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シティボーイはどこだ

『POPEYE』ってつい読んじゃうよね

自分はファッション雑誌を多く読む方で、
月に2〜3種類は買っている。
その雑誌だから、という理由では買わず、
自分の関心に合っていそうなトピックの際にのみ買う。

一般人(アパレルなどに関わっていないという意味)にしては多く買っている方だと思う。
洋服の着方だったり、モノの選び方だったりは
自分だけでは限界があるので、
他人の力を借りるようなイメージで購読している。

『POPEYE』もよく買う雑誌のひとつだ。
読んでいるだけで自分もオシャレになった気分になる。
何より、ピックアップするアイテムも、ただ流行っているだけのものではない、どこかクセのあるものが多いので参考になる。
中身のデザインやらレイアウトも良い。
ポップなレイアウトや画像の切り取り方が読む際のテンポ感を生み出してくれる。
あと、そんな風にポップな印象を与える割には、意外と文章量が多いという側面も実は気に入っている。隠しきれないマニアック・オタク気質が伺え、同様の気質を持つ自分にとっては嬉しい気持ちになる。

いまや書店でも目立つように配置されており、手に取る方々も多い『POPEYE』。
街ゆく人の服装や、訪れる店を見て「POPEYEっぽさ」なるものを感じるほど、そのブランド力とも言うべきか、影響力のようなものを日々感じている。

「シティボーイ」って、何?

そんな『POPEYE』だが、先ほど読み返していてふと表紙のコンセプトが目に入った。

Magazine for City Boys

「シティボーイのための雑誌」か。
そんなコンセプトだったんだ。うんうん……。
ん?「シティボーイ」って誰のことだ?
別に「そうなんだ」で流せばいいところなのだが、急に気になり始めてしまった。

一度気になったものは定義から考え直したくなる性分なので、「シティボーイとは」から考えよう。
「シティボーイ」の世間一般の定義はなんとなく分かる。
「都会的で、街に馴染んだ、良い感じで垢抜けた人」というところだろう。
『POPEYE』の内容的にも、近からず遠からずかと思う。
街を出ると、男女問わず、POPEYE的世界観を体現している(もしくは、しようとしている)人が一定数いると個人的に思っている。脱力的で、どこかニヒルな感じの人たちだ。実際オシャレだとは思うから、それについてとやかく言うつもりはない。

それにしても、「シティボーイ」は揶揄で使われる場面が多い気がする。
自分自身、他人から言われたことが多々ある。
東京のカルチャーの街に住んでいることや、そこから会社までスポーツバイクで通っていることなどを話した時、「シティボーイだね」と言われるのである。

別に当人はシティボーイになろうと思っているわけでもなく、また、なりたいわけでもないため、決まってどこか消化不良感が生じる。
消化不良感の原因も、この時の「シティボーイ」が先述の揶揄性を含んでいるからだろう。褒めつつもどこか小馬鹿にしているような、あの感じ。

「シティボーイ」はどこだ

やはり実態が掴めない。
シティボーイを雰囲気でしか認識できない。
『POPEYE』の編集者ならきちんと定義してくれているのではないかと思い、インタビュー記事を探してチェックした。

"シティボーイ"の定義とは?

見た目はどうだっていい。昔はもっと細かく定義付けていたが、私はもっと精神的なものだと考えている。例えば電車で席を譲れるような男の子。女の子に優しくできるような、向上心のある男の子がシティーボーイだと思う。

WWD 『40周年の「ポパイ」編集長に聞く、
“シティーボーイ”の定義』(2016)

分かんないって。
『刃牙道』の武蔵みたいなことを言わないで欲しい。
「型」ありきの「型破り」は大変良いのだが、
こちらはその「シティボーイの昔の定義」が欲しかったのだが…、と嘆く。

板垣恵介『刃牙道』86話より

「電車で席を譲れるような男の子」。
それにしても「例えば」が具体的すぎる。
こんな具体表現、村上春樹しかしないと思っていた。

〜村上春樹の具体的すぎる表現を聴け〜

それは10月にしては少し寒すぎる夜で、ベッドに戻ったときには彼女の体は缶詰の鮭みたいにすっかり冷え切っていた。

村上春樹『風の歌を聴け』

眠りは浅く、いつも短かった。暖房がききすぎた歯医者の待合室のような眠りだった。

村上春樹『1973年のピンボール』

そういえば、「村上春樹を好んで読みます」という自己紹介に対しても「シティボーイだね」とコメントされたことが3回ほどある。

「シティボーイ」に迫る

なんなんだ、シティボーイって。
そう思っているのが答えなのかもしれない。

表題の「シティボーイはどこだ」。
『POPEYE』が「シティボーイのための雑誌」なんて謳うから、きっとどこかにいると思い血眼になって探すべく、語の定義からシティボーイについて考え、その定義に当てはまる人間を演繹的に抽出しようとしていたが、巷でいう「シティボーイ」はすでに具体的な特徴をマークしていればそれになれるといったチェックリスト形式のものではなく、それこそ『刃牙道』の草書のように、崩れて崩れて精神性の領域に達しているのではないだろうか。「シティボーイ然としたもの」を我々は眺めているのかもしれない。

面白いのは、「シティ」と冠しているように、地理的な属性から端を発する言葉が、すでに場所に縛られない概念として昇華されていることではないだろうか。
昨今の「シティボーイ性」に大事なのは出身や居場所ではない。例えば自分は大阪出身だが、その中で「シティ」は大阪市にあたるが、いざ東京に出てきてみると、よほどこちらの街の方が「シティ」をやっている。何なら、国を飛び出してアメリカのニューヨークなんかに行けば、もっともっと「シティ」をやっているだろう。
こんな感じで、地理的な属性に定義が左右されるのだとすれば、より都会的なところに純粋なシティボーイが集まるという風に捉えることができ、シティボーイの領土的マウントの応酬が始まる。

やはり大事なのは居場所や出身地といったハードな部分ではない。精神がシティボーイであるかだ。精神がシティボーイのとき、その人はシティボーイなのだ。

よって私はシティボーイではない。

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