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至上主義とそれぞれの主義主張

面倒な人とはなるべく話したくはないけど、面倒な人がいてくれるから面倒じゃない人とのコントラストがはっきりするわけで、だからと言って面倒な人、面倒でいてくれてありがとう!とはならず、特に感謝などはなくやはり面倒な人は面倒なのです。

こないだお話しした女性は、何がなんでも生肉が好き!という生肉至上主義の人でした。

ボクはお寿司は好きだし、刺身も嫌いではないけど、大量の刺身を出されるとちょっと困ってしまう、どちらかというと生肉そんなにいらない主義で、むしろ8:2で焼いたり煮たりしてもらいたい主義です。これは魚に限ったことで、肉に関しては大概火を通したい主義なんですね。

先述した生肉至上主義の人は魚だろうが肉だろうがとにかく生で食べたい、出来ることなら生きて動いているその瞬間にかぶりつければどんなに幸せだろうか(きっと幸せに違いない)という、生肉至上主義の中でも最先端を走っている、野生型生肉至上主義の人でした。
しかも食べられるとされている(現在流通されている)お肉だけでなく、ネズミだろうがゾウだろがカマキリだろうがコーカサスオオカブトだろが美味かろうが不味かろうが、とにかく生きているところを捕まえて齧り付きたい、と。なんなら肉に限らず、河原や公園で美味しそうな草が生えていたらそんなのは軽く洗ってその場で食べちゃいます、とのこと。
訂正→野生型生肉生草至上主義でした。

一言では言えないけど、今まで生きていた感じの温もりや血の感触、そもそもの生肉の味や食感が好きなんだそうです。

ここまで読んだ人も思ったかもしれないし同じようにボクも思った禁断の質問
「人間に対してはどうなのだろうか?」

読者の知りたいことは例えどんな危険を犯しても聞く主義のボクは意を決して聞いて来ました。

「あのぉ、こんなことを聞いて気分を悪くしないで欲しいのですが、人間のお肉のほうはどうでしょう?」

「うーん、それはさ、まあね…」

にごされた!
目の覚めるような解答は得られなかったけど、何だか開けてはいけないパンドラの箱を少し開けた気分です。

食べものは美味しい食べ方で食べるというのが、動物であれ植物であれ他の命をいただいて生命を維持していて尚且つ文化的な生き物とされる人間としては最低限の礼儀(?)、マナー(?)ような気もするけど、どうなんだろうか。
ま、その人が生で食べるのが一番美味しいというのであれば、それが礼儀であり、マナーでアリなんだけど。

ともかくボクとは味覚の感性が随分違うんだなぁと思った次第で。

んで、その人と話しつつ、なんとなく話が噛み合わないなーと思っていたのです。
会話がなかなか前に進まないんです。
最初はやっぱり食の好みが違うと会話も噛み合わないのかなって思ったんだけど、違いました。

その人、こちらが質問をしようとしてると喰い気味で答えてきて、さらにどんどん会話が脱線して自分語りを始めてしまうんだわ。
だからいつも答えが曖昧になってしまい、それを整理して質問と照らし合わせるのに凄く時間がかかるんです。
そしてそんな会話を続けていると何ともいえない空虚な気分になったりするんです。

後日、同席していた人に伺ったところ、
「疲れたでしょ?あの子いっつもあんな感じだから、話してるとめちゃくちゃ面倒な気分になって、だんだん話したくなくなるんだよね」
と。

同席した人は野生型生肉生草至上主義の女の人と昔から知り合いだったみたいなんだけど、そんな会話のペースにホトホト疲れ果てていて、最近はその人となるべく距離をおいているとのことでした。

内容も大事だけど、会話のキャッチボールもまた大事ですな。

ただ、良くも悪くも他人にいかにインパクトを残すかということにおいてはピカイチですね。
もしインパクトを残したいが為に、生肉の話も実はフィクションで、会話のやり方もわざとやっていたのであれば、次にまた話したいとは思わないけど、やり方としてはかなり成功はしてます。
また、ボクはたまたま違ったけど、その人と同じような感性の人とはモノ凄くマッチしそうだしね。

なんだか色々考えさせられて、結果ズタズタに完敗したような気分になったのでした。


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