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表現の自由(入門編)〜俺の屍を越えてゆけ〜

どうも。ヘルです。

恥をかきました。
私が青識亜論さんに挑んだ、通称「青ヘル論争」です。


「表現の自由」に関し、何も理解していなかったことを露呈してしまいました。Twitterで。全世界に向けて。

はぁ・・・恥ずかしい・・・つらい・・・




・・・しかし、ただ恥ずかしい思いをしただけではもったいない!

どうせ一旦晒した恥、このまま天日で干し続け、数ヶ月も経てば良い味が出て酒の肴くらいにはなるだろう。
(ビールは皆さんが奢ってくれると信じて)

というわけで、ここ数日間に得た気づきをまとめました。

「表現を守りたい」と思う人にとってはある意味で大きな武器を失うような話になってしまいますが、自由主義に則り真にフェアな戦いをするためには大切な考え方であると思うため、是非最後まで読んでほしいと思います。

当たり前のことを偉そうに書いてる部分もあるけど許していただきたい。

間違っている部分があればゴリゴリご指摘お願いします。


俺の屍を越えて、より次元の高い議論のための糧にしていただければ幸いです。


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「表現の自由」とは何か

> 表現の自由(ひょうげんのじゆう、英: freedom of speech)とは、すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利[1]。外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由[2]。
(Wikipediaより)

まあ読めばなんとなく分かるよね。

でも理解はしていなかった。

私が今回学んだのは、すごく簡単に言うと「批判と規制のレイヤーをごっちゃにしてはいけない」ということ。
表現に向けられた批判が大変に不当なものであったとしても、我々には「表現は自由だ」と論敵を殴りつけて批判を取り下げさせる権利は決してない。
「表現の自由の有無」と「表現の存在の許否」は全く別物なのだ。

「表現」に対して批判をする自由は誰にでもある。
そこに公権力や暴力が介在しない限りそれは全て自由の範疇であり、そこに「表現の自由」に関する争いは存在しない。

「表現の自由」とはあくまで「表現する権利」であり、「表現を批判されない権利」ではないのである。


「表現の自由」の正しい使い方

従って、批判者に対して第三者から「表現の自由だろ!」と反論することは、実は全く意味がない。
「表現の自由」を知る批判者からすれば「それが何か?」と返されて終わる。

考えてみれば、いくら「表現は自由」と言われても批判者の被害感情が癒されるわけでは全くないし、その感情に基づいて表現を批判することもまた自由である。
そしてそういった批判が多く寄せられれば、経済的合理性や精神的負担などの判断により、表現者がそれを取り下げてしまうこともあるだろう。

しかし、一方でこの国において表現の自由が保証されている以上、表現者はその批判を「無視する自由」も同時に保有するのである。

これが、本当の意味での「表現の自由」の使い方。


表現の自由と法の関係

また、「法での線引き」ができるのはあくまで「表現の内容が違法か適法か」でしかなく、批判することもまた合法的な表現である以上、それを法で奪うことなど絶対にできない。

「不快・見たくない・悪影響だ」と思う声に対して「いやでも違法じゃないですし」などと第三者が反論しても、表現を不快に感じた人は表現への批判をやめることはない。

「表現し続ける」ことを意志決定し、「うるせえ表現は自由だ!」と言えるのは、表現者だけなのだ。
そして、そこまで覚悟を決めた表現者に対して最終的に強制力を持つのが「法律」なのである。(この辺はまだ全然理解ができている気がしないので、ツッコミお願いします。)


「自由」と「意志」

「表現の自由戦士」という呼称がある。元々はフェミニスト側が、自分達の「表現への批判」に対して反論してきたアンチフェミに対して名付けた蔑称のはずであったが、青識さんは「特に悪い意味を含まない」として自ら名乗るようになった。

確かにその通りなのだ。

これを蔑称としてしまうのは「表現の自由」を理解していないと言っていい。「フェミニストが表現の自由戦士と呼ぶ人たち」が戦っているのは「表現の自由のための戦い」ではないからである。

私には「表現の自由戦士はあらゆる表現に寛容であるはずだ」という思い込みがあった。
しかし一方では「批判は表現の自由の侵害ではない」ことも理解はしていた。
明らかに矛盾するこの二つを、特に摺り合わせることもなく。

もちろん私の思考力不足もあったのだろうが、加えて以下の認識が足りなかったように思う。

批判には、「表現の自由」を潰す力はない。
批判が潰せるのは表現し続けようと思う「意志」だ。

批判により表現を続けようという「意志」がなくなったとしても、それは「自由」がなくなることとイコールではないことは、この問題を考える上で見失ってはいけないポイントであると思う。


表現批判への対抗手段

では、ある表現が批判された時、その表現を守りたいと考える者ができることは何か。

私が思うに、それには3つの方法がある。

「その表現の必要性を証明すること」
「そんな心配はないと説得すること」
そして「表現者を応援すること」

「表現の必要性」に関しては、主に「公益性のある機関による広告への批判」への反論が主戦場であると思う。証明が難しい部分ではあるが、「オタクの献血を促すためにオタクに人気のあるキャラを献血ポスターに使う」ことには合理性があるともいえるだろう。たまたまそのキャラが巨乳だっただけ。(別のキャラや絵柄でよかっただろという批判はもちろんあるだろうが)

「説得」は、例えば「性的な表現を日常的に見ていると、本当の女性にもそれを求めるようになる」という危惧に対して「日本の性犯罪の少なさ」や「なんでも見られるネットが普及しても性犯罪は減っている」などの論拠を用いて反論する場面が思い浮かぶ。思想に基づかず、本当に子どもの心配をしている親には有効なのではないだろうか。

「応援」は言わずもがな。「お気持ち」による批判にたいして「応援のお気持ち」を表現者へ届けること。

Twitterで行われている議論では、批判者に反論する中でその批判が「どう考えても無茶な要求」であることを証明し、サポートしてくれる人間を増やし、間接的に「あんな批判は無視してよろしい」と表現者に伝えるという、複合的な戦いになるのではないだろうか。


「萎縮」もまた「自由」であることの裏返し

この考え方に対する危惧として、「批判が通り続けた結果、未来の表現が萎縮するおそれがある」というものがある。私もこの考えに基づき多くの反論をしてきた。
しかしこれはもう、「そうなってしまったら仕方ない」というスタンスでいるしかないのではないだろうか。
需要がない表現が廃れるのは自然の摂理だし、逆に言えば充分な需要があれば、どんなに過激だとしてもその表現は存続し続ける。ゾーニングやレーティング、その他社会が必要とする措置を取りながら。

どんなに理のない批判であっても、それが表現者に届き、表現者が納得さえしてしまえば簡単に表現は潰せてしまう。

大きな批判を受ける表現に対して、「それがなくなって欲しくない」と思う人ができることは、買い支え、応援メッセージを送り、批判を受けた表現者が「それでも表現し続けよう」という決意を失わないように燃料を注ぎ続けることなのだ。

そして批判側が不当な人格攻撃や人身攻撃、存在するかも怪しい「公的概念」でお気持ちを糊塗し始めたときに、または実際に公権力が納得できない理由で表現を規制しようとした時、初めて高らかに叫べるわけである。
「表現の自由を潰すな!」と。


「お気持ち」は本当に悪いのか

先にも述べた通り、今まで私がイメージしていた「表現の自由戦士」は「あらゆる表現に寛容」というものであった。
しかしそれは誤りだった。
「いちいちうるせぇフェミニスト」も、「法律で禁じられてなければなんでもアリやろ派」も、他人の表現を実力行使で妨害しない限り、実は「表現の自由を侵害していない」のである。

その二者を分けるものは「倫理観」だけである。
「普遍的にどちらかが間違っている」ということは決してない。両者ともに自らの価値観に従って表現を批判したり擁護したりしているだけなのだから。

表現の多様性を愛する者が戦わなければいけないのは、「社会が、より厳しい倫理に基づいて幅広い表現を許さなくなること」なのだ。
それは「倫理観」であり、それは「お気持ち」である。
人には「お気持ち」で物事を批判する権利がある。それはまさに表現の自由に守られた権利だから。
その「お気持ち」が、多くの人の「倫理観」と合わなければもちろんその「お気持ち=表現」には多くの批判が寄せられる。

しかし「表現=批判すること自体の自由」は「お気持ち」で規制されるべきではない。

これが冒頭にも言った「批判と規制のレイヤーをごっちゃにしてはいけない」ということだ。


最後に

規制と寛容、社会がどちらに寄るかは、ひとえに「支持を集めた方」になるのだろう。
そう考えるとフェミニストはあまりヒステリックな批判をするべきではないし、表現擁護派もあまりに過激な表現を無制限に擁護するべきでもない。
それは必ず社会からの反発を呼ぶ。

「表現の自由」は憲法により万人に保証された権利である。しかし、「表現が社会にどこまで好意的に受け容れられるか」は誰も恣意的にコントロールすることのできない、まさに「市場」なのである。

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