名前と人格と乖離とインターネット

そこでの私は リ他 だったし、

せかいちゃん だったし、

こじか村先住民 だったし、

喪に服し学院大学 だったし、

こいぬの粉末 だった。

ここでの私はずっと mhr で、
他の場所ではまた違う名前を無数に持っている私である。


昔から自室でひとり考え込む時などに決まって浮かんでくるイメージがあって、それは私が私の脳を頭の中から取り出して、ホールケーキのように丁寧に切り分けているシーンだ。
大抵三つか四つに等分され、脳はまたすっぽり元の場所へと戻される。
このイメージの意味するところは恐らく人格の分離で、ということはつまり私は「人格」が心ではなく脳にあると考えているらしい。

私の中には冒頭に述べた面々だけでなく、他にも数え切れないくらいの人格(或いは後に人格になり得るであろう強い性格)が存在している。
これは何もDIDがどうのといった病理上の話ではなく、物心がつくよりずっと以前から私の内部で涵養されてきたごくごくナチュラルな類のものだ。
そうして今その観念はビッタリと私の生活に肉薄している。

誰かが私のことをその人の認識する「名前」で呼ぶたびに、私は私でありながら全く違う誰かになっている。
せかいちゃんと呼ばれれば、せかいちゃんに。
ミハルちゃんと呼ばれれば、ミハルちゃんに。
わんパウと呼ばれれば、わんパウに。
仮に私を本気で犬として扱う人が現れたなら、私はその人の目の前でなんの疑いもなく自身を犬だと思い込み、振る舞うことができるだろう。
「あなたの求める私になります」なんて、従順で健気な女のように思われるだろうか。
それがただの退屈凌ぎでしかないことを黙ってさえいられれば。

もはや当たり前になってしまったオンラインの自分を殺す行為について、行為そのものにはやはりなんの価値もないと断言できる。(すぐに甦生できてしまうからね)
でも私に殺されていった無数の人格の雛たちが、今も誰かの意識の中に小さな影を落としている様を偶然にも見かけてしまった時、嗚呼、どれほど規模は小さくともこれも立派な殺人なのだなと痛感する。
こんなに調子のいいこと言って、思い上がりじゃなけりゃいいけど。


でもさ
傷ついていないわけないよね。

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