ありがたい存在
少し前に帰省した。
コロナ禍のご時世などもあって実に約4年ぶりだった。
ふるさとから離れた場所に生活拠点を置いて10年ともなると、実家に帰っているにも関わらず非日常に浸れているのが、ふと不思議に感じるものである。
幾人かの親しい友人にも再会できた。
どの友人に会っても、数年ぶりだというのに互いの近況そこそこに、くだらない話にも話が咲き、まるで毎日顔を合わせていた学生時代とそう変わらない空気感がとても心地良い時間だった。
思えば、そう親しくない間柄の人間と会うときほど、「今、なにしててどこにいる」的な個人情報を、互いに訊き合わざるを得ない場合が多い気がする。
例えば、10年ごとに開かれるような中学や高校の同窓会などがそうだろう。
10年もしくはそれ以上のブランクがある相手だからこそ、そうなるのも仕方ない。
しかし、それなりにブランクができたとしても、会えば途端に変な気兼ねなく「あの頃のような空気感」で話しあえることが、互いを友人と思える条件のひとつかもしれない。
日々の雑多なことなどにかまけて、コンフォートゾーンから抜け出せないでいる生活を10年も過ごしてしまっているという、何となく胸を張って自分の近況を報告できないという体たらくな今の私にとっては、何というか、そのような友人たちの存在に、とても救われた気持ちだ。
もちろん、バカ話のあいだでもさりげなく、社会の中で各々の立場で頑張っていて、私には眩しく見える友人たちひとりひとりにも、人知れず苦労していることが垣間見られたりもした。
考えてみれば当然のことである。
隣の芝生なんて実はないものだ。
「二隻の舟」という中島みゆきの歌がある。
歌のテーマ自体はかなりの重さで、ここで引き合いに出すには大分おこがましい気もするが、大海のどこかでそれぞれの航路を進んでいるのを思うことが互いの心の支えになっている様を描いているこの歌詞は、離れて暮らす大切な人々のことを重ねながら聴くとさらに沁みるものがある。
家族や友人たちといった大切な人たちとの久々の再会に、柄にもないことをちょっと真剣に考えた今回の帰省であった。
ちなみに私の母は、「同窓会なんて自慢話しかしない場所なんだから無理に行かないでよろしい」という考えの持ち主である。
そういうことであれば右に同じ、な、娘である。