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アイスブレイク~型の部~

「アイスブレイク」なるものをご存知だろうか。
初対面の緊張の場を和ませるという意味合いで世間に浸透している。

例えば学校のクラスや授業では
ゲーム性のある催しによって、
例えば仕事の場面では何気ない雑談によって、
相手に対して敵意のないアピールができ、
仲間意識のようなものを発生させることができる。

自己紹介的な作用をポップに演出することに
よって、本題に入る前に打ち解けた関係性を
構築することができるのである。

私はこの「アイスブレイク」という概念が
いかんせん好きになれない。
「見かけ上」のオンパレードだからである。

見かけ上要素①:関係性

ゲームや雑談で「それっぽい仲良し」を
演じさせられている気がしてならないのだ。

そんなにすぐに他人を許容する能力など
持ち合わせていない。
親密性は醸成されるものではないのか。

大概の人がそうであるだろう。
それなのになぜか、揃いも揃って上っ面の親密さを演出している(そこに私もいる)。

いや、もちろん
短期的に関係性を良好にするのが望ましいこと、
親密になるまでの十分な時間が確保されていないこと、
実際にいきなり本題に入られると、一定の拒否反応を抱かざるを得ないこと、など
この目に映る情報は全て誤っていないことは理解している。
だが、私の魂がそれを否定するのだ。

見かけ上要素②:本末転倒

どちらかというと、この要素の方が
アイスブレイクに対する拒否反応の強さに起因している。

この世界の誰かが過去に「おっ、最初から本題に入らない方がいいな。何かフランクな話から始めよう」と気づき、それを習慣化した。
アイスブレイクの誕生の瞬間である。

このアイスブレイクの先駆者に何ら罪はない。

問題は、この先駆者の姿を見た人間が
「関係性を良好にするには、まずはゲームや雑談から始めれば良い」と、
先駆者とは正反対の順番でこのプロセスを理解し、実行に移すことである。

この本末転倒なアイスブレイクを
ここでは仮に「偽アイスブレイク」と呼ばせていただく。

偽アイスブレイクにおいて発生している問題は、
抽象度を高めると「手段と目的の逆転」と表すことができる。

アイスブレイクの先駆者が
良好な関係性を構築するために(目的)
フランクな会話を行った(手段)
のに対して、

偽アイスブレイクの行為者は
フランクな会話を行うことで(手段)
良好な関係性を構築できる(目的)
と捉えている。

こうしてみると後者も聴き心地が
いいかもしれないが、前者とは雲泥の差である。

最も顕著に表れるのが「柔軟性」である。
アイスブレイクの先駆者は「関係性の構築」という大きな目的のために「フランクな会話」という手段を確立した。
この先駆者は大きな目的を見据えているため、
相手とのコミュニケーションを円滑に行うための
別の手段を次々と生み出す可能性がある。

対して、偽アイスブレイクの行為者は
「フランクな会話をしなければコミュニケーションが上手くいかない」という、
思考モデルの一直線化に陥っているように思われる。

漫才を見て笑うか、くすぐって笑わせるか
の違いに似ている。

笑わせるためにはどうすればいいのか
vs
こうしたら人は笑うとされている

型に従うか、型を創り出すか

もしかしたら、偽アイスブレイクが
有効になる瞬間もあるかもしれない。
ある成功例をもとにその手段が確立されているのだから、
その成功例と似通った条件が上手く揃っていれば、運良くアイスブレイクが達成される。

しかし、一辺倒なパターンに固執していると、
例外的な状況に遭遇した途端に、一切適応ができなくなる。

こうした手段と目的の転倒には
「精神性」の有無が関わっているのではないだろうか。

何に対しても、手段は極論なんでもよくて、
その根本に思考があるかどうかが重要である。
何も考えていない表面上のパフォーマンスには
虚飾の要素が見え隠れする。
行為の出発点はいつも、精神性でなければならない。

ブランドものと模造品の関係にも通底している。
ある想いを形にした結果、多くの人の感情や食指に訴えかけ、たくさん売れるようになったものと、
たくさん売れているからその形で作ったものとでは、
比較してみると必ずどこかに決定的な違いがある。
おそらくは素材や縫製に表れているはずだ。

型だけ真似していても、
最終的な到達点はたかが知れている。
到達点を高めるためには
プロセスを逆転させなければならない。

そんなことを、先日打ち合わせで会った営業担当者から雑なアイスブレイクを持ちかけられて気分を害した際に考えていた。

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