はいないだろう。

精神を男女でカテゴライズするのは無理がある。
生物的な思考傾向を完全に否定する気はないが、個々人の趣味嗜好の違いを性差と呼ぶべきではない。

好きになった相手が身体的同性だから性的少数者なんだ!とする価値観はやめるべきだ。
極論を言えばそいつに穴や棒があるから好きなのか?違うだろ?と。
仮にそうだったとして何の問題があるのかと。

そう考えていったときに1つだけ触れるべき問題があって、これは婚姻制度の部分。
現在の婚姻制度は戸籍制度と繋がって何かと現代の多様な価値観に追随できていない部分が多い。
婚姻制度は目的として社会的再生産(子供を産み育てる)に対して両人の責任を問いその分の支援を行うためのものという意味合いが強い。
例えば財産分与にしても出産育児で労働が難しい期間を有する不平等を保護する意味合いもあり、こういったいくつかの制度による法的な縛りをそのまま当てはめるのはかなり乱暴になる。

身体的異性による婚姻であっても子育てを行わない選択というものもあり、ここについて切り離すべきではないかと考える。
性別を問わず婚姻そのものについての法的責任や権利をある程度簡素にし(これは婚姻のハードルを下げる部分にも繋がる)、両親となったときの法的責任を現行に合わせるのがベターではないかと思う。
大掛かりな制度の変更は時間が掛かるしあくまで空論だ。

いずれにせよ社会制度は合わせていかないといけない。ただ今の議論は問題解決からはズレている。

精神的性別のカテゴライズを外して、1人でも多くの人間が同性愛者としてではなく1人の人間として身体的同性の1個人に対する愛を語り、また精神的異性ではなく1個人としての個性として自分の趣味嗜好を話せるようになればいいなと思う。

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