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インスピレーションのコミュニティ(2/4)

 筆者は大学を卒業してから、ロシア民謡を人に教え伝える機会があった。大学時代にロシア民謡のサークルにいたので、数々の曲を原語のロシア語でも歌えた。幾つかの曲は原語の歌詞を完全に諳んじられた。しかし普通の人々にとっては、ロシア民謡など、ただ何となく知っているものにすぎない。ロシア民謡を十分に意味のある程度まで理解してもらえるようにするためにはどうすればよいか、ということをまず考えなければならなかった。

 たいがいの人は『カチューシャ』や『カリンカ』、『トロイカ』のような歌のメロディぐらいなら知っているので、それらと比較的メジャーな新曲をいくつか教えて、できればロシア語で(日本語的な発音でも良いから)歌って、それで終わりにしてしまえば、一応目的は果たしたことになるだろう。しかしそれだけでは何か物足りないような気がする。

 日本語のものにせよロシア語のものにせよ、歌詞を習得するのはまず歌を覚えるうえでの初歩であると思うが、しろうとの人にとってはそれがすぐには容易ではないだけに、歌詞の字面にばかり注意をとられてしまい、それでかえって、歌の発展的な理解の障害になっている面がある。このことは大学時代のロシア民謡サークルでやっていた時からも、しばしば感じていたことではあった。

 新入部員たちにロシア民謡を教えたのち、彼女たちが曲を歌い慣れてきても、いざ斉唱してもらってみると、お決まりの演目の繰り返しといったふうで、皆の反応は無味乾燥とはいわないまでも、どうも平板で表情が感じられない。これでは勿体ないと思う。私は、単なる知識としてではなく、歌う都度に歌うこと自体にある楽しみを理解することを通してロシア民謡に親しんでもらいたかったのだ。

 一般的に、歌を聴く者、とりわけ音楽にうるさくない寛容な聴き手ならば、曲が内部に抱え持つ核となるイメージを、ある程度理想的な表現手法を以て味わうことができさえすれば、その歌がテープやCDのように毎回とも均質に再現されるような場合でも、満足して曲につき合っていられるかも知れない。

 しかし私がイメージしているのは、知識の再現としての歌いではなく、何か感情的で、歌い手も聴き手も心が高揚するような歌いである。たとえばライブ的な発表での場合、ビジュアルに歌い手と対面する聴き手を満たすには、歌い手が楽しく歌っている(少なくともそう見える)表情が不可欠だろう。また歌い手の立場から言えば、自分自身のオリジナルでない既製の曲でもって、歌うことの喜びを体験するためには、自分自身が様々な工夫をこらして、そこに芸術的な関与をする(たとえばソロ歌唱や、間奏中に歌手がコサックダンスを踊ってみせるパフォーマンスなど)ことが必要となってくるのだし、それが自然に求められるのが、ライブ演出というものの個性だろう。

 人間が歌う以上は、その曲も、その歌唱も、その歌手の個性(キャラクター)も、その歌に伴うパフォーマンスも、互いに切り離せないものなのである。これは、人間の感情を明快に唄うロシア民謡なら尚のこと当てはまると思う。

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