未だ来ないものを、それでもなお明るく見通して
今ここにある かすかな救済者
瓦礫はうずたかく
……
嵐がくる
楽園から吹きつける風に
巻かれ踊る翼
遠のく明かり
嵐がくる
楽園から吹きつける
透明な未来
ceroが今年の5月24日にリリースしたアルバム
『e o』の最終曲「Angelus Novus」より。
アンゲルス・ノーヴス。
意味は、「新しい天使」。
画家のパウル・クレーが1920年に制作した絵画のタイトルである。
これに寄せて、ヴァルター・ベンヤミンが「歴史の天使」という断章を書いた。
この断章を含む、およそ20の命題が「歴史哲学テーゼ」と呼ばれるベンヤミンの遺稿となった。
ceroの「Angelus Novus」は、ベンヤミンを明確に意識しながら生み出された。
宇宙的、量子力学的な彼らの関心とベンヤミンの考えがマッチしたため、曲のモチーフにしたという。
宇宙的なものと身近なものが韻という紐帯によって引き寄せられる様子が歌詞から窺える。
ベンヤミンの天使
ベンヤミンは、クレーの「新しい天使」を受けて、彼なりの天使像を打ち立てた。
その天使は、過去を見つめている。
そしてその過去と関わろうと思う。
しかし、それは叶わない。
「嵐」が天使を押し流していくからである。
天使は、目の前で崩壊していく過去を遠目で追うことしかできない。
なぜなら、「嵐」という「時間」が天使を押し流す、すなわち、「進歩」させるからである
(嵐が進歩のメタファーであることはベンヤミン自身が同テーゼで書き記している)。
そう、ベンヤミンはこの天使のモチーフを使って「歴史」というものを語ろうとしているのである。
進み続ける現在という時間が、どれほど足掻いても過去と関わり合うことができないことを伝えているのだ。
過去の凄惨な歴史がどれほど叫び声を上げていようとも、天使には助ける術がない。
過去はそこに留まり続けるのに対し、
天使はその翼で嵐に身を任せる他ないからだ。
「破局」の末に残された「瓦礫」が、
ただただ遠のいていくのを眺めるのみである。
瓦礫一つ一つを救済しようとしても、
嵐が行く手を阻む。
ああ、もどかしい。
この無力な天使の姿を見て、アナタはどう思うだろうか。
……果たして、今天使に対して思った感情を、自分自身にぶつけるほどアナタはタフだろうか。
なぜなら、この天使は「私たち」だからである。
過去と関わろうとも叶わず、尚現在という進歩に着実に未来に流されていく存在。まさしく今生きる私たちではないか。
ベンヤミンは、過去と現在の連続性を指摘しつつ、その不可逆性を示唆している。
そして、「期待」というベンヤミンらしい表現とともに私たちを「メシア」と呼ぶ。
過去は現在によって救われたいと思う権利がある。私たちは自身をメシアたらしめる必要がある。
それでは、どのように
ベンヤミンから提示されたテーゼを、私たちはどのように背負っていくべきなのだろうか。
過去への応答責任、そしてその実現不可能性。
この両義的な側面を抱えて、果たして私たちは未来というものを歓迎することができるのだろうか。
否、ただ待てばよい。
と私は回答する。
さて、ベンヤミンの話ばかりで疲れただろうから、スパイスを一つ。
私が大学の卒業論文で研究対象とした作家、ヴァージニア・ウルフの日記からこんな一文を拾ってきた。
要は、「考えたって暗闇なのだから、そのまま不鮮明にしておいた方がよくね?」である。
まさしくその通り。
背負っている荷物を不必要に重くする必要は全くないと私も首肯している。
ウルフもまた、現在という「瞬間」を忘れまいとして日記に書きつける習慣をつけた。
と、考えることもできる。
ここは先人に習おう。
この瞬間ひとつひとつを捉えていくことが
私たちの宿命なのではないだろうか。
そういえば、ベンヤミンも瞬間的な火花を捉えることが重要命題であると言っていた。
不確定な未来に向かって如何に流されるかについていくら不安を抱いたところで、それは現象してみないと分からないのだから、「暗闇 is there」ぐらいに考えておきませんか。
ただ、「暗闇」っていう表現がややナイーブに聞こえる。ちょっと気に入らない。
ウルフ自身も「未知」ぐらいのニュアンスで書いてるんだって。きっと。
あの人、自虐的に書くケースが多いから。
そうだって。きっと。
せめて、眩く光を放つものとして待ってみるのはいかがだろうか。
「明るい未来が待っている」…?
それはそれで戦時のマニフェストみたいでちょっと不気味だな。
いい言葉はないかなぁ…。
あ、あった。
「透明な未来」。
ceroの「Angelus Novus」の歌詞じゃん。
これでいいよ。
透明なら、光も通すし。
透き通った未来を見通そう。
よし、決まった。
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