ストラグルズ

目を開けたら白い病院の天井だった。
数年に一回。毎度の事だ。
今度の会社もダメになったか、と、平常心で大谷ほづみは考える。

自分は統合失調症と言う病気を持っている。
不定期に発狂する。
発狂って?
ないものが見えたり
聞こえない音が聞こえたり
ないはずの香りや味や感触がすることだ。

カレーがうんこに香ってしまう患者さんがいたそうだ。
「ブスブスブスブスブスしねしねしねしね。」
と、地下鉄のホームで言われ続けた子がいたそうだ。
ほづみは誰もいないのに手を握られた時は霊かと思って泣きそうになった。

幻覚妄想というやつだ。
幻覚妄想とは現実とかけ離れた夢のような事を現実だと感じる事だ。

昔の友人は自分が踊らないと世界が壊れてしまうという妄想で
国道の真ん中で踊ったそうだ。
ほずみは最初に発病した時友人全員に嫌われる幻覚を経験し、
無駄なケンカをしてほぼ全部の友人をなくした。

今回は何日か十何日か分からないが会社を無断欠席してしまった。
両親は退社を勧めるだろう。
枕が冷たい。
鼻がつまっている。
顔がぬぐえない。4点拘束されているのだ。
4点拘束とは、両手首と両足首をベッドにくくりつけられることだ。
左腕に点滴が刺さっている。

ほづみは自分が泣いている事に気づいた。


***


食堂で食事をしていいと言われるくらい回復するのに数日。

(……は?)

食堂にフォーエバーウォーカーのボーカル、田崎がいた。
ほづみは二度見してしまった。
テーブルの隣の席に普通に座ってヨーグルトのふたをペリペリ開けていた。
普通ヨーグルトって食後に食べないか?
少なくともほづみはそうする。
どうやら好物らしい。
満面の笑みでひとくちひとくち味わっている。
あのあとサッパリした口でご飯食べるんだぜ~。
案の上、顔をぐしゃっとしかめながら白米を食べている。
白米に失礼な。

入院患者にとって食事は数少ない娯楽の一つだ。
空腹のあまりかっこんで一瞬で食べてしまう人やら、
味わい過ぎたり自分では飲み込めなくて
1時間以上かかってしまう人がいる。
ほずみも最初はかっこみ派だったが、
余計に空腹を感じてしまうと気付いて中間派に変えた。
一口30回噛んで二十分くらいで全部食べ切る。好き嫌いはない。

フォーエバーウォーカーは長い下積み時代を経て昨年デビューし、
三年で紅白出場という勢いのあるバンドだった。
ほづみは、実はファンだ。
田崎との話の中から曲と詞を作るというベースの大橋がお気に入りである。

(田崎って、アイドルの恋人がいるって話じゃなかったっけ)

あの子とはどうなってしまったのだろう。


***


田崎の生歌を聴きたいと思っていたが、機会はすぐにやって来た。
OT(精神科作業療法)のカラオケである。

古いカラオケセットには
デビューしたばかりのフォーエバーウォーカーの曲はなく、
田崎は何を歌うか迷っているようだ。
みんなはほとんど十八番が決まっていて、
美空ひばりから電気グルーヴまで多彩な歌が披露される。

田崎が選んだのは都はるみ「北の宿から」だった。
なぜ、なぜ着てはもらえぬセーターを歌う。
疑問でいっぱいだったが、
ひたりと歌いだした田崎の声に看護師の手拍子まで止まる。

紅白歌手、圧倒的だな!タダで聴いてごめんよ!
その後に越路吹雪の「愛の賛歌」しか歌わないので
コシジと呼ばれているじいさんが続いた。
調子がかなり外れている。

このじいさんは食堂でも廊下でも「愛の賛歌」を
がなり続けるのである。
田崎の美声との落差がすごい。

田崎は一曲だけで歌うのをやめた。
ささくれた畳敷きの広間、
音の悪い古いカラオケセットで歌うのは
紅白歌手である田崎にとって悲しく、腹立たしいことかもしれなかった。
ほづみはひそかにがっかりしたのである。


***


「キャロットラビットのるるちゃんが来てる!今、受付!」

喫煙を兼ねて30分の院内散歩をしていた人たちが
慌てて帰って来て報告する。
「誰だそれ?」と聞いた人もいたが、知っている人は知っている。

「田崎の彼女だ」
「芸能人が精神病院の閉鎖病棟に来るなんてすごいな」
「田崎も芸能人だぞ」
「るるちゃん、廊下で待ってれば会えるかな」

物見高い奴らが廊下に座ってたむろし始めた。
ほづみは食堂の席から鍵のかかった扉をうかがう。
廊下に座るほどお行儀が悪くなるつもりはないが、
暇で好奇心に勝てないのである。
それにまるで頓着せずに、コシジは「愛の賛歌」を歌い続けていた。

看護師さんが鍵を開けて、るるちゃんが入ってきた。
さすが現役アイドルの実物は違う。
ちょっと引いちゃうような美少女である。
いや、年齢はもう二十歳を超えているから美女か。
びくびくしながらも優雅にたむろしていた見物人をよけ、
面会室に消える。

(見たくなっちゃうよね)

食堂から自分の部屋に帰るふりをして、
面会室のドアについたガラス窓をのぞき込んだ。

(泣いてる)

手を握り合って、二人が泣いている。
田崎は
「るるちゃんが来たら笑顔で大丈夫なことを伝える」
とみんなに意気込んでいたのに。
そのままほづみは自分の部屋に戻った。

実は自分のベッドは出入り口の鍵付き扉の真横にある。
壁はガラス製だ。
廊下である外側からは自分が見えないが、
ベッド側からは外をうかがうことができる。
二人の別れ際の一部始終をほづみは見た。

(これは)

ほづみは決意した。

(描かねば)


***


さし入れに来てくれた父が、約束通りコピー用紙と、
愛用していたぺんてるの製図用シャーペンと替え芯、
モノケシ2個、ピグマの0.5と0.8を5本ずつ渡してくれた。
グレーのコピックも欲しかったが、
買う際に濃さの違いが父には分からないだろうし、高価になるのでやめた。

暇だから遊ぶのだ。
でも、やるからには楽しんで本気でやらなきゃね。
写実的に書くのは3枚であきらめた。
一目でそれと分かるまで田崎とるるちゃんのキャラクターを練習する。

(鉄拳、というパラパラアニメの人がいたな、あんな風にならないかしら)

面会室のドアの窓から見えた田崎とるるちゃんを思い出す。
廊下には相変わらず調子っぱずれの「愛の賛歌」が響いていた。
するするする、さらさらさら。
食堂の片隅でほづみはシャーペンをコピー用紙に走らせ始めた。

「大谷さん、絵が上手ねぇ」
「すいません、今集中しているので」

話しかける看護師さんを手で制して描き続ける。
シャーペンで下描きして、ピグマでペン入れする。
コピー用紙はすぐしわが寄るので
消しゴムをかけるのはあきらめることにしてしまった。
5日間、ほづみは食事やOTや3時のおやつ、
入浴などの活動時間以外、
起床時間の6時から消灯時間の9時までずっと絵を描き続けた。

そして、最後に4人部屋のカーテンで仕切られた自分のベッドの上で
よく確認してから、ナースステーションでスマホを受け取り、
食堂でみんなと話している田崎に近づく。
みんなが「告白か?田崎にはるるちゃんがいるぞ」などと言っている。
そんなことよりもっと面白いよ。

「田崎さん、これ見て欲しいんだけど」

描き終わったらたったの50枚とちょっとだった。
自分の今の集中力の限界はこれだ、仕方ない。

「なになに?」

と、寄って来た田崎はコピー用紙の絵を見て

「これ、俺とるるちゃん?」

嬉しそうに笑った。
好感触、悪くない。
スマホの使用許可は1日30分だ。時間を無駄にはできない。
用意していた越路吹雪の「愛の賛歌」をユーチューブで流す。
歌に合わせて、ぱらり、ぱらりとめくっていった。
田崎はじっと紙芝居を見ていた。
曲が終わっても、田崎はじっと最後の絵を見つめていた。

「愛の賛歌って、いい歌だったんだな」

と、田崎はつぶやいた。

「ここで、紅白歌手田崎幸次さんにお願いがあります」

ほづみはうやうやしく告げた。

「これに歌をつけてもらえませんか?」


***


病院にもよるだろうが、
この病院では面会に来る人がいなくて誰も使わない時間、
入院中の患者は面会室を使わせてもらえる。
仲良しになった患者同士で歌ったり、
そこでしかできない秘密の話をするのだ。

「面会室には実はカメラとマイクが取り付けられていて、
看護師さんが見張っている」

という噂があって、結局そんなに非常識なことはできないのだが、
一応全部、話をして許可をもらった。

「スマホはアイフォンがいい。マイクの性能がいいと思うからだ」

田崎がそう言ったので、ほづみの無料型落ちスマホではなく、
田崎のアイフォンを使うことにした。
田崎にもスマホは1日30分しか許されていないらしいし、
面会室の使用許可は1日1時間だ。
撮り直しや集中力を考えたら、ちょうどいいかもしれない。

まずは何度か練習した。多分うまくいくだろう。
田崎がアイフォンを受け取ってきて、窓を閉め、
面会室のドアをこぶし一個分開けて閉めた。
開けておくのは決まりなのだ。

「雑音が入っちゃうね」
「まあ、仕方ないな」

田崎がアイフォンを操作して、動画を撮るモードにする。
遠くに食堂のざわめきが聞こえる。

暇を持て余した人が、カメラマンを買って出てくれた。
ありがたく活躍していただく。
アイフォンのカメラは真上からずっとテーブルの上の紙芝居を写している。
田崎が「愛の賛歌」を歌いだした。
曲の流れに沿って、ほづみはぱらり、ぱらりと紙芝居をめくる。

(画力の無さよ、ヘタウマに変われ!)

田崎が歌い終わってしばらく無音でアイフォンは最後の一枚を写し続け、
ほづみが合図をし、撮影が終わった。
二人で見直す。

「これ、大橋に送っていいか?」

……え?


***


それはるるちゃんが病院に入っていくところから始まる。
受付で面会許可を取り、
不安げに錆びだらけのぼろい階段を登り、
看護師さんに鍵付きの扉を開けてもらう。

廊下に座り込んで自分を見つめるたむろしている人たちを
びくびくしながらよけて、
やっとたどり着いた狭い面会室には田崎が待っている。

田崎は輝く笑顔だ。
不安げだったるるちゃんに笑顔がのぞいた。
陽気に話す田崎、嬉しそうに聞くるるちゃん、
ふいに涙をのぞかせるるるちゃん、慌てる田崎、
田崎の手を握りしめ、るるちゃんは泣く。
田崎の目にもいつしか涙が浮かんでいた。

面会終了が看護師から告げられ、二人は鍵付きの扉まで歩く。
るるちゃんはまた看護師に鍵を開けてもらって扉を出る。
看護師はその扉の鍵を閉める。

強化ガラスの扉越しに立ち去りがたく見つめあう二人。
ふりかえり、ふりかえりしながら去って行くるるちゃん。
ずっと扉の前から動かない田崎。

4分弱の素人紙芝居だったが、
「愛の賛歌」の曲の力と田崎の紅白歌手級の歌声が乗ると、
魔法がかかったようにランクアップした。
自分でも上等な遊びだったと思う。

だが、それをフォーエバーウォーカーのユーチューブ公式チャンネルに
載せると聞かされて
ほづみは飲みかけの薄くてぬるくて不味いお茶をブッと吹いた。

「あんなの、見ていたそのままを描いただけだし、
ただのヘタウマまがいなのに」
「描き直す案も出たんだよ。
でも、そのままがいいって言う人が多くて。
選曲も良かったし、
俺が病院でもまだまだ歌えるっていうのを
みんなに知らせるのにもいいって大橋も事務所も言うんだ」
「雑音だらけだったのに」
「今どき雑音ぐらい消せる。
大谷さんの絵もちょっと影とかいじるらしい」

そうなのか、すごい時代だ。

「この病院で作ったって書いておいていいか?」
「私の名前を出さなければいいよ」
「ペンネームでもつけてよ」

ちょっと考えてほづみは言った。

「そうね、謝々ニコリとでも書いておいて」

これがバズった。
ヤフーニュースになったのである。
ほづみは呆然と呟く。

「やふーにゅーす……」
「紅白の曲に比べれば、大した再生回数じゃないんだけど」

詳しい解説に、フランス語訳と英訳を乗せたらしい。
有名曲「愛の賛歌」だもんね。
現在の田崎とるるちゃんが置かれた状況と、
それを巧みに描写した同じ閉鎖病棟に入院中の謝々ニコリこと
ほづみのセンス、
アカペラで名曲を歌いきった圧倒的な田崎の歌声。
国際的に再生されて高評価がついているらしい。

現在の日本の精神病院の在り方が論議されるところまで
話題になってしまったのである。
閉鎖病棟って確かに非人道的だよね。
なんと、テレビまで取材に来たよ。

「ぜひ謝々ニコリさんにも登場していただきたくて」

と、主治医や看護師さんを通して言われて、必死で断ったのである。
普段みんなとワイワイしていると忘れるが、田崎は紅白歌手だものね。
ネットでは賛否両論らしいが、あえて見なかった。
今、せっかく刺激を避けて世間と接していないのに、
ここで調子を崩したら元も子もない。

そんなこんなで入院期間の3カ月はあっという間に過ぎた。
先に入った田崎を残してほづみは退院することとなった。
田崎は「閉鎖病棟に入院中に活動する紅白歌手」というブランド?
を当分利用すると事務所に決められてしまったのだ。
数時間に延びた外出時間を仕事に取られて、
るるちゃんと話ができないとこぼしていた。

「すぐに外泊できるようになるよ」

と、みんながなぐさめる。
さらに、閉鎖病棟の入り口へと登る、
錆びたぼろい階段でジャケット写真を撮影し、
フォーエバーウォーカーのアルバムに
使われると聞いて仰天した。

さらにCD初回特典としてほづみの描いた各メンバーの
4コマまんががつけられることとなってしまった。
CDが消えつつある今の時代、
それで果たして売れるのかは分からないが、
自分にとってこんな人生のギフトあるか。
最高すぎるだろう。
「えっ」と言うような額の謝礼金をもらった。

今回は曲も歌詞も作れなかったので
カバーアルバムにしてしまうらしく、
特典にバンド版の「愛の賛歌」DVDがつくこととなった。
動画のあちらこちらに自分の紙芝居が使われる。
その「愛の賛歌」が
LINEミュージックやスポティファイ、
アップルミュージックで世界的に聴かれているらしい。
ユーチューブは相変わらず再生回数を延ばしている。

「そのカーディガン、自分で編んだの?」

4コマまんがの打ち合わせ中、
ほづみのカーディガンを大橋が目にとめてたずねる。

「何で分かるんですか?」
「なんていうか、身体にサイズがぴったりだし、
糸が……不思議だなって思って」

目ざとい人だ。

「私は薬の副作用で太っていて既製服が合わないので手編みです。
糸を引き揃えるって言って、
違う糸を何本も合わせて微妙な風合いを出しているんですよ。
ワントーンコーデでローゲージが流行りだけれど、
ただ真っ白とか、つまらなくていやなんですよね。
余計太って見えるし。
ちなみにこれはベージュや白、焦げ茶色を、
太さや素材の違う糸で引き揃えています。
質感でも遊んでみました」

ふーん、と大橋はつぶやいた。

「ほづみちゃん、俺のカーディガン一着作ってよ。
ちょっと派手目に」

大橋のユーチューブ動画を見まくっていたので
好きな色や形の傾向は分かる。
サイズはその場で教えてもらった。
京都から糸を取り寄せて作ると、気に入ってくれて、
プレゼントしたつもりが、
また「えっ」と言うような謝礼をもらった。
まさかそれを着て某音楽番組に出ちゃうとは。
あのサングラスの方が、目ざとく見つけるとは。

「そのカーディガン、いいねー」
「ああ、ユーチューブで紙芝居を提案してくれた
謝々ニコリさんが作ってくれたんですよ」

ほづみは我が家のテレビの前で、
久しぶりに味わっていた暖かい緑茶をブッと吹いた。

「俺もベストが欲しいなぁ」
「多才な人ですよね。頼んでみますよ」

……さあ、どうなるのかな!


***


サングラスの人には思い入れがある。
数回の再発後、動けなくなって、
少しの刺激でもガンガンと頭が痛むしんどかった日々に、
元国営放送の某番組に救われたのだ。

マウントを取ることも傷つけることも一切言わず、
ただただ童心と知的好奇心を満たすことを楽しむ
その平和な世界に涙を流したのだ。

泣きながら某番組見るのがおかしい?
おかしくていいの。
そういう風に救われる人がいるっていうことよ。

ベストでお好きな色はきっと黒か濃紺、
チャコールグレーあたりだろう。
極細のシルクでそっと濃紫なんて加えてみようか。
採寸されたサングラスの人のデータが大橋から送られてきた。

自分は決して編み物のプロではない。
しかし、謝礼をいただくからには中途半端なものは作れない。
編み物教室に通って、基礎から勉強し直し、
吟味した糸を引き揃えて、
時間をかけてごくシンプルなベストを作った。
凝ったことをしても下手なのがばれるだけだ。

「メリヤス編みが一番技術を問われるのよ」

なんて上手な人が言うこと。
とにかく丁寧に。
気持ちを込めて編み上げたベストを、
油紙をミシンで縫って作ったオリジナルバッグに入れて渡した。
油紙がテープで止められなくて焦ったけれど、
マスキングテープで止められて安心した。

「喜んでいらしたよ」

大橋の言葉が嬉しかった。

「次もあるから、よろしくね」

……えっ?


***


田崎が閉鎖病棟の中で再発してしまったらしい。
入院した時に仲良くなった人から聞かされて、
ほづみは「やはりな」と思った。
雑誌のインタビュー、テレビへの出演、新曲の発表。
入院してケアしているからと言って、
不安定な時に無理をすれば
すぐに戻ってしまうのが統合失調症だ。
精神疾患の星と持ち上げられ、
同時にアンチに責められるのも居心地が悪かったようだ。
「居心地が悪い」とは言い方が柔らかすぎた。
脳みそが繊細過ぎる田崎には針のむしろだったのだろう。
エゴサーチをしてしまっていたとも知らされた。

(馬鹿め。私は決してしない)

るるちゃんと幸せになるのではなかったのか。
少しだけその手伝いができたと嬉しかったのに。
リモートライブのチケットの払い戻しが
えらいことになっているらしい。
一方ほづみはニット作家として認められつつあった。
百貨店のリモート催事に参加しないかと言われて
昇天しそうになった。
しかし、話が進んでいくにつれ、
求められるものの枚数と自分が作れる枚数に
差がありすぎるのに気づいて、
誰にも相談できずに一人で棒針を動かす。

(間に合え、間に合え、間に合え……!)

するするする。さらさらさら。
糸はなかなか衣に変わらない。

「ほっちゃん、最近眠れてないんじゃない?」

心配そうに聞いてくる母に、「大丈夫よ」と笑う。
その2週間後。
百貨店のリモート催事の直前にほづみも再発し、
閉鎖病棟に舞い戻ったのだ。


***


「音楽、辞めようと思うんだ」

田崎がほづみに言ってきた。

「知り合いの居酒屋で皿を洗おうと思う」
「るるちゃんのため?」
「それもあるけど、色々メンバーにも迷惑かけちゃって、
俺、あの場所にいていいのかなって、思って……」

フォーエバーウォーカーは田崎の声で持っているところもある。
いなくなれば解散しかないのではないか。

「もう大橋には相談してるんだ。
引き留められているけど、俺抜きで何とかやってくれって」
「私も、もうニット屋さんにはなれないなぁ」

ほづみは初めて人に弱音を吐いた。

「百貨店での失敗……評判になっていると思う。
そもそも、あんな納期であんな量を作るなんて、商売って過酷だわ。」
「障害年金はもらってるんだろう?」
「申請した……今、結果待ちだけど多分もらえると思う」

百貨店には両親が虎屋の羊羹を持って謝罪に行ってくれたという。
バイヤーさんは言ったらしい。

「せめて作った分だけ出してください。
ニコリさんの体調を崩されたエピソードと一緒に売り出せば、
数が少ないこともありますし、高く売れるでしょう」

実力に見合わない価格がついていても、

「話題の謝々ニコリが作った、
フォーエバーウォーカーの大橋着用と類似のニット」

を着たい人はいるのだ。
しかし、それは一過性の人気だ。長く続けられる仕事ではない。

「今回だけは許してもらったけれど、二度と同じ間違いはできないわ。
催事はやめなさい」

と母は言った。
会社勤めもダメ、ニット作家もダメ、自分には何もできない。
元気を出せ、と手を振って田崎は退院していった。
紙芝居を描く気力も、棒針を動かす気力も起こらない。

というか、突起物を持つのは禁止だと
シャーペンも棒針も没収されてしまった。
ほづみはただただ時間を消費した。

その2週間後、田崎がどろっどろの状態の救急搬送で再入院してくる。
ほづみは仰天した。
目に見えない何かと闘って昼夜かまわず暴れる田崎は
隔離室に入れられてしまった。

隔離室にほづみは入ったことがないが、
牢屋のように鉄格子で囲まれたプライバシーの全くない独房らしい。
朝昼晩の食事の際、
各15分しか部屋を出られないという噂は本当のようだ。

「田崎君、皿洗いできなかったらしいね」

るるちゃんがまめに田崎に差し入れを持ってきてくれる。
面会はできない。
若い女性患者がるるちゃんから話を聞いてそっと教えてくれた。

「スポンジに洗剤つけて、皿洗って、すすいで、
乾かしたり拭いたりするのが急ピッチ過ぎたらしいのよ。
ついていけなくてああなったらしいわ」

「早く退院したい」
という家族の意向で田崎は点滴をすることに決まったらしい。
点滴は経口薬と比べて即効性が高い。
するりと症状の治まった田崎は隔離室から脱出してきた。

薬が効きすぎたのか、
幻覚妄想の陽性症状の後の反動で起こる陰性症状か。
言葉を発さない。表情がない。動作までのろい。目が死んでいる。
まるで別人のようだ。
そしてある日、OTのカラオケの後、田崎の顔色が明らかに悪かった。

「どうしたの?」

ほづみは思わず声をかける。

「声が、思うように出ない。
特に高音や、細かいビブラートがわざとらしくなって、
俺の声じゃないみたいだ。」

他人にはどうしようもない事だと分かっていながら田崎は言う。

「るるちゃんが、いるのに。結婚、やっとしたのに。」

向こうのお義父さんに何て言えばいいんだ、と田崎は頭を抱える。
すると、ほづみはなんてことないような顔で言った。

「私も入院するとそうなる。忘れるし。
全ての作業をマニュアル化してあるよ、毎回人生初心者でやりなおしてる」

田崎がびっくりした顔でほづみを見た。

「三十分でできた作業が一日かかるようになるの。
脳が壊れるのよ、当たり前でしょ?
紙芝居を作るのも編み物も自分なりのリハビリよ。
脳に刺激を与えているの」

ほづみの言葉を聞いてしばらく黙って考えていた田崎は、

「明日から面会室で練習する」

と、静かに言った。

「リモートで前に世話になってたボイストレーニングの先生に
また基礎から教えてもらおう」

田崎の心がすこし方向を変えたのが分かった。
大橋に連絡したらしい。

「ほづみさん、田崎にアドバイスありがとう、
注文もあるから退院待ってるよ」

と伝えてと言われたと聞いて涙が出そうになった。

「大橋さんに頼りっぱなしってのは悪い……」
「大丈夫、あいつ映画音楽とか歌手への曲提供とかで稼いでるし、
顔も広いから贈答用に助かるって言ってたよ」

推しが推してくれる幸せ!
また、ほづみは種蒔という入院患者と親しくなった。
還暦を過ぎた、冗談の通じる面白い男性だ。
入院はなんと初めてだという。
体調を整えるため1週間だけ最低限入院し、すぐ出ていくそうだ。

「ピアやWRAPをやっていたから良かったけれど、
ちょっと頑張りすぎちゃったな」

その種蒔を支えたWRAPというのに興味を持った。
種蒔はWRAPファシリテーターと言う資格を持っていて、
WRAPワークショップの運営ができるらしい。
田崎を誘って、やってみることにした。
普段は有料らしいが、入院中で暇だし、タダにしてくれるとのこと。
お礼にジュースとお菓子を渡した。

WRAPはメアリー・エレン・コープランドさんと言う人が書いた、
通称「赤本」(受験みたいね)という本がおおもとになっている。
再発を繰り返していた当事者であるメアリー・エレン・コープランドさんが
「人生が充実している当事者」
に絞ってアンケートを取り、
その結果からあるべき心構えを作って充実した人生を手に入れた、
というWRAPの成り立ちを学んだ。

精神疾患の当人が陥りがちな状況、
その逃れ方を自分で作って「心の処方箋」にして実行する、
そして「いい感じの自分」をキープする……

と説明したら雑にまとめすぎか。

・リカバリーに大切なこと(キーコンセプト)
・注意を払う必要のあること
・元気に役立つ道具箱
・WRAP(Wellness Recovery Action Plan:日常生活管理プラン)
・リカバリートピック

から、成り立っている。
さらにWRAPはアメリカの公的機関から効果が認められている。

「スマホが渡してもらえる時間は30分だから、
参加する時間は限られるけれど、
リモートでWRAPをやるから、参加してみたら」

人数は多くていいらしい。田崎も参加した。
田崎は手ごたえを感じたらしく、
WRAPのあと熱心に種蒔の話を聞いていた。
ほづみも好印象を持った。
WRAPファシリテーターも参加者も、
和やかで穏やかな、いい人が多かった。
友達がいない自分にはそれもありがたかった。
種蒔にそう告げると、電話番号を書いて渡してくれる。

「ピアサポートの当事者が無料で20分間、
悩み相談に乗ってくれるよ。
大谷さんは抱え込んじゃうことが多そうだから、利用してみたら」

後光が刺して見えた。
種蒔さんは本当に1週間で軽やかに退院していった。
一体どこが悪かったのであろうか。

30分のスマホの制限時間を使って検索して、
WRAPをやっている訪問看護ステーションを探す。
退院後、週に何度か訪問看護をしてもらうことにしたのだ。
自分でも前のめりだなと思う。
でも、もう再発したくなかった。
顔通しで面会にやって来てくれたのは、
穏やかでふっくらした人の良さそうな女性だった。

「私も編み物をやっているんですよ、母が一応プロで。
編み物しながら一緒にお話ししましょうね」

味方が増えると、こんなに気持ちが楽になるのか。

それから数日。
食事がささやかにおせち料理風になった。
病棟の中に閉じ込められていると分からないが、年を越えたのだ。
大晦日、みんなが見ていた紅白を田崎は見なかった。

「田崎さん、外出できる?」

ほづみは午後2時に聞いてみた。
外泊許可はまだだが外出許可なら出るそうだ。
るるちゃんは年始の生放送で忙しい。
面会に来るわけにもいかない。
ほづみの家では帰省した兄弟家族と両親が団らんしているだろう。
田崎も暇を持て余しているようだったから声をかけたのだ。

「あの丘の上の神社、行かない?」

私五円払う、俺百円、と言いながら病院から一番近い、
小高い丘の上の小さな神社にたどり着いた。
社務所もないさびれた神社には、正月だというのに誰もいない。

「これが初詣だな」

るるちゃんに夫なしの年越しをさせてしまった。
仕事で忙しいとはいえど、さびしい年末年始だったろう。
こんな事は本当にいけない。
人の目にさらされ、
感情の起伏が激しくなる芸能活動を辞めれば治ると思っていた。
ところが他の仕事はもっと向かなかった。
田崎には歌しかなかったのだ。

「曲調、変えようかなぁ。もっと穏やかに」
「愛の賛歌、受けたでしょ。ああいう感じもいいのかもね」
「大橋に相談してみよう」

と言いながらアイフォンで録音を始める。

「♪つぎはぎだらけの僕の頭、滅茶苦茶な言動行き過ぎて♪」
「♪君と離れて年末年始、罪悪感とさびしさで一杯♪」

急に歌われてほづみはびっくりする。
曲と歌詞は大橋が作るのではないのか。
そうか、これは原石。
歌詞は深められ、音は洗練されるのだろう。

「♪俺はダメな奴なんだって泣いたら君は笑い飛ばしてくれた♪」

おっさんの歌う中2の歌。
確かにフォーエバーウォーカーらしい曲調だ。
多分完成したらもっと洗練ロックサウンドになるのだろうけど。

「♪君の笑顔、君の笑顔、君の涙♪」
「♪僕の涙、僕の涙、僕の笑顔♪」
「♪溶けあってもっともっと二人になる♪」

これはかなりのお年玉である。
ほづみはアイフォンの録音を止める田崎を尊敬の目で見ていた。

大谷ほづみ、三二歳。
何もないチンピラは、歌でも聴いて生きていくしかない。
ふと北野武の映画を思い出した。

「俺たち、もう終わっちゃったのかな。」

田崎幸次、三五歳。
アイフォンを握りしめて俯いているのは、
強くありたいと思っているからだ。
その映画を田崎も覚えていたらしい。

「バカ、まだ始まってもいないぜ。」

二人は街の高台にある神社から、
白い息を吐きながら街並みを見下ろしていた。

【了】

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