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消失点②

 つまんで、左右に揺らす。頭は精密なガラス細工のようにいさぎよく折れるのに、引き締まった腹は多少粘っこく身にしがみつく。乾燥した肉や骨はとても脆いようで、生き物に備わっている生命の膂力をまだ感じさせる。水分を失った皮が砕けて、指の腹に粉が付く。茹でて干した煮干しの頭をもぎ、ペチャンコに、薄く乾いたはらわたをちぎり取る。面倒だが、このひと手間が味に大きく影響を及ぼすのだ。
 身の部分は鍋に集め、苦みやえぐみの原因となる部位は元の袋にもどしていく。棄てはしない。これはこれで、晩酌のアテにする。もし物足りなかったらすこしだけ塩をまぶせば、苦みとあいまって、安い酒でも格段に旨くなるのだ。節約は必須なのだから一石二鳥の合理的な一品だと納得しているし、込み入った調理の必要もないので、なるたけ横着したい私には打ってつけの肴だと理解している。
 ひとつ、口に放り込んだ。水分を飛ばした内臓が、奥歯に心地よい抵抗を与える。あとひとつ、あとひとつと、癖になってしまって止まらず掌を伸ばし、今度は頭の部分の硬い食感を愉しんで、食べながら作業を続けた。
 始めてから結構な量をこなしたはずなのに、テーブルに敷いた新聞紙の上で山となり順番を待っている小魚たちを見ると、溜め息が洩れた。
 週に一度、味噌汁の下ごしらえをまとめてやる。味が良くないのかあまり気に入ってもらえていないみたいだから、来週は鰹節でも出汁をとってみようかと考え、昆布のほうがもしかしたら合うのだろうかとも悩み、どれかふたつを混ぜる案も閃き、となるとお互いが引き立つ量の塩梅があるのかもしれないと予想して、でも明確な答えは出ず、方針も立たず、こういう支度にまったく関わらず生きてきてしまったことを情けなく思った。何回つくってみても、彼女の味からは程遠かった。使っている食材にたいして違いはないはずなのにどこかひと味もの足りないように感じて、あれこれと試している最中だった。胴体だけになった、光沢のある乾物を眺めた。頭と腹を失った魚体は緩やかに波を打ち、その曲線はとても自然で、濃紺の背と腹の銀色が妙にうつくしかった。
 ステンレスのボールにポットの湯が粗く流れ落ち、あぶくを立てる。黄金色をしている油揚げを菜箸で泳がせると、滲み出た油で水面がうっすら歪んで見えた。
 出汁に味噌を溶かし、いまだ不揃いにしか切れない豆腐を茶色い表面に落として、代わりに跳ね上がった汁で熱い思いをする。
「今日は豆腐とお揚げさんだ。すまんね、絹ごしだからえらく崩れてしまったよ。」
 枕元に置いた。忘れてきた箸を取りに、台所に引き返す。
「食欲ないかもしれないけど、無理でも食べないと。」
 自分の肩越しに叫んだ。紅の漆が塗られた箸はところどころ木地が露わになり、ツギハギだらけのみすぼらしいボロ服みたいで様にならない。
 布団を直してやる。お盆に載っている白米や味噌汁から、か細い湯気が立ちのぼる。「今回の卵焼きは絶妙の焼き加減だと思うんだ。だいぶわかってきたね、コツが。ほら、焼き過ぎもイヤだけど火が通ってないのも生臭い感じがして好きじゃないって云ってたろ、おまえ。」
 筋が悪いらしく腕前の向上は普通とくらべてとても鈍足だし、だから若干の上達だったけれど、褒めてもらいたかった。
「食べたら、食器はそのままでかまわないよ。帰ったら私が洗うから。全然気にしないでいいから。早く良くなることに専念しなさい。」
「うん、いくつか注文をいただいたからね。ちょっと届けてくるよ。」
 見つめ、準備のため部屋を出た。
 四六時中着ているジャージを脱ぎ、居間のソファに放ると小便なのか体臭なのか、獣のような臭いが鼻をついた。そろそろ洗濯しようか迷い、だが乾くまでの間着ているものもないし、誰かを不愉快にさせるわけでもないので、もうしばらくお付き合い願うことに決めた。いまいちかさぶたになりきらない腕のおできに絆創膏を貼った。下着といっしょくたに、畳みもせずそのへんに山積みしてある洋服を一枚一枚拾い上げる。さして種類もなく、そもそも流行に頓着しない私に着こなしの種類など皆無に等しかった。
 以前妻に買ってもらったポロシャツをひろげて、床に寝かせ、裾にベージュのチノパンをそろえてみた。可もなく不可もなく、率直に云えば、良し悪しの区別もできなかった。
 中身の詰まっていないペチャンコなその人型を飽きもせずずっと見下ろして、始終開けっ放しにしている寝室のドアの上枠に引っ掛けてあるハンガーに吊るした、羽織っていく予定の青いブルゾンと見比べつつ思案し、だが判断はつかず、他の着こなしが思いつくわけでもなくて、ちょっと母さん、と思わず助けを求めそうになってしまい口をつぐんだ。結局、先日の外出と変わらない組み合わせに服装は落ち着いた。

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