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昭和20年代のおはなし

 昭和16年生まれの母から、中山道の近くの生家での幼少期の思い出話を聞いた。
今まで聞いた事のない話が珍しかったので、noteしてみる。
(※一部現代には不適切な言葉がありますことをご容赦ください。)
 路地の向かい側の家のおじさんは昔、活弁士をやっていて、その家は、周りの人から『弁士んち』と呼ばれていた。
さて、その『弁士んち』には娘が数人いたが、仕事はパンパンだった。そして、その家族はみんなヒロポン中毒で、いつも激しい喧嘩をしていた。母はその様子を兄達と一緒に庭からしょっちゅう見物していたそうだ。喧嘩の様子があまりに激しくて怖かったのを子供心によく覚えているという。
母は思い出話として、記憶の一つをサラリと語ってくれただけなのだが、正直結構インパクトを受けた。
ヒロポンと言う単語は、太宰治ら当時の小説家を取り巻く言葉でしか知らなかったので、民間に普通に出回っていた事実に驚いた(苦笑)
パンパンという単語も、ドラマや映画の中でしか聞いたことがなかった。母の幼少期にはは日常の中に存在したのだ。
パンパンにしてもヒロポン中毒にしても、昭和の戦争の時代の犠牲者とも言える。そして、それは世界の色んな場所で、現代でも存在し続けているんだよね。うむ。

さらに歴史を遡ると、それよりも遥か前の大正時代には、母の生家のあった中山道の地域には女郎さんの置き屋が何軒もあったそうだ。宿場町の宿命なのか。
母の実家は料理屋だったので、どじょうの柳川などを置き屋さんによく配達していたらしい。
現代の私達からすると公娼制度に対しては、なんとも言えない気分がする。しかし、一方そのお陰で母の実家ような飲食の商売はその時代潤っていた訳だ。生きていく為の存在の一部だったと思えば、良い悪いと簡単には言えない気がする。
 母が元気なうちに、宿場町の昔話をいろいろな聞いておこうと思った。

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