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春の鳥

「どんな風景が好きですかと問われて、実家近くの公園に広がっていたシロツメクサが浮かんだ。いまは嵩上げされて十メートルも地底に埋まってしまったが、たしかにそこにわたしと夫のふるさとがあった。」

瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうた』書肆侃侃房、2021年、p.114



春の鳥 11句

雀交る川遡る波がしら

一握の花 沖にかがやく一処

ふざけたような長い防潮堤を歩く

吾の死と彼らの生と春怒涛

防潮堤を越えれば重機の音がする

記憶は階段のはしに溜まる砂

わだつみが柱に触れた跡がある

俺らは飛んでけるしという春の鳥

ない町を見るある町の音を聞く

波を記憶し大地がせり上がり家は沈む

海沿いの道が途切れて赤いバスは空を走った


 ※


埋められた土地には個人的な思い入れがある。

私が幼年期を過ごした家は南北が下に落ちくぼんだ高い土手のような道沿いに建っていた。家の裏はほぼ垂直のコンクリートの崖になっていて、窓の少し下に棚のような部分があり、温かい日にそこへ降りるとぽかぽかして気持ちよかった(汲み取り式便所の汲み取り穴があり少し臭かったけれど)。下はぼんやりとした畑と草むらがあり、左右に少し家もあって、その向こうのさらに下に、川が流れていた。反対に、玄関から表へ出ると狭い道の向こう側(北側)は大きな低地になっていて、その低地の中の草がまばらな場所が子どもの頃の私たちの遊び場だった。今ではその場所は埋め立てられて、もうない。

地図で調べてみると、南側の川はしばらく北東へ流れたあとぐっと北西へ向きを変える。その流れと、家の前の大きな低地に囲まれるかたちで、古い城があったという。記録には鎌倉時代末期から南北朝時代とあり、その頃は城は小高い山の上に位置していたらしい。そういえば、その低地はお掘りだと聞かされたことがあった。家のあった道は山城に至る尾根だったのだろう。

ただし、私が知っているその低地、少なくとも草が生えていない部分は低い草の生える広場になっていて、ところどころ残る湿地帯を除いては水がなかった。記憶では(幼児の頃の記憶なのであてにはならないが)少なくとも家のある道からは十数メートルは下にあった。人工の堀ではなく、地形を利用して水を溜めて堀として利用したのだろう。低地を越えたところに、いちばん近い電車の駅が見えていた。地図で確認すると家のあった場所(Google Mapのストリートビューで確認すると小さな空き地になっている)から駅までは400メートルはあり、低地は100〜150メートル幅なので、面積としては5000平方メートルはあったと思われる。

思われるというのは、この低地がすでに存在しないからだ(存在しない、というと変な気がする。そのことについては後述)。埋め立てられたその低地の上に、今では、三棟の堂々たる高層集合住宅が建っている。もちろん家があった道からは駅はまったく見えない。

駅前再開発の話題は私がそこに住んでいた1970年代〜80年代初頭にも出ていて、幼い頃に自由に行き来できた場所に急にフェンスが張りめぐらされたりしていたが、81年に私がそこから引っ越してから長くそのままになっていた。中心地に出るために電車に乗るときにはいつも、目をこらして、自分の暮らしていた家が見えるか確かめようとしていた。記憶が薄れてゆくにつれ、また一人で電車に乗ることが増えて家族の「あれだね」と言う声を聞けなくなって、正確な家の位置はだんだんあやふやになっていったが、それでも、低地を越えた道沿いの家々の列を確認することは出来た。

頓挫していたらしい再開発が一気に進んだのは、バブル崩壊後の1990年代後半に入ってからのようだ(バブル期に進めた計画が遅れて実現したのだ)。低地の上に建つ高層マンション群は2003-4年築と不動産情報で出てくる。また子どもの私にはどこまでも続くように思われた駅前の商店街は今は駅から一番遠い西の入口の部分だけが残され、後の部分はどう続いていたか分からないぐらい、雑多な住居・商業ビルが立ち並んでいる。

先ほど、存在しない、というと変な気がする、と書いたのは、私の記憶の中にあるお祭りの日に賑わう商店街や、ふしぎな低地にあった遊び場は、巨大な建築や大量の土砂の下に今も存在していて、子どもの頃の私がそこに落としたものが、今もそこに転がっているかも知れないからだ。一度、少し歳が上のあまり知らないお兄さんに誘われて自転車で低地まで降り、私の力では上まで自転車を持ち上げられなかったことがあった(お兄さんは飽きたのか、さっさと先に帰ってしまった)。あの自転車はちゃんと上にある家にまで帰れたのだったか。

再開発が進んだ頃には、私は、その土地から遠くない今の実家も離れて、京都のボロアパートで暮らしていた。記憶の中の場所が暗いところで眠るようになったのに気づいたのは、再開発がすっかり済んでからだった。大人になったノスタルジアを抱えて数度その駅で降り、見知ったはずの道を歩き回ったが、ここが自分の家があったと確信できる場所に辿り着くまで、いつも、かなりの時間がかかった。

現在はインターネットのおかげで、離れた場所にいても(これをスマートフォンで書いている私は、気仙沼から一ノ関へ向かう電車に、通勤通学の人々と揺られている)、家があった場所にある土がむき出しの小さな空き地を見ることが出来る。だが指先をぐるっと走らせて振り返ると、生垣とその内にそびえ立つマンションが見えるばかりだ。

そこに住む数百の人々には、足下のずっとずっと下の草むらで遊んでいる私の姿は見えないし、想像も出来ない。

(気仙沼から平泉に向かう電車社内にて、2024.2.20)



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