月を見つけたチャウラ~ピランデッロ短編集~

ピランデッロ 関口英子訳

生きるうえでの戦いが困難になればなるほど、そして、その戦いにおいて己の弱さを思い知れば思い知るほど、互いにごまかす必要が大きくなる。強さ、正直さ、感じのよさ、思慮深さといったあらゆる美徳、真実味における最高の美徳を装うことは、適応の一形態であり、人生の戦いにおける巧妙な道具なのだ。”ウモリズモ作家”は、人生におけるこの手の諸々のいつわりを即座に知覚し、その仮面をはがすことに喜びを見いだす。

「諧謔論」ピアンデッロ(1908)

精神は自由に動き回り、場合によっては溶解することもあるというのに、自己の肉体は不変の姿形に固定されているという事実が、ときに拷問のように思えることが、誰にでもあるものだ。『ああ、なぜ自分はよりによって、こんな姿をしていなければならないのか?』我々は鏡に向かってそう自問する。『こんな顔で、こんな身体でなければならないのか?』そして、無意識のうちに片手を挙げるのだが、その手が宙に浮いたまま止まってしまう。その動作をしたのが自分自身であることが、奇妙に思え、生きている自分をただ眺めているのだ。片手をあげたまま動かずにいる自分が、彫像のように見えてくる。[中略]内面が沈黙する瞬間、われわれの精神は慣れ親しんできた虚構を脱ぎ捨て、目が貫くように鋭くなる。そして、生における己の姿を見いだし、同時に己のなかに生を見いだすのだ。それらはいずれも、不問で、不安に満ちた裸体をさらけだしている。すると我々は、奇妙な印象に襲われる。それはあたかも、われわれがふだん理解しているのとはまったく異なる現実が、人間の視力を超越し、人間の理論によってつくられた形式の外にある生きた現実が、いきなりくっきりと立ちあらわれたかのような感覚なのだ。

 自分のことを、自分の持つ関係性を反射し合って見ることが最早かなわないとき、孤独になるのだが、その時孤独を感じている魂は、いったい何なのか。誰々という呼称は外からつけられるものであり、自分も外部を内面化した習慣によって自分が誰であるかを認識する。しかしそれがはぎとられて孤独となった時、この見ることの、重みを感じることのできる肉体と、意識は全く混ざり合わずに受け入れがたく遠くから見るような感覚で、その動きを見ることになる。一旦その意識を持ってしまうと、現実はまったく自分の心から遊離してしまい、自分の生に現実味がなくなっていく。
 ある一日、の他人の目線から自分の急速に過ぎ去る人生を感じる男の話は、滑稽でそれだけにぶるぶると震えてしまう。
 

 …気にするな、バカげたことで笑うのは、ごく自然なことだと思わせてくれた。どんなことで笑えというのだ?彼のような境遇のものが笑うには、バカになりきるよりほかあるまい。
 そうでもないかぎり、笑うことなんてできやしないだろう?

笑う男 Tu ridi

 明日の朝、村にもどられたら、ひとつお願いがあるのです。おそらく、村は駅から少し離れたところにあるのではないでしょうか。夜明けに、あなたはその道を歩いていく。そして道端に生える最初の草の塊を見つけたら、草が何本生えているか教えていただきたいのです。そこに生えている草の数とおなじ日数、わたしは生きながらえることができる。いいですか。なるべく大きな草の塊を選んでくださいね。頼みましたよ。

貼りついた死 La morte addosso

 チャウラは穴から外に出るなり、唖然とした。運んでいた荷が肩からずり落ちる。チャウラはわずかに腕をあげ、黒い両手をその銀色の輝きのほうへとひろげた。
 光に満ち、ひんやりとした静けさの大海原のように、大きくて穏やかな「月」が、チャウラの目の前にあった。

月を見つけたチャウラ Ciàula scopre la luna

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