「川柳を見つけて-『ふりょの星』『馬場にオムライス』合同批評会」についてのノート

「川柳を見つけて-『ふりょの星』『馬場にオムライス』合同批評会」のアーカイブを何度か聞く。出てきた論点について、私が過去に書いた文で私なりに答えているもの、また他の方が書いているのでヒントになりそうなものをノートとしてリンク。

* 穂村弘さんの川柳観

「現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む―」
https://sctanshi.wordpress.com/critici/ron2/

2001年刊のなかはられいこ『脱衣場のアリス』(北冬舎)所収の座談会(穂村弘・荻原裕幸・倉本朝世・石田柊馬)についての文。穂村弘さんの川柳観、というか、川柳との距離について。22年後の「川柳を見つけて」でも、大筋では変わっていないように思いました。ものすごく乱暴にまとめると、穂村さんのいう「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」のうち、「驚異」だけを純化してとり出したように見える川柳を評価する(というか、「それなら分かる」)という方向。平岡直子さんは同じような方向だった『補遺』の頃の読みから、徐々に暮田川柳を「共感」から読み出している印象でした。
[短歌的な視点からのなかはられいこ『脱衣場のアリス』評は、以下がおすすめ。
 「第14回 なかはられいこ『脱衣場のアリス』」『橄欖追放 東郷雄二のウェブサイト』
 http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran14.html ]


* 「冒涜的」、「原初的可能性の回復」

「俳句時評154回 川柳時評(4) 「高尚」な使命と創作の現場」
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/9d808f3f85065bf2028330a04912ee85

「俳句時評162回 川柳時評(6) 「分からない」問題と「分かる」問題」
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/f270a991ae2272c7e7d986c5a59cad69

「冒涜的」について。穂村さんは短歌では「冒涜的」な作品への批判があると言っていたが、川柳でもある。というか、川柳のほうがモロに政治的にリンクしてわけのわからない批判が来ることがある。短歌だと、短歌界隈内での批判だけでしょ、という気がする(大辻隆弘の「紐育空爆之図の壮快よ~」とか)。暮田川柳(というか、マイナーな「現代川柳」というジャンル)はそうした批判の集まる言説とは今のところ没交渉で、つながりが出来たらけっこう面倒なことになる可能性はもちろんある。

上のテーマとも関係して後半で穂村さんが言っていた「原初的可能性の回復」については、小難しい話を入れると、「神的暴力/神話的暴力」(ベンヤミン)なんかで考えられそう。
[ 参考  「神的暴力 Divine Violence」
https://navymule9.sakura.ne.jp/Zezek_violence08_06.html ]

川合さんがササキリユウイチ『馬場にオムライス』評でイエス・キリストを持ち出したのも、このあたりにつながってくるだろう。

ただし、暮田さんご本人が下の文で考えを述べているので、これを参照したほうがすっきりするかも。

暮田真名「川柳はなぜ奇行に及ぶのか」(関西現代俳句協会ウェブサイト)


ともあれ、川柳人自身が「川柳」の広がりをちゃんと説明できていないので混乱しているなあ、という感じがどうしてもしてしまいますね。平川柳さんと暮田・ササキリのあいだの会話の成り立たなさが印象的でした。最初にあげた記事で下のように書いたままサボっている自分自身を棚に上げて言っているわけですが。

「これは、私が川柳を初めてまだ二年足らずの初心者であるのも一因かも知れないが、「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。少なくとも、同じく言語表現を志す他ジャンルの実践者の疑問に対して、また、川柳の作品の一部を面白いと感じて参入しようとする新人の好奇心に応じて、川柳ジャンルの内部の論理をいたずらに単純化することのないかたちで、川柳はいまこういう姿勢でこういうところを歩いていると示すぐらいに、思考と言葉を鍛えておく必要があるのは間違いない。」

[以下、2023年12月1日追加。]

* 性的な句と775のかたち
郡司さんの指摘に(というか、郡司さんも言っていた通り、見てすぐわかるように)、ササキリユウイチ『馬場にオムライス』の句には明確に性的な(あるいはより広く下ネタの)モチーフや言葉を入れた句や性的テーマを暗示するような句が多い。これを郡司さんのように、子供やおじさんの露悪的な性的発言と「違う」と言い切ることができるかは疑問が残る(ササキリユウイチ第二句集『飽くなき予報』付録栞文、暮田真名の文の末尾を参照)が、川柳の歴史において性的なトピックや暗示は大きな部分を占めるのにもかかわらず、近代の「新川柳」以降は一種の抑圧を受けていたことは事実。古川柳~狂句の性的モチーフを排除することでクリーンな文芸をアピールしたことに一定のメリットはあったのだろうが、一方で、人間の精神・社会において広く浸透しており、個人の生においても避けることが不可能な重要なテーマの近現代の社会での変化を、川柳がつかみ損ねたことの弊害は大きい。

郡司さんの指摘でもう一つ面白かったのは、775のササキリ句に注目していたところ。特に、775の句には、575に加えて77(十四字詩)の調子も感じるという指摘には、なるほどと思った。また、初句を5音から7音に増やすだけで、文脈から逃れる川柳の特質がそがれ、文脈や「私」につかまってしまう、という趣旨のことも出ていた。

性愛テーマと現代川柳における様々な型式の試みは、以下の記事で書いている。

「俳句時評169回 川柳時評(8) 七七/ジュニークと性愛川柳」
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/61f020c1ee52335c5176ce2dc44525d7


* 川柳史と「言語データベース」
質疑応答で、平川柳さん(十八世川柳)が発言したのも面白かった。

「社告 新選者に十八世川柳 平川柳さん /埼玉」(毎日新聞 2023/10/12 地方版)
https://mainichi.jp/articles/20231012/ddl/k11/040/148000c

いや、面白かったというのはどうかな、と思うのは、平さんと暮田・ササキリのやりとりがまったく嚙み合わっていなかったから。古川柳~近現代の文芸としての川柳史や世代論で主役二人の考えを引き出そうとする平さんの説明は丁寧であればあるほど、そもそもそんなことには関心がない、あるいは、文芸史の展開の意義の捉え方が違う暮田・ササキリとの間に壁を作っているように聞こえた。

〈川柳を詩としてやっているのか、散文としてやっているのか〉という問いかけもあったが、私なら「どっちもですよ」あるいは(気分で)「どっちでもいいですよ」と答えるだろう。たぶん暮田・ササキリも同じように認識していると思うのだが、暮田・ササキリにとっては川柳が詩か散文かといった問いはそもそもの始めから眼中になく、他のさまざまな文芸や表現(お笑い、漫画、海外文学、現代思想、など面白いと感じるものなら何でも)との関係で川柳を考えるのが当然で、知的には近代以降の文芸の展開を認識し理解していても体感はできていないので、自分の作品とのかかわりでは咄嗟には答えられないだろう。「西洋の詩を川柳に導入する革新的活動を行っている」と平さんは発言していたが、いまさら「西洋的」(って何?)要素を文芸に入れるのが革新なの?というのが、「Z世代」の反応だろう。

暮田・ササキリがいるパラダイムを郡司さんが「言語データベース」という言葉で表現しようとしていて、「データベース消費」といったテーマに引き付けてそれなりの説明はでっちあげられそうだが、どのぐらい面白い話になるのかは微妙な気がする。「言語データベース」という用語自体がふわふわと使われているので、穂村さんが、俳句の歳時記のようなものなら「言語データベース」だけれども・・・と言葉を濁していたのが正しい反応だろう。川柳の創作・読みで「言語データベース」を使っているとして、それが個々人でバラバラだということも、川合さんが「 魔改造バナナで禁固六ヵ月/ササキリユウイチ」の「魔改造」を最近は使われないといった捉え方をしていたことで明らかになっていた(「魔改造の夜」とNHKのTV番組名などに使われており、この語はむしろかつてより一般へ浸透しているはずだが、その「一般」が一枚岩でないので、知っている人はたまたま知っている、知らない人は知らないというだけ、というのが現状なのだ)。

このあたり、『詩客』の「川柳時評」でもっと書いてみたいところです(でも、書かないかもしれません、言質とらないように!)。

「俳句時評173回 川柳時評(9) 川柳のさまざまな場」
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/7a200d5029c6027b5e0505ef196836fc


* 川柳の「上手い下手」と、一句屹立
池田もとい川合大祐さんのお話は、「句集『馬場にオムライス』には下手な句が多い」という刺激的な発言から始まりまったが、句集そのものにあるパフォーマンス性に合わせたパフォーマンス的展開で楽しめた(「平岡正明みたい」という穂村さんのツッコミも含めて)。ただ単なるパフォーマンスになっていなかったのは、川合さん自身の作句実践・哲学からそれぞれの句の「下手なところ」を、本気で、ていねいに指摘していく部分をとっていたからで、また、川合さん本人が常々「自分は川柳が下手」と言っているように自分についての語りであったからだ。

「言葉の冷凍パッケージング」(川合資料)というような言葉を聞きながら私が考えたのは、短詩型における「一句(一首)屹立」という問題。上の短歌について書いた部分でも、ひとつの歌や句が57577や575の定型によって強度を高められて、ある意味、容易な文脈の侵入を拒絶してあるようなスタイルが近現代の短詩型のひとつの(あくまで、ひとつの)理想形だったわけだが、そうした作者=主体がぎしぎしと定型の中で言葉を締めあげていくような作句はあまり今は好まれていない。で、これをいまだに(褒めことばととってね)やっているのが他ならぬ川合大祐で、だからこそ、ササキリ句を「下手」と断言するパフォーマンスが面白く聞けたわけである(とはいえ、こうしたパフォーマンスはみんなに通用するの、とハラハラでしたけど)。

私としては、助詞止め、連用形止めの多い『馬場にオムライス』のスタイルは、近現代の川柳よりは古川柳から来たスタイルではないかと考えています。連句の平句→前句付と展開して誕生した古川柳は周囲の文脈にもたれるのが基本ですが、近現代に「作者」の意識の誕生とともに、一句の屹立が語られるようになる。それが隘路に入ってきて、その隘路に拘ったり、批評的に相対しようとしているのが、川合大祐やササキリユウイチという川柳作家なのだろう。

池田大祐ネタも、宗教的モチーフや上で言及した「神的暴力/神話的暴力」とかとからめていくと、現在また未来への川柳についての芯を喰った話につながると思うけど、まあ、危ないからなかったことにしよう(笑)。

川柳の「上手い下手」に戻って私見を言うと、こういうタイプの川柳なら、と限定して、発想のキレや言葉の使い方の丁寧さと基準を出して句を評価するのはできなくはないけど、そもそも川柳一般についての上手い下手を判定する基準はない、と考えています。

このテーマについてはネット上で書いていないので、「川柳 一句屹立」で検索して出てきた記事をリンクしておきます。ぼんやりとつながるのでは?

「川柳に関する20のアフォリズム 樋口由紀子」(週刊俳句)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/03/20.html

「戦後俳句を読む(19 – 3) - 戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎【テーマ:1892年】」


「戦後俳句を読む(第8回) ―テーマ:「肉体」その他―」(詩客)
https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/2011-08-19-2104.html
(吉澤さん懐かしいな。どうしてはるんやろ?)


* 短歌と(川柳への接近) 

川柳についてのシンポジウムだったが、短歌についてもずいぶん変化してきているなあと気づくことが多かった。穂村さんは(ものすごく雑に言ってしまいますが)「共感/驚異」のセットの「驚異」を重視していて(「共感」は短歌に勝手についてくるもの、ととらえているのではないか)、その「驚異」を定型で「強度」をあげた言葉で実現したいという短歌観だと思う。ただし、今の短歌は連作を重視し、あるいは生活の「雰囲気」をとらえることを優先して、「強度」の弱い表現をよしとする方向に行っているのではないか。

その意味では、最初にあげた以下の文で穂村・荻原両氏が川柳人二人から苦労して引き出した川柳的要素が、今はむしろ短歌に広くみられるようになってきているということではないか、

「現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む―」https://sctanshi.wordpress.com/critici/ron2/

いま歌人が「驚異」の詩として川柳ジャンルを評価しがちなのも、短歌側の変化が大きいのでは、と感じる。言葉の強度としての短歌なら、塚本邦雄~穂村弘のラインというのが当初の文語・口語やインテリ・大衆といった皮相的な差異を越えて今よく見えるところで、そうした言葉の強度の衝撃が短歌ジャンルにやんわりと、技術として吸収されたのが今の短歌ジャンルだよなと(短歌には技術しか残されていない?)。

考えることは多いですが、とりあえず付け加えるとしたら、石田柊馬さんが近年の川柳について、「柳多留に頭をぶつけだしている」(正確な引用ではないです)といった内容の発言をしていたのを思い出して、ああ、こういうことかあと感心している、というところです。


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