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プリパラは世界を救う ―消極的な私たちと挑戦しなければならない世界の狭間で―

世界を『プリパラ』のようにすることが、「AIに仕事を奪われる」と言われるこれからの社会を最も豊かにする方法だ。

・・・・・・何を言っているんだと思われる方もいるだろう。
『プリパラ』とは、女児向けアニメである。
だが同時に、これからの時代をどう生きるか、そしてどんな社会を作っていけば良いかを考える上で、最も重要なヒントを与えてくれる教科書のような存在である。
冗談のように聞こえるかもしれないが、僕は本気でそう思っている。

み〜んなトモダチ!み〜んなアイドル!

そもそも、「プリパラのような世界」とはどのような世界なのか。未見の方にもわかるよう説明したい。
プリパラはいわゆるアイドルアニメである。「プリパラ」とはディズニーランドのようなテーマパークのことを指し、そこではすべての女の子がアイドルになれる。ステージに上がる前の基準や審査といったものは無く、まさしく誰でも脚光を浴びる機会を得られるのだ。

つまり、アイドルになる為に必要なのは「好きという気持ち」のみであり、努力や才能といったものは(不要というわけではないが)必須ではないのだ。
プリパラを象徴するセリフに、「み〜んなトモダチ!み〜んなアイドル!」が挙げられる。プリパラにいる女の子たちは誰もがアイドルであり、同時にアイドルを応援するファンなのだ。

多様性とツッコミ不在の世界

プリパラ批評する際、真っ先に挙げられるのが「多様性」の観点からの評価だ。特に石岡良治さんの指摘が参考になる。​

プリパラは「すべての女の子がアイドルになれる」と謳われている。この「すべての女の子」という点がポイントで、その中には一般的なアイドルアニメでは弾かれてしまう「ぽっちゃり(体型)」「ママ・先生(年齢)」「男の娘(性別)」も問題なく当てはまる。

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また、そうした外見的な多様性に留まらず、
「自分の弱さをさらけ出す」/「現実の自分とはかけ離れたキャラクターを作り上げる」
「自己中心的」/「他者中心的」
「センスだけで完璧なダンスをする」/「うまく踊れないが、それでも努力する姿を見せる」
など、矛盾する考えを「どちらが正解」と断ずるのではなく、全て受け入れる姿勢を持っている。

そして、この「多様性」を優等生的に示すのではなく、あくまでカオスなギャグとして表現することで、押し付けがましくない自然な世界として成立させている。
ここで重要なのが、通常のギャグアニメでは当然ある「ツッコミ」が、プリパラではほとんど存在しないことだ。ツッコミは「普通と外れた」ことを指摘、時には否定することであり、多様性との相性は必ずしも良くない(「ツッコまない」ことで「優しい漫才」という評価を受けたぺこぱの例を考えればわかりやすい)。プリパラのツッコミ不在のカオスなコメディは、どんな「おかしな」存在でも問題ないんだという安心感を与えてくれる。

この点だけでも、少なくともポリティカル・コレクトネスの点で最も先進的なアニメだと言えるのだが、話はここでは終わらない。より重要なのは、この一見ユートピアな「み〜んなアイドル!」の世界が実は、大多数の人間にとっては恐ろしい世界であるということだ。

消極的ではいられない 〜恐ろしいプリパラの世界〜

どういうことだろうか。これを紐解く補助線となるのが、プリパラを(主に大人が)見て感じる、当然の違和感である。
すなわち、「この世界は理想化されすぎてる」「現実にはルッキズムの問題はあるし、好きなだけではアイドルにはなれない」「努力も才能もどちらも必要不可欠だ」
――このような疑問は持って当然だし、もちろん正しい。だが同時に、浅い。プリパラの本質は、このような現実に当たり前に起こる「否定」が存在しない世界になったらどうなるのか?を考える思考実験だからだ。

社会にはチャレンジを否定する言葉やしがらみが沢山ある。それらは直接その問題に立ち向かう人たちを攻撃するだけでなく、挑戦する前に足踏みしている人々を守る「言い訳」にもなるのだ。一歩踏み出すことに大きな不安を抱える人たちにとって、この言い訳はとても甘い蜜だ。
「これをやってみたい」と思っても、瞬時に「自分には無理だな」と思ってしまう人は多い。それは、社会にある「否定」の言葉を自分を守るための言い訳に使ってしまうためだ。
例えば、YouTuberになってみたい人がいたとする。しかし、いわゆる「底辺YouTuber」と呼ばれる人たちに届いているアンチコメントを観るうちに、「自分がやってもどうせこうなるだろうな・・」と思い、挑戦をやめてしまう。このようなケースは想像に難くないだろう。

しかし、プリパラの世界ではこれは通用しない。否定の言葉そのものが存在しないのだから。

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物語のラスト、初めてプリパラに来た女の子にらぁら(主人公)たちが話しかける場面がある。「プリパラを案内する」と手を引くらぁらに対し、女の子は「でも・・・わたし歌もダンスもやったことないし」と不安(という名の言い訳)を口にする。しかしらぁら達は、「プリパラは好き?なら大丈夫!」と、その言い訳を笑顔でキャンセルする。
プリパラの世界では、「好きだ」「やってみたい」と思ったらそこに挑戦することからは逃げられない。つまり「やるしかない」のである。

これは、おそらく大多数の私たちにとっては恐ろしいことである。私たちはどうしてもリスク回避的だし、無理だと思った挑戦は控えてしまう。チャレンジしなくても、今のような生活が続けられればそれで良いか―と思う人は多いだろう。私もそうだ。しかし、プリパラの世界ではこれは通用しない。

「AIに仕事を奪われる」世界で

ただ、現実の方も「何もしなくても大丈夫」な社会では無くなりつつある。「AIに仕事を奪われる」といった漠然とした不安はあちこちで聞く。これからの時代は「AIなどのツールを使って新しい事を考える人」と、「その人たちに仕事を奪われ、何をしたら良いかわからなくなる人」にくっきり分かれるだろう。消極的な私たちの多くは、後者になる可能性が高い。それではお先真っ暗だ。

そこでプリパラである。つまり、「挑戦せざるを得ない」環境を作ってしまえば良いのだ。不安や言い訳が通用しない社会ならば、嫌でも行動しなければならない。それは楽ではないかもしれないが、幸福になれる可能性は高まる。

世界をプリパラにするために

では、世界をプリパラにするためには何をすればよいか。2つ提案したい。

1つ目は、「やりたいことをやってみる」ことだ。身も蓋もないことだが、これが一番重要だ。もちろん現実には言い訳の道は沢山ある。それでも、プリパラで観たことを糧にしながら進むのだ。現実はプリパラほど甘くはないかもしれないが、厳しいだけでもない―はずである。

2つ目は、「できるだけ否定しないよう気をつける」ことだ。もっと寛容に、多様性を認めていこうということだ。それは簡単なようでとても難しいことなのかもしれない。しかし、それが私たち皆が幸福になる選択なのだ。

確かにこれからの社会は怖い。挑戦することも怖い。でも、怖がっていても何も始まらない。怖くなったら、ガァルルのセリフを思い出そう。

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「何度も失敗して、失敗するのを失敗しちゃえばいいガァル! 失敗の失敗は、成功なのだガァル!」
『アイドルタイムプリパラ』42話「ディア・マイ・トモダチ!」より

僕は少しずつでも、扉の向こうに歩いていきたい。

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