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等身大でしか書けない私たちへ
拝啓、文章を書くみなさまへ
文章を書いていると、自分の表現方法が
"お決まり"のパターンに嵌っているように
感じる瞬間がある。
結局、自分のことしか書けないじゃないか…。
何について語っていても、結局は自分のルーツだったり、自分が今まで向き合ってきた一つの大きな問題だったりを下敷きにしているだけじゃないか…と、冷めた感情を抱くのである。
自分の「今回は別角度から切り込んでみよう!」と意気込んでみても、順路が増えて迂回になるだけで、結局は個人の体験・経験に依った内容でしか書けず、苛々する。
そんな苛立ちを自らに感じる一方で、
ふと、他人の優れた文章を読んだ時には
自分が持っている"お決まりパターン"の力のなさが浮き彫りとなり、愕然とする。
この感覚に苛まれる方は
一定数いるのではないだろうか。
意外とみんな、そんなもん。
最近読んだ本にヒントがあった。
伊藤潤一郎の『「誰でもよいあなた」へ——投壜通信』にて紹介されていた、
フランス現代思想家、ジャック・デリダの
エピソードが印象的だった
(こちら良書なので是非お買い求めを…)。
保存しておく価値などないように思える書類を捨てないだけでなく、図書館の本であっても、欄外にメモを取る癖があったり、車の運転中に原稿を書いていたりと、どれもこれも常軌を逸したエピソードが伝えられている。しかしおそらくこれらすべてはデリダ自身の思想とどこかで結びついてもいる。
書籍の欄外へのメモは「余白」や「遺言」と、運転をしながらの執筆は「エクリチュール」や「書き込み」の欲望と関係しているのだとすれば、きわめて抽象的にみえるデリダの思考は、つねに自身の私的な生と切り離せないものだったといえるだろう。
あいにく私はこのエピソードを本書で初めて知ったのだが、おかげさまでかなり救われた。
なんだ、デリダも一貫してただけじゃん、と。
デリダは現代思想史の中でもかなり異端児であり(いや、あの界隈は各員がそれぞれに異端児ではあるが…)、
一読しただけでは到底理解ができないような難解なテクストを残した哲学者である。
そんなデリダですら、自身の思想体系を構築していた概念たちのルーツは、自分の生活でありその人自身なのであった。
等身大でしか書けない私たちへ(敬具)
私を含む、自分のことしか書けないと
嘆く人たちへ。
憂いても、どうやら自分のことを
書いていくほかなさそうだ。
それならば、いっそのこと
あらゆることを表現の原動力にしてしまおう。
日々よく考えること、
気がつくとしてしまっている癖、
自分が好んで選択する行為、…
これらが全て、自分の表現につながってくると
言っても過言ではない。
すべてのヒントは自分の中にある。
『スラムドッグ$ビリオネア』のごとく。
デリダが自分の生活で行なっていることを
哲学的な議題に昇華させたように、
私たちもまた、自分自身を削り、
自分の表現を彩るしかないのである。
有限な自己から無限な表現を生むということ。
書くこととは、
自分という単位から抜け出せないまま
なお表現を続ける行為ではないだろうか。
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