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桜木花道によろしく⑥

 南城大付属高校の体育館は異常に広い。
 公立高校のそれとは規模が違い、バスケ部にかぎらずバレー部もかなり強いと聞いたことがあるし、他にも何部と何部が全国大会出場とかと書かれた垂れ幕が何枚も校舎から吊り下がっていたので、学校があらゆるスポーツに力を入れているのだろう。
 床に敷き詰められた板の表面を透明な膜が寸分の隙もなく覆い尽くしていて、床全面が強烈な光沢を帯び、板の目の鏡のようで、体育館の上方部分にぐるりと設置された窓から差し込む日光を、真っ白く反射させている。まだ午前中なのでその朝陽がコート深くまで降り注いでいて、天井からの照明は申し訳程度にしか目立っていない。ほのかに、窓のフレームが四角い影を落としている。
 その行き届いたメンテナンスのおかげで、バッシュのグリップは文句のつけようもないほど効きが良い。毎日モップで磨くだけでは絶対に実現できない、素晴らしい環境だ。
 撃たず、今回の大会会場を見渡す。
 オールコート一枚が広いということは、当然その半分の、攻防の主戦場となるハーフコートも広大になるし、三秒ルールの範囲となるペイントエリアも若干異なってくるし、そして一番影響を受けるのはスリーポイントラインだと考えて間違いはない。長い。遠い。うちの体育館の距離から、ゆうに一メートルは遠のいているように感じる。おそらく、全国大会やプロの試合が行われるような国際ルールに則ったサイズであり、闘いの舞台としては申し分ない。
 ウォーミングアップを終え、みんながフリーシュートで試合開始を待っている。
 ルーズボールを拾うとできるだけ周りの二年に渡して、ヘイ、こちらの意志に気付いていないのなら声を掛けて振り向かせてからパスを送り、サポートに徹する。胸の前でボールを構えてこちらを向く一年に、両方の腕で×をつくった。
 ボールが足りているか様子を窺い、たまに遠くから狙う。
 左の零度や四十五度から、トップの位置からも3Pを試した。距離はさして問題ではない。等距離でなければ感覚が乱れるわけでもなく、単純に、瞳に映る視界に合わせて力の微調整をほどこせば済む話だ。苦にはならない。大事なのは、普段と違う環境に惑わされたりせず、終わりなく反復して固めたフォームを再現することなのだ。それを成し遂げるには絶え間ない努力と、長い距離を飛ばすことのできる、全身を使った正しいフォームの習得が必須だ。
 そして撃った瞬間に、当の本人であればこれからボールが歩むのであろう未来は大体予想がつく。
 上昇から落下に転じる直前に、仮の目標を設ける。やたらと遠いリングを闇雲に狙うのではなく、もっと手前に、ロングシュートが成功するための条件を持たせたポイントを思い描く。角度、巾、勢い、それらを満たすようなボールを正確に通過地点に撃ちさえすれば、延長した先にはゴールが確実に待っている。
 ここのコートの感覚は掴めたので、ひそかなアップを終えた。チェストパスの格好をまわりに向けた。二年は誰もボールにあぶれてはいなかったので、おおまかなドリブルをつき、下から帰ってくるボールをミートして、両方の足場を極めた。撃った。
 軌跡上に想定した必ず通るべきスウィートスポットを、理想の角度で、強さで、ど真ん中を、イメージ通りに通過していく。入った。だがリングに嫌われた他のボールに弾かれてしまい、不思議なほど勢いを失って舞い上がると、ローポストで陣取っていた初辺の両手におさまってしまい、無人のディフェンスに向けたワンフェイクの後、バンクショットでリングを通り抜けた。
 ネットから落ちてくるボールを上に向けた掌で受け止め、あたりを見渡し、元の持ち主を捜す初辺から顔を背けた。
 横のほうで、岩沼が3Pを反芻していた。右の四十五度付近から、通常より断然上半身を強張らせつつ、弧が圧しつぶれた平べったい放物線を描いている。うちの学校のラインよりもかなり遠いせいで、無理やり届かせようとゴールに向けて直線で放ってしまっていた。「大輔!」左側から名前を呼び、本人よりも敏感に反応した眼差しを見ないようにして、もう一回叫んだ。「膝、膝。」やっとふりかえった岩沼に、その場でシュートモーションのジェスチャーを二回見せ、乱れたフォームの修正をうながした。「もっとアーチ!」額に皺を寄せ、見せてくる改めたフォームに親指を立てた。肯いた。ちょっと筋力不足か。でもうちのコートの広さに慣れているので、仕方がないのかもしれない。
「今日は出ん?」
 本木が高いドリブルをつきながら、歩いてきた。後ろに加納もいる。
「戻ったばっかだしな。」
 肯きつつ、答えた。
「俺らは出て欲しいんだけど、ほんとにそれでいい?」
 きっと俺「ら」ではないだろう。確証はないけれど、なんとなくそう感じる。
「途中からならいいだら? 第2Qか後半とかからなら。」
 加納が深追いしてきた。
「あー、いや、ベンチで応援するわ。」
 凝視から目を逸らした。
「絶対勝ってよ。」
「わかったー。」
 溜め息みたいに二人が了承した。
 地区大会。一回戦。菊川高校という対戦相手は市外の学校なので情報はなく、まったくの未知数だった。
 この初戦の相手を退ければ今日中にもう一試合を戦うことになり、以降は次の週に持ち越され、俺たちの県では、三回勝てば県大会にコマを進められる。くじ引きで運よく一回戦がシードになれば、二回。たかが、二、三回。言う分には簡単なようだけれど、その道中にはそこかしこで私立が何校も蠢いているし、実力が拮抗している学校も少なくないので思いの外険しい道のりになる。
 緊張するわぁ。ベンチ前でジャージを脱ぎ捨てた本木が誰へともなく、不安気につぶやいた。おん。気のない薬内の返事が聞こえた。昔から飄々としているので外見からでは心情を読み取ることがず、場の雰囲気に飲まれて怖気づいているのか、単に泰然としているのかもわからない。顎が一般の平均より前に出ている加納が彼に近づいていき、手の甲で肩を叩いた。「今日のもうひとりどうする? 楠は出んって。」「芦田。」即答した。その声を耳にすると近くに立っていた二年たちが宙を仰ぎ見、だらだらとばらけていく。大きな声で、加納が復唱した。「は? え? 俺っすか?」指名を受けた一年が驚き、慌てた。直近までレギュラーだった俺への手前、ジャージは自分から脱がずに群れの後ろのほうでおとなしくしていたミニバス時代の後輩が、急いで準備をはじめる。
「休養」から戻って以来、まだ会話はない。
 教室で話した時のまま、昔とはあきらかに態度が違い、まだ壁を感じてかける言葉もなく、こちらから歩み寄る義務があるようにも思えないので、淡々と部活に参加している。「なんで出ん?」岩沼の直球の質問に、うまく答えられなかった。「本番なんだし出りゃいいやん。」「いや、いいや。」言葉少なく、会話を打ち切った。戻ったばかり、というだけで、他に明確な理由は見つけられない。俺は、彼に遠慮したのか。それともお手並み拝見のつもりか。メンバーに乞われ、スタメンとしてコートに立てるのに辞退したのはこの試合で惨敗を喫してもらい、俺の必要性を痛感してもらいたいからなのだろうか、あるいは劣勢の状況で途中出場し、形成を一気に逆転させて、誰にも反論の余地を与えないくらいに活躍して、チームの主導権を再び掌握したいとでも考えているのか。
 まだ落ち着かないらしく、キャプテンがベンチ前を徘徊する。やっべえ、すっげえ緊張する。「えーマジっすか、試合出るのに緊張なんてするぅ?」茶髪の勝気な一年が驚いた。「俺こういうの弱えんだよ。」頼りない表情を浮かべる。でも、前の代から時々一緒にプレイしていたけれど、試合がはじまってしまえば別人のように豹変するから心配はいらない。
 遠くで、掛け声があがった。中腰から起き上がり円陣が解けると、オフィシャルズテーブルを中央に挟んで配置されている両軍のベンチの左側から、対戦相手の五人がコートに出てくる。
 丸く集まり、頂点に差し出された本木の手の甲を底に敷いて、上に掌を積み重ねていく。さらりと確認事項を済ませ、肯き合う。これから出場するメンバー以外はまわりを取り囲み、肩越しに見守って、無表情でいつもの儀式が終わるのを待っている。
 野太く、短い叫びとともに全身で沈み込んだ。呼応し、一斉に腹から気合を吐き出して、掌の塔を押し潰した。散り散りに拡散する。初辺の尻を一年が叩く。本木が自分の心臓を小突く。一瞬の躁を終えると痩せた身体を萎ませて、覇気がないというわけでもないのにうつむき、つまらなさそうな面持ちで指紋を撫でている。
 拍手した。言葉にもならない声を、ひとりきり張り上げた。こういうのはあまり柄でもないのはわかっているけど恥も外聞も捨てて気が触れたつもりになって、まるで見境なく吠えまくった。神輿の担ぎ声みたいなバカ騒ぎをとりあえずくりかえし、場をできるだけ温め、センターサークルへ歩み出していくスタメンを拍手で送り出した。
 
「早い!」
 岩沼が叫んだ。
「早えって!」
 他もつづいた。
 センターサークルで二人が向かい合い、ジャンプボールからの開始早々、相手ディフェンスが陣形を整えようとする最中、遠くから薬内がいきなり狙った。緊張による身体の強張りや密集地での奪い合いの末、誰の手にも落ちず、最初の所有権も明らかになってはいなかった、混乱の隙だった。
 ゴールに正対したトップの位置の、やや左。背中を向けていた8番が味方の声でふりかえり、驚いて、急いで踵を返した。手を挙げた。しかし掲げた万歳は間に合わず、軌道に影響を及ぼすこともまったくできなくて、集中を乱す効果もなかった。
 極端に回転が少ないシュート。
 ボールの黒い轍が、SPALDINGの刻印が、至極怠惰に移り変わっていく。揺らめいているかのように、そよ風に流されていくかのように、もしも背景がなかったら宙で止まっていると錯覚してしまうほど模様の変化に乏しくて、バックスピンだとも規則性があるとも言い難く、到着までの時間をとても永く感じさせるほど、うっすらと回転していく。もっとリリースの時にスナップをさ、もっと意識して指先を強く使えばいいのにと、視線で追いつつ考えた。
 俺が、どちらの結果を望んでいるのかはわからない。
 安堵か。失望か落胆か。無か。歓喜なのか。もしもこのシュートが決まった時、どんな感情が噴き出すのか、自分自身でさえ想像がつかない。チームメイトという立場にふさわしい気持ちであるのかも、自信が持てなかった。
 甲高い音が上がった。
 ベンチが嘆息した。
 リングの根元に直撃し、ボールはあっけらかんと高く跳ね返った。
 バックボードの高さを、はるかに勝る。
「おめえスリーなんか普段練習してねえだろっ! アホか!」
 岩沼が容赦なく罵った。
 それに引きかえ、俺は、そんな乱暴な言葉を投げかけた憶えはない。仲は良かったとは思うけど、たとえ遊びに関してであっても本気でぶつかり合った経験はなかった。小四の頃、一、二発殴り合ったくらいか。原因は忘れた。どうやら高校から一緒になった岩沼のほうが、なんの遠慮もなく友達付き合いできているみたいだ。
 いきなりの急速な展開やでたらめなシュートセレクションのせいで、全員が心をどこかに置き忘れてきてしまったかのようにリバウンドボールを眺めた。影がゴール近くにポジションしていた何人かの頭上を越えていき、誰からも遠く、誰からも近い曖昧な落下に脚が止まった。二回ほど大きく弾み、薬内の元へおさまった。
 こちら側のベンチから、一斉に声が挙がった。
 格好の水を得たように、再びシュートフォームに入っていくチームメイトに野次が飛んだ。
 なのに表情もなく、斜め前にいる相手選手すらも眼中にないみたいに、酷く冷静に見えた。違う世界の住人のようだった。
「先生、これ外れたら薬内交代で。」怒った加納が、オフィシャルズテーブル寄りに掌を太ももの下に敷いて置き物みたいに座っている顧問に、早口で頼んだ。「ん。誰と?」
 さっきとほとんど変わらない、ほぼ同じ位置からだった。攻守の線引きができず、全員が明確な意図もなくハーフコートに混濁している状態だった。
 柔らかく落とした膝から、上半身が下半身によって持ち上げられていくかのように伸びていき、産みだされた膂力が徐々に先端へと伝播していって、腕が、肘が、掌が、最後にボールがすべての力をまとって空中へと飛び出していく。球の端から端まで彫られている黒い曲線が曲線のままで、その間に走った直線もしばらく真っ直ぐなままで留まり、ゆっくりと直線に代わり直線が徐々に湾曲していって、裏から新たな曲線が現れ生きているかのように膨らみの向きが逆に波を打っていき、とたんに動きをやめ、若干ズレて、ボールを構成している八枚の革パネルを区分する線が密集した一端が、ちらりと顔を覗かせた。不格好な回転の仔細に目を凝らした。だからもっとスナップ効かせって。でも、しかしそれでも、別に悪くないシュートフォームに、気持ちが粟立つ。
 外れる。3P、そこは俺の居場所だ。外れろ。
 滝のようだった。高い放物線はリングの内側に当たって鈍い衝突音をあげ、ものすごい速さでネットをすり抜けた。
 静寂。沈黙か。黙殺か感服か。スイッチが切り替わったみたいに、味方のベンチが鎮まり返った。異様に高く、ボールが跳ねあがった。白い網はたった今体内を貫かれた事実に全然気付いていないようで、揺れてもいない。好戦的に前のめりだった何人かが、まるで事切れたかのように、ゆっくりと背もたれに身体を預けだした。腕を組む。居心地悪そうに、大きく、前後に上半身を揺らし出す。振り上げた拳の行き場をそれぞれが失ってしまい、気まずそうに観戦しはじめた。
 チェックを怠ったメンバーが4番に叱られている。
 ミニバスには、伝統の応援方法などなかった。ルール上、第3Qまでに十人以上が出場し、プレイタイムに偏りを出してはならないのでベンチを温める時間は毎試合必ずあったが、誰が始めたかは憶えていないけれど、点が決まったら全員が無言で立ち上がっておんなじガッツポーズを極め、後は自由に騒いでいた。
 急にその記憶が蘇り、遅れてベンチから立ち上がろうとして、途中でやめた。挙げかかった腕も、こっそり降ろした。嫉妬ではない。器が小さいわけではない。単に行動を起こすのが遅かったせいで間が悪かっただけだし、それに結果論として御の字だっただけで、もしも連続して外していれば一気に流れが相手にかたむいてしまう危ない場面だったわけだし、手放しには喜べない諸刃の剣だったからだ。
 2ー2ー1のゾーンプレスは廃止されていた。フロントコートでのスティールは一切狙わず、前衛の二枚のうち、左に本木、後ろの三枚を左から宅間、初辺、薬内が固めて、俺の位置には芦田が入っていた。
 相手の平均身長は高くない。むしろ、うちよりも低いくらいだった。一番高くて初辺の一八〇センチ程度であっても、インサイドではこちらに分があった。向こうもディフェンスはゾーンだけれど、特に一線に対する激しい当たりはない。守備からねじ伏せようとするチームカラーではないらしいし、もしかしたら、広いコートのせいで中が留守になってしまう事態を怖れているのかもしれない。個々のスキルは、キャプテンの4番がまあまあというくらいか。
 本木はキャッチに優れている。派手な運動神経に隠れてしまい、基本的に目立たない、あまり気付かれない地味な能力かもしれないけれど、バスケットボールをする上で重要なスキルであることに疑いはなく、出し手にとってはかなりやりやすい選手のはずだ。それを見越してのことなのかはさだかではないが、右五十度くらいからゴール下に走り込んでいく胸元めがけて、猛烈な勢いのバウンズパスが投げつけられる。反射角の先が、本木と交わる。音もなく、両掌におさまった。ワンドリブル。球の速さの目測を誤って、パサーに背を向けるかたちで右手を伸ばしカットに飛び出していたディフェンスを右から切り裂いた。ウィークサイドに侵入した。ディレイし、もう一つ。二つ! 一旦速度を落としてから急激にギアを上げ、カバーをも左後に置き去りにした。そのままリング下を走り抜けていき、背後のボードを若干首をかしげて見上げつつ、柔軟なレイバックシュートを軽やかに決めた。
 華々しい本木の個人技による得点というよりも、精度の高いパスがあのタイミングで出た時点で勝負はついていた。それなのに喜ぶ様子もなく、ディフェンスにもどっていく。
 オーソドックスなチェストパスはもちろんのこと、ワンハンドパスも正確にこなす。味方のこれからの動きや意図を見抜いた上で、欲しい所に点で合わせている。知らないうちにラテラルパスも習得していて、右手の、手首のスナップだけでも強く繰り出せる。その利き腕だけで右に左に、真後ろにも、身体の向きを変えないままほぼ全方位的にボールを散らすことができている。それは、とても得難い、俺には真似できない才能だった。
 そして流動している。右フォワードに留まらず、必要な場所に、オフェンスの基本である三角形の一点になるべく、自ら構成するべく、コート中を走りまわっている。ボールを散らして、デイフェンスを揺さぶっている。
 新鮮だった。活動している部活からしばらく退き、本当なら出場していてもおかしくない公式戦を観戦者の視点で眺めていると、個々の優れている部分や改善すべき欠点が、全体で目指すべき道標までもが、手に取るように視えてきた。一員として試合に臨んでいる時とはまったく違った風景が、明確に拓がっていた。
 休んだ理由は違うのに、休んだ収穫は間違いなくあった。
 けど別段、劇的に上達しているわけではない。三ヶ月くらいの短期間に別人のごとく急成長するだなんて、断じてこの俺が赦さない、他の誰が認めようとも絶対に俺が通さない。事実、まだボールハンドリングは拙く、特に左ドリブルが危なっかしいのは変わっていない。進歩はない。しかし、意欲か。戦意だ。血の気だ。自らが得点できるかではなく、その成功率の高低ではなく、第一に、真っ先にゴールへ攻め入ろうとする選択肢を持つことができるようになったおかげで、球回しが醸し出す意味合いが違っていた。とりわけ、ドリブルを多く必要としないゴール下でのオフェンスには目を見張るものがある。
 失敗を怖がっているみたいにいつも自信なさそうにプレイし、大切なボールを持っているのに手もとからも注意を怠って、キョロキョロとまわりを見渡していた。マッチアップしてきた選手とは直接勝負しようともせず、最初から出しどころを探していた。
 中学時代、パスに逃げていた薬内が積極的な一対一の姿勢を手に入れたおかげで、攻めを恐れなくなったおかげで、パスが逃げではなくゲームメイクに変貌していた。
 岩沼から聴いていた分析以上だった。たった一言で、ボール回しが他よりも上手いという範疇におさまる話ではなかった。部員の何人がこの事実を頭で理解できているのかわからないし、本人ですらまだこの才能を自覚していないのかもしれないが、明らかに、否応なく、軌跡で蜘蛛の巣を描くようなパスワークでリーダーシップを執り、チームを掌握していた。
 とっさに掌を開いては拳を握り、手が温まっているか確かめた。芯から冷えていた。余裕をかまして傍観していた自分を叱責し、かじかんだ両手を擦り合わせて少しでも血の巡りを促進させようとした。
 股の間で手首のスナップを幾度となくくりかえした。それでもまだ状態は全然良くならず、右の掌を左脇に、反対の掌を右脇にはさんで、感覚の調子を整えようとした。背中を丸め、パイプ椅子の下にキープしてあるお気に入りのボールを覗き込んだ。はやる気持ちを抑え込むかのように、胴を抱きしめた。
 居ても立っても居られなくなった。やけに身体が震えた。でもこれは寒さではなく、もちろん怖気づいているわけでも絶対になくて、貧乏ゆすりでもないはずだ。
 短い間にボールの居所が目まぐるしく移転し、相手の守備が混乱した。来とるぞ。一瞬役割を見失った選手に4番から声が掛かった。おい! 来る! 油断を突く。右ドリブルから、チェンジする。大きく広げた左腕のみでボールを掴んだままディフェンスの隙間に肩をねじこんで、ルール上赦された、助走の二歩を踏み出していき、跳んだ。鳴った。だが切り込んだ位置が悪く、身体がリングの真下に潜り込んでしまったので、狙う角度がない。
 左で構えていたボールを宙で右手に持ち替えた。胸の前で大きく揺り返させて、斜め右上に伸ばしきった腕の先からほんのりとボールを送り出した。ああ。味方から声が洩れた。透明なバックボードに白い太線で引かれた四角形の右横に、ボールの行き先が大きく外れていた。回転か? 斜めに跳ね返る余地もなく掌から真上に打ち上げられてボードに当たったのに、普通ならありえない方向へ鋭利に反射して勢いを格段に増し、ネットの横っ面に突き刺さった。カウントワンスロー。
「ヤクさんナイシュ。」
 感情を表に出されない薬内の元に、四人が集まっていく。
「めっちゃ調子いいやん。薬内。」
 一人の前に四枚の掌が連なり出し、わずかな躊躇の後、両手を駆使して、やっつけ仕事のように乾いた音を立てていった。他のメンバー同士にも、自然とハイタッチが産まれていった。
 審判がボールを抱え、フリースローサークルの横に立った。束の間の停戦が終わり、フリースローラインの端々に直交した二本の長辺に沿って両軍の選手たちが、黙々と並び出す。交錯し、お見合いして、身をかわし合い、目的地へ歩いていく。
 ゴール側からディフェンス、オフェンス、ディフェンスと三人が横一列に構えて、それが左右に二組できた。シューターの掌からボールが離れた瞬間に、リバウンドのポジション争いがはじまる。それなのに引き気味で、案外控え目で、寄せてくるスクリーンアウトをかいくぐろうともせず跳ね返りによっては棚ボタを拾えるかくらいに一歩下がり、最初から深追いもしないで、センター二人が自陣に身を引いていく。リングの内側をかすめ、不格好に決まった。
 次第に、突き放していく。個人の差もさることながら、五人のタイプの違いを総合した曖昧に伸縮しやすいチーム力という領域が、歴然としていた。
 一箇所で止まらないボールは、とりわけ内と外で出し入れされるパスは、非常に守りづらい。絶え間ない攪拌がいずれ対応の遅れを生じさせてほころびとなり、予期せぬノーマークを産んでしまう。まずは一対一を挑むという姿勢が、その下支えとなっている。
 空いてる、左の零度。
 攻撃がインサイドに偏ったせいで中に硬く締まったゾーンの、必ず狙うべき盲点だ。
 本物の3Pシューターだけが勘付く相手の弱点だ。付け焼刃の3Pシューターでは察知できない、常に大局を見通している者だけが所有する鳥の視点だ。戦況を冷静に分析したうえで3Pを選択できるのが、純然たる本物の3Pシューターの証しだ。
 アウトサイドを意識させる、格好の飛び道具だ。
 芦田は、長いのはそれほど得意とはしていない。要所でそれを沈められれば今度はゴール近くでの攻撃が、一層容易になる。固まれず、広がる。ディフェンスの密度が薄まった内側が、今度は攻めやすくなる。ボールを走らせれば、ひとの動きは簡単に置き去りにできる。
 そうだ、岩を粉砕する一撃だ。柔らかいのに残酷な、誰も阻めない一発の爆撃だ。
 閉ざされた門をたやすく開け放つ、唯一の鍵だ。太い閂でさえへし折ってしまう、破城槌だ。二度と閉ざすことのできない、鋭い楔だ。トロイア城の前に置き捨てられた、隠密で内部に忍び込んで無残に壊滅させてしまう木馬の戦士だ。屋島の戦いで那須与一が射った、一筋の矢だ。傘を無理やり開かせてしまう、冷たい雨だ。従っていれば楽で心地よいかりそめの秩序に一石を投じる、異端だ。散り散りに拡散させる、不協和音だ。ムクドリの大群の一糸乱れぬ乱舞に変調をもたらす、逃げ惑わせる、猛禽類の襲来だ。いずれ大決壊を引き起こさせる、ダムに走ったかすかなヒビだ。石造アーチのキーストーンを打ち砕く、崩落の火蓋だ。煩わしく、度々不快な痛みに悩まされる、片時も忘れることのできない、血が滲んだ生傷だ。心理の底に植え付ける、懸念の種だ。狂喜する便りを、あるいはがっくりと肩を落としてしまう悪い報せをポストに届ける、無慈悲な配達員だ。言葉巧みに丸裸にしてしまう、名うてのプレイボーイだ。厚手のコートをあっさりと脱がしてしまう、燦々と照りつける灼熱の太陽だ、返す刀でとたんに着させて襟まで立てさせてしまう、凍えるほどの北風だ。一発必中で敵を仕留めてしまう、凄腕のスナイパーだ。……貝柱を両断してしまう、一太刀だ。ディフェンスをだらしなく膨張させてしまう、……ベーキングパウダーだ。
 緩慢にスペースを広げざるを得なくさせる、新たな武器だ。
 視線で追わなくても、感覚に沁みついている。たとえコートのサイズが普段と異なっていても視界のどこかにちらつく半円から無意識のうちに導き出せる、俺の領域だ。来い。見逃すはずがない。手加減もないスピードボールを、その場でミートして受け入れる。向かってくるボールを、自ら招き入れる。つま先立ち程度の高さからのささやかな着地が済めば、フォームの土台はすでに出来上がっている。意識の底、条件反射のレベルにまで肉体に叩き込んだ、3Pシューターの習性だ。
 コートの硬さ。
 ソールを引き留める、表面の抵抗。
 指先。
 指の腹。
 へこんだ縫い目。
 細かい、革のシボ。
 今まで無限に味わってきた感触を頭の片隅で確かに感じながら、性急に、丁重に、右の掌をするどく返す。手前の、何もない空間に想い描いたスウィートスポットを的確に通過する。
 曲げた膝で、落とした腰で身体全部で、革の球をリングへと優しく送り届ける。
 優雅に、絶望させる。
 そうだ、最初は無回転だ。
 高校生になって薬内にそう教えられるまで、自分でも気づいていなかった、俺だけの、俺にしか体現できない、唯一無二のスリーポイントの特徴だ。
 まるでむずがっているかのように、はたまた爆発の予兆かのように、なんだか世の中すべての事象に無関心かのように、回転もなく弧を描いていくボールが、急速に渦巻きはじめる。
 無骨な表面が融けはじめる。
 
 左サイドから八人を眺めた。
 あてもなく、手持無沙汰にただ立ち尽くしていたと表現したほうが適切かもしれない。待っていても味方の誰とも目が合わないから液晶画面でのんきに動画を観ているような異世界に思えたし、透明人間になってしまったかのような空恐ろしさを感じたし、夢から醒めたばかりように呆けた気分に包まれた。ディフェンスに気取られたくなかったから極力我慢していたのに、さすがに辛抱できなくなって両手を挙げ、大げさにアピールした。
 敵の一枚が、ボールを持った一線と俺とが視界に入るポジションで、ひとりきり気遣ってくれている。その特別扱いを裏切りたくないというわけではないけれど、怠けることなく味方が攻め込む状況によって零度や四十五度に居場所を変え、大きく手を挙げた。単にパスを中に入れるにしても逆サイドからを時折混ぜるだけで相手は守りにくくなるのに、それでも立場が好転しないから、頭上に漂う空の空気を二本の腕で背後に向けて幾度となく扇いだ。その度に、ディフェンスの一枚が若干距離を詰めてくる。
 マンツーマンであっても、一人に一人が常に身体を密着させて守るわけではない。今の場合なら、ボールを持った選手とマッチアップしている相手の姿がどちらも視界に入るように、あえてやや離れたポジションに立つ。失点を防ぐため、一線、二線、三線と状況に応じて役割を換え、常にカバーを念頭に置かなければならない。
 単なる縦線と化したバックボードにリングが直交する、左零度で待った。俺は、シュートモーションは遅くない。万が一伸びてきた掌が視界にちらつこうとも、ルーティンを乱すようなヘマは犯さない。もしもブロックショットの餌食になりかねないようなタイミングの場合なら、違う展開に移行できる。インサイドへペネトレイト。もしくは他を活かすパスワーク。俺にでもできる、いつでも狙える。
 右の、ローポストを見る。そこからでも、ここにパスを出せるだろうが、今のお前なら。
 ハイポストからの、本木のジャンプシュートを眺めた。
 近頃、やけに確率が高い。
 右サイド。フリースローラインの端で、攻撃の起点がボールをまた持った。外へ開く。欲しい。撃ちたい。すぐさま、3Pを警戒するマークがべったりとまとわりついてくる。初辺、スクリーンアウトでデイフェンスから解放してくれ。肉体の壁でマンツーマンを引っ掛けてもらうため、ゴール下へ方向を転換した。けれど太目な後輩は、薬内だけを見つめていた。
 最近の練習を見ていると初辺も宅間も、中でどんどん脚を使って横の勝負に持ち込みセンターとの身長差を補い出している薬内に触発されて、攻撃の意識が高まってきている。確かに同サイドのサウスポーが二枚くらい引き連れて大暴れできるようになってくれれば、外からの重要性も比例する。相乗効果だ。
 逆サイドはフォワードが一対一に固執するあまり、宅間がボールに触れられない時がままある。気持ちが空回りしてしまい連携が産まれず、センター一枚が機能不全に陥る場合が少なくない。けど俺は違う。こちら側には当てはまらない。より簡易的に守備を崩し、効率的に得点をあげ、いくらでもお互いを高め合うプレイを創造できる。
 甘く見るな。いかに警戒していても、一枚くらいなら対応可能だ。ディフェンスを睨んだ。その視線を逸らさずエンドラインまで走って下がり、上がるフェイントを数歩見せ、さらに深く沈んで逆サイドまでポジションチェンジする素振りからボールとの間に絶えず挟まってくる相手の身体を軸にUターンし、前を取って、一気に四十五度まで急浮上する。マークを剥がした。片時、置き去りにした。
 いいよ、くれ。
「ナイスパス。ヤクさん。」
 急いで自陣へもどっていく初辺の、誇らしげな声が聞こえた。
「おん。」
 蚊帳の外だった。有機的に、四人がひとつの生き物かのように連動する中、まるで異物のように取り残されていた。
 俺は案山子か、木偶の棒か。
 遅い脚と、目が合った。
「楠さんディフェンス! すぐ切り替え!」
「うるっせえ! てめえ誰に指図してると思ってんだよっ!」
 反射的に口を衝いて出た。
 す、「すいません。」視界を左から右へ駆け抜けていく速さがとたんに弛まり、突如恐縮しきった面持ちになり下がる後輩から、自分が情けなくて顔を背けた。荒げた声にふりかえった眼差しからも、逃げ出した。
 四月には、一年が入学してくる。
 いつの間にか、スタメンに復帰してからの、最初で最後の大会がもうすぐそこまで迫っていた。
 春の大会。負ければ、そこで引退。終われば、金輪際ここまで突き詰めてスポーツをする機会はおそらくなくなるであろう試合、闘い、勝負の場。それなのに、バスケをはじめて以来、ずっと自由にプレイできていたコートの上で戸惑った。今まで担ってきた役割が役割ではなくなり、イメージ通りに果たせてもらえなくなり、それどころか居場所さえ失ってしまって、いつ、どこで何をすればいいのかわからず苦しんだ。
 今まで以上に試合の刻々に注意を払い、考えて、ツギハギをつなぎ合わせるようなプレイに身を削った。
 薬内は、今でもドリブルが苦手だ。利き腕の右はまだしも左は目も当てられないレベルだし、ターンオーバーも常に多いしゴール下以外のシュートの確率も低いし、だからマグレでも起こらないかぎりリングから離れれば離れるほどパスしか選択肢がなくなってしまうという、実は対応しやすいタイプだ。さらにスピードに優れているわけでも当たりに強いというわけでもないし、ジャンプ力に秀でている選手でもない。多分、同年代の平均くらい。
 リバウンドの行方に注視しながら、こっそりとセンターライン近くにまで上がり出した本木を右目の端で確認した。けれども、手が長い。さらにそれだけでなく、自分の最高到達地点でボールを受けるセンスを持ち合わせている。それは垂直跳びの記録だけでは測れない、現れない、重要な、そして練習では身に付けることができない、先天的な才能の一つだ。
 真っ直ぐな腕が頭上に乱立する。高低があり、抜きんでる。二つの掌の間におさまった茶色い円が真下に引き寄せられ、7の背番号の裏へ消えていった。
 ライン際まで広がりつつ、敵陣を一瞥して、二点を結べそうな場所へと急いだ。着地と同時に、サイドに向けてピボットを踏んだ。鋭角に張り出した両肘の真ん中で保持されているボールが現れた。今一度、フロントコートを横見した。戻る。間に合う。そして、脚の速さでは間に合わない。二個の掌を胸前に添える。
 なあ。
 聞こえなかったのか?
 目は合ったのに。
「ヘイ!」
 もう一回、ありったけの声を張り上げた。
 前! 「前!」
 案の定、マイボールと同時に速攻に走った前線の一人も、再三要求する。戻る。戻る。壁になる。コースを塞ぐ。直線の最短コースは難しい。だからサイドに散らして、手間でもボールを一旦迂回させて、あとは俺が前に送るだけで簡単に2点上乗せできる場面だった。
「楠さんが空いてる!」
「そういうの持ち込んじゃいかん!」
「おい! ヤクゥ! サイドに振れやっ!」
 いろんな声色が混ざり合った。意図が共有できていてうれしいのに、いじめられっ子がかばってもらっている感じがして、恥ずかしい。
 すでにペイントエリアの手前で、本木が足を止めている。ディフェンスも追いつき、絶好の、速攻のチャンスは潰えた。
 次が、県大会への最後の挑戦だ。一戦一戦の練習試合の中で、チームを熟成させていかなければならない。高みに登りたい、昔のような景色が、また見てみたい。予選を勝ち上がってきたチームだけが持つ、独特の貫禄や沈着、これまで打ち負かしてきた学校の数だけ付着した、鈍く輝いているような重みを感じたい。
 掛け値なしに強いチームを相手に自分自身のプレイをぶつけたい。
 3Pを喰らわし、私立だろうが全国出場の実績がある名門だろうが自慢のディフェンスをきりきり舞いさせて、吠え面をかかせてやりたい。俺の存在を知らしめたい、瞼に焼きつけさせたい、常勝軍団の記憶に刻み込んでやりたい。一対一でなら、誰とでも戦える。
だからこそ、地区大会を突破したい。
「おい楠ぃ! バスケは独りでやるもんじゃねえぞぉ。」兜城中に大敗した後、たまたま大会を観に来ていたミニバスの先生が、通りがかりに俺を叱った。当時は素直に承服できず、改める気も起きなかった。お世話になったし信頼もしている恩師の意見であっても、正直言って内情を何も知らない人間の空論としてしか聞こえなかったし、むしろ最善を尽くしている自分のほうが非難されるという理不尽さに苛立ちを覚えたくらいだった。別に驕っていたわけではない。まだまだ自我をコントロールできる境地には早すぎたし、合理的に賢く考えられるほどの年齢でもなかった。
 役割を果たすため、帰ってきた。チームに絶対必要不可欠な駒だと確信しているからこそ、戻ってきた。
 貴重な経験がある。裏打ちがある。部員の中で一番バスケに精通していて、考察できている。
 熟知している。
 外に開く。右側に偏りすぎ、歪みきった陣形に均整をもたらすべく、コートを一杯までまんべんなく使う。マークは留守だ。大きくサイドチェンジしてくれるだけで、劇的な揺さぶりをかけることができる。
 右の五十度付近の本木に片手をあげ、存在を報せる。手首で招く。一度つながった視線が、俺からちぎれていく。
 狭い空間に飛び込んでいく7の背中を、目で追った。
 あっけなくこちら側を放棄したチェストパスの向きで狙いを悟り、早々と腕を下げてガラ空きのアウトサイドを歩きながら、深く溜め息をついた。足許のスリーポイントラインを見下ろして、わずかにもバッシュで踏み込んでいない研ぎ澄まされた感覚に、慰めてもらう。
 ボードに正対してはおらず、リングを斜め左に置いて、急激に立ち止まって軸足を極めた。眼の先をディフェンダーがすばやくカバーで近づき、当然、最優先で守るべき直線上はデカいのが胸を寄せていって、ハンズアップする。ボールと顎を、メリハリよく突き上げる。盛大に跳んだ、センターが。
 一回りほど薬内よりも背が高い彼は釣られてしまった現状に観念し、空中に浮いた全身を弛緩させ、着地までの、再び戦力として復帰できるまでの、とても短いのにとてつもなく永い空中遊泳時間を持て余している。一個、前にドリブルで出る。ゴールに向き合う。次が来る。シュート、しない。もう一枚の、薬内の右横に高く立ちはだかってブロックショットのタイミングを合わせにきたカバーの腰も、軽くなった。右脚を一歩奥へとステップインさせて、二人を翻弄した末に、低い位置からのレイアップシュートを流し込んだ。
 俺はオフェンスをさらに進化させる必然の要素だからこそ、俺がここに立っている。


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