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お盆のお迎えとお帰りはブリキのボルチモア&オハイオ鉄道で

前向きな空気に満ちた時代

なぜか、「子供のころに遊んでいた玩具」をもう一度手にしたいと思うことが数年前から多くなりました。
子供のことですから、飽きっぽく、乱暴に扱い、せっかく買い与えられたのに、何かの変わり目で処分してしまい、なんの記録もないので再び目にすることさえ叶いません。ある意味自業自得の結果なのですが。

私が子供のころであった昭和中期は貧しさの中にも高度成長の恩恵を受け、粗削りながらも、希望のある生活を夢見ることができるような、そんな前向きな空気が満ちていた時代でもありました。
もちろん子供向け玩具も同じで、一度手にした品であれば、その時代の空気や思い出が封じ込められ、タイムマシンのようにその時代に戻されるような気がするのです。

これはミントではないか?

7月のある日、ネットオークションで目が点になりました。
それはブリキで作られた、鉄道玩具のセット。
今まで、同種の出品を数々見てきたのですが、編成が短かったり、程度が悪かったり、その都度入札を見送ってきた経過がありました。

今回の内容を観てみますと米国「ボルチモア&オハイオ鉄道」ディーゼル機関車と貨車の合計8両、発進・停止機能付きオーバル線路のフルセット。
連結させると145cmの長編成になり、今まで見たことのない貨車も含まれています。

車体のコンディションは良好で、古い電動玩具にありがちな電池の液漏れによる腐食が見られない他、ブリキ製の線路はメッキが完全に落ちておらず、大切に保管されてきたことを伺い知る品でした。

自分にはいわゆるミントに近いコンディションに見えました。
ミントとは中古車市場において新品同様の車のことを指し、非常に状態が良いときに使われていて、それはミニカーなどアンティーク玩具などの世界でもしばしば使われる言葉です。本体はもちろん、外箱の状態も悪くなさそうです。

何より、最大の魅力は「機関車が稼働する」と出品者のコメントです。
飾りモノでも良いのですが、私の好みは断然走らせる派。この類の品は走るからこそ楽しさ万倍であり、走らせてナンボの世界なのですから。
あえて不動品を入手してレストアする楽しみもありますが、私の腕ではせいぜいゴミを増やすあたりが関の山でしょう。

金額は…決して安くはありません。
が…この内容では充分妥当というか、むしろ、バカ安だと思えました。
なぜか…?

55年以上前に造られた品だからです。

それは、大阪万博が1970年に開催される前の年、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」や クール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」がテレビでガンガン流れていた時代。初めて人類が月に降り立った年でもありますね。当時の私は小学生にあがったばかりの乗り物系オモチャ大好きなお子様でありました。

父の実家が奈良県・吉野山でしたので、春・夏・冬の学校休みには長い時で半月ほど帰省して中山間地の田舎暮らしを楽しんでおりました。

祖父は大変できた人で、吉野杉の銘木を商うかたわら、米穀や燃料の卸小売業を営み、ついには地元の地方議員に選出されるなど、わが家系の中興の祖と言える存在でした。
太い眉が印象的で、「旧ソ連のブレジネフ書記長に似ている」と言ったら苦笑いされた記憶があります。ちなみにその遺伝子、父にも私にも遺伝しております。

当時、私の家族は静岡県・熱海市におりましたので、帰省の折は熱海から新大阪までは新幹線、新大阪からは地下鉄御堂筋線で天王寺へ移動し、あべの橋から近鉄特急で吉野まで行くルートを使っていました。所要時間は6時間以上。
京都乗り換えルートの方が近いのですが、なぜか当時の我が家は専ら新大阪経由だったのです。

その理由のひとつが「近鉄百貨店 阿倍野店(現 あべのハルカス近鉄本店)」で買い物ができたから、かもしれません。

祖父は新大阪に到着した一行をホームまで迎えに出向いてくれた上、吉野山の実家まで同行してくれる中、百貨店での買い物に付き合ってくれるのが恒例でした。
当時の百貨店は今では考えられないほどの面積で玩具フロアが設けられており、見たこともない玩具やミニカーが所せましと売られている、子供にとって、この世の天国のような場所なのでした。

「何が欲しいんや?買うたるぞ」

その時の祖父のセリフほど、頼もしいことはありません。
おもちゃ大好きのお子ちゃまにとって神の言葉にも等しいのです。
それではと、ディスプレイ台の高いところでひときわ輝く赤い大きな箱に収められた鉄道玩具のセットを指さし、せみ時雨がわんわんと鳴く吉野山に、ほくほくと抱えて帰ったのでした。

それが、あの「ボルチモア&オハイオ鉄道」玩具のセットでした。

吉野山の全景

父の実家につくと、広い仏間にさっそく線路を組んで、銀色のオーバルコースを拡げます。
当時、この鉄道が「ボルチモア&オハイオ鉄道」であることがわかりませんでした。母を含め、パッケージの英文を誰も読めなかったのです。
この玩具の販売元はアメリカの玩具メーカーDAKINトーイ。それを日本の下請けが造ることで、外貨獲得に貢献していたのでしょう。
当然箱裏の説明書きは英語ですので、もちろん細かくわかるはずもありませんが、まぁ、子供なりにカンで遊んでしまいます。

今ならナントカ読めます!

いつのまにか、ご近所の小学生が数人でやってきて、私そっちのけで遊びはじめました。

「えらい速いのう」
「へぇー、バックするんや」
「このレバーで止めたりできるやん!」

などなど、お子ちゃまの私にはすぐに理解できなかった機能を即座に読み解き、新たな楽しみ方を見せてくれたのでした。

それから、線路を組み立て、走らせては、セットをばらすルーチンを毎日繰り返しておりましたが、ついに熱海へ戻る日

「長旅で荷物になる」
「また、こっちで遊べばええやん」

と、母親と祖母に説得され、子供ながらにしぶしぶと吉野山に置いてきたのです。

それから数年は休みが巡ってくるたび、吉野山に帰っては鉄道セットで遊ぶ楽しみが残っていたのでした。

が、帰省したある日、気が付くと鉄道セットの影も形もありません。
あわてて祖母に尋ねました。

「あの鉄道セット、どこにあるの?」
「近所の子に欲しいって言われたさかい、あげたんや」
「ええ???楽しみにしてたのに~」
「ええやろ、またサラの買うたるよってに」

そうなのです。祖母の気風の良さはケタ違い。
近所の子供から「欲しい」とねだられれば、たとえ孫の玩具でもホイホイとあげちゃうヒトだったのです。
それまでも、新幹線の模型をはじめ、幾多のオモチャが目の前から消えてしまったことか…

宝物を失ったことは残念でしたが、大好きな祖母のことが決めたことを受け入れ、「おもちゃとしてひとつの役目を終えた」と自分に納得させて、
「もう二度と会えないだろうから忘れよう」と、諦めに似た気持ちもありました。

やがて、私の興味はラジコンカーや無線トランシーバーなど電子系、さらに鉄道系であれば、HOゲージやNゲージなど、より本格的なモノに興味が移っていき、私の中でボルチモア&オハイオ鉄道の玩具はしだいに記憶のかなたに消えていきました。

2024年での再会

そして時間は55年を経て、2024年7月に戻ります。
ネットオークションに出品されたたボルチモア&オハイオ鉄道。
終了間際、固唾を呑んで見守っていました。とても欲しい逸品でしたが、青天井の予算で競り落とすモノでもありません。

なぜなら、それ自体、家族の間では何の役にも立たない、私の「記憶の残像」を手に入れるような買い物として、いささかの気おくれがあったからです。

なので、特に競合もなく、開始金額のままで落札できたことは天祐という他ありませんでした。

ほどなくして、出品者から商品が届きます。
段ボールで外箱を新製し、部品のひとうひとつをエアパッキンで包んである非常に厳重な梱包に圧倒されました。
本体パッケージを保護する梱包箱のつくりが非常に秀逸で、そのまま保管用に使える構造になっています。この出品者はなかなかの手練れでした!

こんな巧みな梱包は初めて

55年前当時の品よりも商品として上位バージョンのようで、箱が横方向に一回り大きく、新たに家畜車とホッパ車が増えています。
車輪がプラで成形されている以外は全てブリキ製。世界に誇る日本のブリキ職人のウデをとくとご覧あれといった風情です。

全車両が高速の大量輸送に適したボギー台車で統一されています。
これだけでもアメリカの国力がわかろうというもの。
ボギー台車
この時代、日本の鉄道輸送は小型の二軸貨車が主流でした。

車両をひとつひとつ検品してみますと、ボディの表面にカビ状の斑点が見られました。放置すると錆を呼びそうです。
車用の液体コンパウンドもありますが、古いブリキ印刷に効果がキツそうなので、タミヤのモデリングワックスで溶かしながら、専用のクロスで一両一両磨き上げてゆきました。

2本の単一電池で駆動するディーゼル機関車も前照灯を点けながら、元気にゴム製の動輪を動かします。出品者から「注油した」とのコメントでしたので機関の作動は順調です。

ただし、この機関車は大きな図体にかかわらず、動輪はたった1軸しか回りません。この1軸で列車全体をけん引する仕様なのです。幸い、搭載する電池の重量が相当効いているようで、引き出しに必要な粘着力は十分に確保できているようです。

メッキがわずかに残るブリキ製のレールを保護するために油磨きをしようかと思いましたが、空転の原因になりそうなので、レールの嵌合部だけにシリコングリスを塗って敷設と撤収の組み立てをラクにする一方で、貨車の軸受け部にシリコンオイルを少量注油して、走行抵抗を減らしてやることにしました。

最後に、パッケージ上箱の四隅が切れていましたので、そこは妻に頼んでボンドにて上手く補修してもらいました。

以上、夕食後にちまちまやっていましたので、到着後ここまで3日を要しています。

こいつ、動くぞ!

さっそく、リビングのフローリングに線路を敷設してゆきます。
線路の先端から突き出した針のようなピンを差し込んで、相手に差し込んで嵌合してゆくのですが、本当に針のようなピンです。

ハメづらいわぁ~

まくら木にあたる部分は一応面取りはしてあると思いますが、プレスされた部材のエッジが鋭く、玩具の安全基準からみたら「危険」なレベルだと思います。
おまけに老眼の私には嵌合部が見ずらいと言ったらありゃしません。
念のため、軽作業用のグローブをつけて作業します。

「いや~、ここはハメづらいね、そっちはキツイわ~、あら外れた」

と、ボヤきながら、ようやく長辺約2mのオーバル線路が完成。
直線部分に信号がしつらえてあって、発進・停止を制御できる機構になっています。

やれやれ、敷設完了
このレバーで発進・停止を制御できるので便利

一両一両、貨車を線路に乗せてゆきますが、無事に車輪が乗っているかどうか良く見えないため、寝転がって作業してゆきます。数両を連結させた状態で軽く押してみたところ、シャーと軽やかに空走しました。

滑らかに転がればOK

「ううむ、これは子供むけオモチャというより、HOゲージのフィーリングに近い」

予想外の感触の良さに、期待が高まります。
電池を機関車に搭載すると重量約500g。編成の先頭に連結する時はHOゲージのD型機関車並みのズッシリとした重量感を感じます。

では、準備整いました。いきますぞ。
機関車側面のスイッチON!

前照灯がアンバー色の光を放ち、「ウィィィン」とうなるディーゼル機関車が力強く、7両の貨車を引き始めます。
けん引される貨車も不自然に揺れることなく「シャー」を音をたてながら、滑らかに追従しています。

出発進行!

レールのジョイント音は聞こえません。
これが鉄道模型だったら、車輪がレールの継ぎ目を越える際、盛大に「カタンコトン」と響いて、それだけで感涙物なのですが、本品は車輪のみがプラ製ということが影響してか、継ぎ目を広めに開けても、さながら中央線快速のようにシャーと走るのみでした。

子供のころからのお気に入りの貨車
詳細な路線図が描かれエキゾチックな雰囲気です
扉もきちんと開きます

オーバル線路を延々とばく進する貨物列車。
鉄道模型と違って加速・減速がありません、電池が続く限り全力疾走です。気が付くとあっという間に目の前を何周もしています。

あぁ、思い出に過ぎなかった景色が55年ぶりの時を経て、遂に帰ってきました。

お盆はボルチモア&オハイオ鉄道に乗って

さて、お盆には祖先の御霊を自宅にお迎えし、お浄土へ送り届ける、精霊馬と精霊牛がお供えされます。地域によっては精霊舟など別の乗り物を用意する風習もあるようです。

前照灯をあかあかと照らしながら、目の前でグルグルと走り続けるボルチモア&オハイオ鉄道の貨物列車。
オーバル線路という輪廻の上で、この世とあの世をせわしなく行ったり来たりしている乗り物のようにも見えます。
ふと、こんな想いがよぎりました。

「この時期、これを眺めていると、ひとつの精霊馬と精霊牛のカタチかもしれないなぁ」

とうに他界した祖父、祖母
九州人らしく熱い生き様をみせた母
ひたすら優しかった妻の両親
ピカピカに磨き上げたボルチモア&オハイオ鉄道で
御霊をお迎えしては、またお見送りする
そして、来年も、再来年も、その次の年も…

そんな景色を瞼の奥で勝手に想像しては
耳の奥でこの曲を奏でながら、お盆の入りを迎えたのでした。

「みなさん長旅お疲れさまでした。
  さぁ、おかえりなさい。
      なつかしい我が家へ。」

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