形骸化した多様性は二元論へと回帰する。そして、その多様性の名を冠した二元論が世を蝕む。
朝井リョウの『正欲』が映画化されたので、
先日観てきた。
「あぁ、そう、コレコレ」という不快さ。
YouTuberに感化され自分も学校に行かないと言い張る息子に強くNoを突きつけられない父親と、息子の笑顔を優先したいと後押ししようとする母親の、立場と気持ちのズレによるすれ違い。
自身の嗜好を満たすために見ず知らずの子供たちのYouTubeチャンネルに向けて動画内容のリクエストを送るコメント欄。
異性が苦手でありながら、一目惚れした相手のセクシュアリティに関しては全く配慮をせずに一方通行のアプローチをかける大学生。
ふむふむ、原作を思い出すなぁ
と、感心しながら観ていた。
映画としては文句なしの構成であった。
受け手の数の多さを考慮してか、原作のあの「漠然とした薄気味悪さ」は抑えて作られていたので、より観やすくなっていた。
ただ、映画としての尺に収める都合上、
原作で気に入っていたパートの描写が
かなり少なかったことが個人的には悲しかった。
学園祭で「ダイバーシティフェス」なる催し物を企画する大学生たちのパートである。
ミスターコン・ミスコンを廃止する世間の動きを受けて「ダイバーシティ」をテーマに掲げ、おじさん同士の同性愛をドラマ化したプロデューサーを起用することなど提案する。
実行委員のアイデアに対して「それってダイバーシティだね!」と互いを褒め合う。
おーー、気色が悪い。
個人的には当作品でこのパートが
一番気色悪くて大変気に入っている。
いわゆる「意識高い系」に対する朝井リョウ氏の冷ややかな目線がありありと感じられる。
ここで描かれているのは
「中身のない、上部だけの多様性」である。
男-女だけではダメだ、だから、同性愛だ。
Aがダメと言われたので、Bにします。
ただ構造を裏返しただけ。
セクハラを「ダメな時代だから、しない」と認識しているおじさんと同じで、これでは全く意味がない。実際、作品中ではダイバーシティフェスで掲げられた生半可な多様性の概念が、真のアウトサイダーによって悉く否定されている。
異なるものを理解していこうとする態度そのものには罪はないのだが、すぐに包摂しきったと判断する理解の構造は、その領域から漏れた存在に気づけないままであり、結局は異なるものを理解する前と図式的には全くもって同じに終わる。
抽象的に話したらこんな感じだ。
具体的に話すと、「男女二元論がよくないと考えて同性愛や無性愛まで配慮を伸ばして満足しているようでは、その外にいるフェティシズムに気づけない」である。
要するに、認識モデルを「拡大-縮小」の形でアップデートしていくようでは、概念自体がいくら多様なものであっても、受容できるものはいつまでたっても二元的なのだ。
このように「二元論化した"多様性"の概念」が
一番の危険物であると筆者は考えている。
口では「タヨウセイ」と発しているものの、
中身が全く伴っていないようでは
社会に進展など見込めず、むしろ停滞を招く。
「SDGs」にしてもそうである。
あれは、いつから「環境に配慮しているポーズ」の意味になった?
その他10以上ある指標が
ごっそり抜け落ちてモデル化されている。
そうならないための指標であったはずなのに。
「多様性」や「SDGs」は
マジョリティが他人からお叱りを受けないための
免罪符ではない。
そんな風に使いたい人間が非常に多くいるように感じるので、
「多様性・型の部」など設けてやれば良いのではないか、などとくだらないことを考えている。
やれやれ、こんなことを言ったところで
向こうにとっては「水掛け論」であることは
分かっている。
草の根レベルでの意識改革を
各人が行なっていかねば。
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